幕間 北の霊峰にて(1)
──同時刻、北の霊峰にて。
「落ち着いて、落ち着いて下さい、うわまた割れた!」
ヒースが暮らした家の、ヒースが丹念に整えていたリビングは、嵐でも通り過ぎたかのように荒れ果てていた。部屋の戸棚の影に隠れた小さな蜥蜴姿の使い魔・ジルが、悲鳴のような声を張り上げる。
「あんた、幾つモノ壊す気ですか!?」
エセルヴォルドを中心に、強い風が渦を巻いている。棚の本が落ち、皿が割れ、エセルヴォルドが覗いていた水鏡もひっくり返り、床一面水浸しだ。けれども、ことを起こしている張本人には、ジルの声などすこしも耳に入っていないようだった。
「……彼に触れた男、名はなんと言いましたか」
「知りませんって! 多分ヒースも聞いてないし! てか手ェ焼かれて懲りない男いないですからね!?」
「生温いことをしました。切り落とすべきでしたね」
「人の話聞いてくれます!?」
エセルヴォルドの表情はいつもと変わらぬ無表情に近いもので、それがかえって恐ろしさを増している。このままでは家ごとなくなりかねない。ジルは必死で声を張り上げた。
「そんな気になるなら、なんで『魔王退治』になんて行かせたんですか……! 狙われまくることは目に見えてたでしょう!」
「……彼はもう十八歳です。自分のことは自分で決める、そういう自由が存在する」
「はいはいご立派な建前ですねェ! じゃあ、自分の身は自分で守らせるべきでは!?」
「彼はまだ人の悪意を……下心を知りません。先程も、抵抗もできず固まっていた。万が一のことがあってはいけない」
「秒で矛盾!」
ジルの見立てでは、ヒースは抵抗『できなかった』のではなく『しなかった』のだし、そういうことをする輩は、一度は痛い目を見たほうが良いのである。ジルは容赦なくツッコミを入れた。
「悪意や下心とやらを知るのも成長でしょう。それともあんた、結局ヒースを囲い込みたいだけなんですか? 結局のところ、清らかなまま、自分のものに……ひえっ!?」
今度は机が燃えた。
「……健全な付き合いであれば、私とて、手を出したりはしませんよ。不埒な相手から弟子を守って何が悪いんです?」
一瞬で消し炭になった長机を見ながら、ジルは「うわ、開き直った」と呆れた声を出す。
「あのですねえ、ヒースももう十八ですよ。『健全じゃない』付き合いだってしたくなる歳です。わかります? もう繁殖可能な歳なんです」
「繁殖」
今度は天井で雷のように火花が散った。そのうち家ごと焼けるかもしれない。けれどもジルは追及の手を緩めない。
「ええ、繁殖です。……だからですね、あなたの望む『健全な付き合い』であっても、例えば、例えばですからね? 怒らないでくださいね? 同い年ぐらいの可愛い女性と良い仲になって、来年には名付け親を頼まれるなんてことも普通に……ぎゃーーーーー!!!」
「……彼の子どもなら、可愛いでしょうね」
「言葉と魔法が一致してねえんだよなあ!?」
隠れていた棚まで焦げ目がついて、ジルはいよいよ悲鳴を上げた。
「マジで、この家が無くなる前に素直になりましょうよお……帰ってきたヒースが泣きますよ?」
「!」
「いや、先にキレるか。その机、ヒースのお気に入りでしたよね? 怒られても知りませんよ?」
「!!」
エセルヴォルドが今更気づいたように机だったものを見下ろして、一瞬、バツが悪そうな顔をする。ジルは深くため息を吐いた。
「……いや、それすら希望的観測ですね。帰ってこない可能性のほうが高いんですから」
「……」
エセルヴォルドは何も言わない。新たに火花が散ることはなく、その眼差しは、ただ静かに己が消し炭にしてしまった机へと向けられている。ジルは続ける。
「王都には、ここにはない、ありとあらゆるものがある。いつか戻って来るつもりでも、知らず知らずのうちに時を過ごしてしまうかもしれない。……そしていつしか、ここのことなど、どうでもよくなってしまうかも」
それは、田舎から都会に出ていく青年の、ごくありふれた未来予想図だった。ジルは尋ねた。
「だから、一応言っておきますけど。……戻ってきて欲しいなら、ちゃんとそう言ったほうがいいですよ。あんたが甘やかしすぎたせいで、多分、全然伝わってないですから」
「何がですか」
「あんたが、ヒースのことを、どれだけ大切にしてるのかってことが」
エセルヴォルドは一度ゆっくり瞬いて、それから、「そうですね」と頷いた。ジルは少し頷いた。自覚があったのか。
自覚があったのに、何も言わなかったのか。……もしかしたら、肝心なことがひとつも伝わっていないこともわかっていて? ジルの疑問を肯定するように、エセルヴォルドは淡々と言う。
「そういうことは、伝わらないぐらいのほうがいいんです」
「はあ? なんでですか」
エセルヴォルドは、先程まで部屋を荒らし回っていたことのほうが嘘だったように冷静だった。
「柵に縛られる不自由は、あの子には、最も相応しくないものです」
それは、確かに、正しい判断だろう。
「……、……あんたは」
けれどもジルは、その、どこまでも『正しい』言い分に少し呆れた。
「まあ、たしかに一理はありますけどね。親の心なんて、子どもは知らないほうがいい。愛は、負い目にも理由にもならないほうがいい。……でも」
ジルは、ヒースのために『作られた』使い魔だ。
ヒースを育てることにしたエセルヴォルドが、自分一人ではどうにもならないと、ヒースの世話をしたり遊び相手をさせたりする意図で作り出した、小さな蜥蜴。子どもの世話をするならもっと大きいほうがよかったはずなのに、慌てていたから作りやすい姿になってしまって、ちいさいヒースがジルの尻尾を気に入って振り回したからそのままになった。
それからジルは、ずっとヒースと一緒だった。エセルヴォルドよりよっぽど親のつもりだ。
だからわかる。
「ヒースは、それを知っていたって……知っているほうが、きっと、ずっと自由ですよ」
エセルヴォルドの眉が、不可解さを示して軽く跳ね上がる。ジルはそれを見て、「はやく帰ってきてくれるといいですね」と、心の底からの祈りとともに、そう言ったのだった。




