18話 晴れ間と古い道
翌朝、雨は上がっていた。
窓の外には、まだ水たまりが残っている。
屋根の端から、ぽたぽたと水が落ちていた。
それでも空は明るい。
雲の切れ間から日が差して、濡れた石畳が少し光っている。
ナオは窓を開けて、外の空気を吸った。
雨のあとの匂いがする。
土と木と、少し冷えた町の匂い。
「今日は外に出られそうだな」
ナオは杖を手に取った。
昨日は雨で、ギルドの資料室整理をした。
紙の森。
リュウがそう言っていた資料室の中で、古い地図を見つけた。
西の村のさらに先にある、古い見張り小屋。
今すぐ行くような場所ではない。
けれど、頭のどこかに引っかかっていた。
いつか行くかもしれない場所。
まだ知らない道。
この町に来たばかりの頃は、宿とギルドとカジノの場所を覚えるだけで精一杯だった。
でも今は、少しずつその外側が気になり始めている。
ナオは部屋を出て、階段を下りた。
宿の入口では、サチが濡れた床を確認していた。
昨日の雨で少し湿っている場所があるらしい。
入口の香り草と花は、雨上がりの空気の中で、いつもよりすっきりした匂いを出していた。
「おはよう」
ナオが声をかけると、サチが振り向いた。
「おはよ、晴れたね」
「ああ」
「今日は外の依頼行けそうだね」
「たぶん」
「また、たぶん」
「ミーがうつったかな」
「それは危ないね」
サチは笑った。
ナオは入口の外を見る。
通りには、昨日よりずっと人が多い。
屋台も戻り始めている。
昨日閉まっていた串焼きの屋台から、煙が上がっていた。
「リュウが喜びそうだな」
ナオが言うと、サチも屋台の方を見た。
「肉?」
「肉」
「リュウ、雨の日に肉なくて残念そうだったもんね」
「今日は朝から2本買うと思う」
「3本かもよ」
「ありそうだな」
2人がそんな話をしていると、階段からリュウが降りてきた。
昨日より機嫌がよさそうだ。
雨が上がったことに気づいたのか、顔が少し明るい。
「おはよう」
ナオが言う。
「おはよう、晴れたな」
「肉の屋台も出てるぞ」
「最高だな」
サチが笑う。
「リュウ、分かりやすい」
「朝は分かりやすい方がいい」
「そういう問題?」
「たぶん」
「ミーみたいになってるじゃん」
リュウは少し首を傾げた。
「ミーって、たぶん多いよな」
「リュウも増えてきたぞ」
「それはまずいな」
「なんでまずいんですかって言われるよ」
「言いそう」
3人で少し笑った。
リュウは入口の外を見て、伸びをする。
「今日は依頼行こうぜ」
「そのつもり」
「外のやつがいいな」
「昨日雨だったから、道は悪いかもしれないぞ」
「そこは止まる練習で」
「滑る練習じゃないからな」
サチがリュウを見る。
「本当に滑らないでよ」
「分かってる」
「何割?」
「今日は9割」
「1割滑るんだ」
「道次第」
「道のせいにしてる」
リュウは笑ってごまかした。
宿を出る前に、サチがナオに声をかけた。
「ナオ」
「ん?」
「昨日言ってた古い見張り小屋って、今日行くわけじゃないよね?」
「行かない」
「ほんと?」
「ああ、今日はギルドで普通の依頼を見るだけだ」
「ならいいけど」
サチは少しだけ真面目な顔をした。
「遠いところ行くなら、ちゃんと言ってよ」
「分かってる」
「急に行って、帰ってくるの遅くなるとか嫌だから」
「ああ」
「何割?」
「10割」
「よし」
サチはそれで少し安心したようにうなずいた。
ナオはその顔を見て、もう一度ちゃんと答える。
「行く時は言う」
「うん」
「帰る予定も言う」
「そこ大事」
サチは軽く笑った。
「じゃあ、今日は普通に行ってらっしゃい」
「行ってくる」
その言葉にも、少しずつ慣れてきた。
でも慣れすぎない方がいいのかもしれない。
ナオはそう思いながら宿を出た。
屋台で串焼きとパンを買う。
リュウは予想通り串焼きを2本買った。
3本ではなかった。
「今日は2本なんだな」
ナオが言うと、リュウは胸を張った。
「我慢した」
「3本目を?」
「そう」
「偉いな」
「止まる練習の成果だ」
「そこにも効くのか」
2人は食べながらギルドへ向かった。
雨上がりの道は、場所によってぬかるんでいる。
リュウは何度か足元を見ながら歩いていた。
本当に少し慎重になっている。
ギルドに入ると、いつものように鈴の音がした。
ちりん。
受付の棚に置かれた木の鳥飾りが、今日も揺れている。
ミーがその横で書類を抱えていた。
「あ、リュウさん、ナオさん、おはようございますです」
「おはよう、ミー」
リュウがすぐに返す。
「おはよう」
ナオも声をかけた。
ミーはリュウの足元を見る。
「滑りませんでした?」
「今日は滑ってない」
「おお、9割成功ですね」
「なんで9割って分かるんだよ」
「顔です」
「ミーまで顔読むようになったな」
「ナオさんとサチさんが言ってそうなので」
「広まってるな」
リュウが少し困った顔をする。
ミーは楽しそうに笑った。
ナオは掲示板を見る。
雨上がりのせいか、外の依頼がいくつか増えていた。
水路の確認。
倒れた枝の撤去。
南の草原のぬかるみ調査。
西の旧道の様子確認。
その文字で、ナオは目を止めた。
「西の旧道?」
ナオが依頼書を見る。
雨のあと、西の旧道で土砂が少し崩れている可能性あり。
旅人や荷車が通る前に、道の状態を確認してほしい。
危険度は低め。
ただし、道が滑りやすいので注意。
場所は町からそれほど遠くない。
西の村へ向かう道の手前にある、今はあまり使われていない旧道の入口付近。
「これ、昨日の地図にあった道か?」
リュウが横からのぞき込む。
「たぶん」
「たぶん出た」
「うつったか」
ミーも依頼書を見た。
「あ、それは古い道ですね、今はあまり使われませんけど、たまに近道にする人がいるみたいです」
「古い見張り小屋の方に続いてる?」
ナオが聞くと、ミーは少し考えた。
「えっと、途中までは同じ方向かもです、でもこの依頼は入口付近の確認だけですよ」
「入口だけか」
「はい、奥まで行く依頼ではないです」
サチに言ったことが頭をよぎる。
遠いところに行くなら、ちゃんと言う。
今日は旧道の入口付近。
見張り小屋まで行くわけではない。
それでも、少しだけ慎重になった。
「これ、日帰りで戻れるよな?」
ナオが確認すると、ミーはうなずいた。
「はい、午前中に出れば昼過ぎには戻れると思います、道がひどくなければ」
「道がひどかったら?」
「無理しないで戻ってきてください」
「分かった」
リュウは依頼書を見ながら言った。
「ちょうどいいんじゃないか?外に出るけど遠すぎないし」
「ああ」
「道の確認なら、戦闘ばっかりでもないし」
「滑るなよ」
「そこは9割」
「10割にしてくれ」
「努力する」
「努力じゃなくて確定で」
ミーが真面目な顔でうなずいた。
「リュウさん、雨上がりの道で滑ると、かっこよくないです」
「かっこよさの問題か?」
「はい、リュウさんはかっこいい方がいいです」
リュウが一瞬固まった。
ナオも少し固まった。
ミーはいつものように、思ったことをそのまま言っただけの顔をしている。
「……そうか」
リュウが少しだけ目をそらす。
「はい」
「じゃあ滑らないようにする」
「10割ですか?」
「10割」
「よしです」
ミーは満足そうにうなずいた。
ナオは笑いをこらえながら、依頼書を受付に出した。
「これ受ける」
「はい、西の旧道の確認ですね」
手続きを終え、2人はギルドを出た。
町の西側へ向かう道は、まだ水たまりが多かった。
昨日の雨で、土が柔らかくなっている。
ナオは杖をつきながら歩く。
リュウはいつもより少し慎重に、足場を選んでいた。
「ミーに言われたからか?」
ナオが聞く。
「何が?」
「滑らないようにしてるだろ」
「依頼だからな」
「かっこいい方がいいって言われたからじゃないのか?」
「それも少しある」
「正直だな」
「今さら隠しても仕方ないだろ」
リュウは少し照れたように笑った。
「でも、ミーって急にああいうこと言うよな」
「思ったことがそのまま出てるんだろ」
「そこが困る」
「嫌なのか?」
「嫌じゃない」
「だろうな」
「その顔やめろ」
ナオは少し笑った。
西門を抜けると、道は町の外へ伸びていた。
前に護衛依頼で通った道とは少し違う。
こちらは古い道らしく、人通りも少ない。
道の脇には草が伸び、ところどころ石が埋まっている。
雨のあとで、土の匂いが濃い。
「旧道って感じだな」
リュウが言った。
「使われなくなった道って、なんか雰囲気あるな」
「好きそうだな」
「ナオも嫌いじゃないだろ」
「まあな」
ナオは周囲を見る。
古い道。
湿った草。
少し傾いた道しるべ。
そこには、かすれた文字で西の村の名前が書かれていた。
その下に、小さく別の文字もある。
雨で削れてほとんど読めない。
もしかすると、古い見張り小屋の方向かもしれない。
「奥までは行かないぞ」
ナオが言うと、リュウは笑った。
「サチに言われたから?」
「言われたからというか、約束したから」
「ちゃんとしてるな」
「そういうのは守る」
「ナオらしい」
リュウは道しるべを見上げる。
「でも、いつかは行くんだろうな」
「たぶんな」
「その時はちゃんと準備して、サチに言って、ミーにも言って」
「ミーにも?」
「ギルドの受付だからな」
「そういうことにしておく」
2人は旧道を進んだ。
しばらくは問題なかった。
ただ、道が少しぬかるんでいて、荷車が通るには厳しそうな場所がいくつかあった。
ナオは依頼書に挟まれていた小さな記録用紙に印をつける。
「ここは要注意だな」
「ああ、車輪が取られそうだ」
リュウがしゃがんで土を見る。
「こういうのも依頼なんだな」
「通る前に分かれば助かる人がいるんだろ」
「護衛の時も思ったけど、冒険者って便利屋っぽいな」
「かなり便利屋だな」
「魔物倒す便利屋」
「道も見る便利屋」
「紙の森も片付ける便利屋」
「虫も逃がす便利屋」
2人は少し笑った。
その先で、道の片側が少し崩れていた。
崖というほどではないが、斜面の土が流れ、道幅が狭くなっている。
荷車が通るには危ない。
人が歩くなら、注意すれば通れそうだ。
「ここだな」
ナオが言う。
「報告した方がいいな」
リュウは斜面を見下ろす。
「下に何かある」
「何?」
ナオも近づく。
崩れた土の下の方に、木の板のようなものが見えた。
雨で土が流れて、隠れていたものが出てきたらしい。
板には、古い文字が刻まれている。
かなり汚れていて読みにくい。
「道しるべか?」
リュウが言う。
「古そうだな」
「降りるか?」
「危ない」
「ちょっとだけ」
「滑るぞ」
「10割滑らない」
「さっきまで9割だっただろ」
「ミーに言われたから10割」
「都合がいいな」
ナオは斜面を見る。
急ではないが、雨のあとでかなり滑りそうだ。
降りるなら慎重に行く必要がある。
依頼は道の確認だ。
無理に板を取る必要はない。
ただ、あれが古い道しるべなら、ギルドに報告する価値はあるかもしれない。
「俺が支えるから、少しだけ近くで見る」
ナオが言うと、リュウが首を振った。
「ナオが行くのか?」
「杖がある」
「体重あるから滑ったら止まらないぞ」
「そこ言うか」
「俺が行く、軽いし」
「滑るなよ」
「10割」
リュウは木の根をつかみながら、斜面を少しだけ下りた。
ナオは上から杖を伸ばし、リュウがつかめるようにする。
「無理するな」
「分かってる」
「板だけ見たら戻れ」
「分かってるって」
リュウはしゃがんで、板の泥を少し払った。
文字が少し見える。
「読めるか?」
ナオが聞く。
「えっと……見張り……小屋……」
リュウが目を細める。
「やっぱりか」
「あと、古い街道って書いてあるっぽい」
「街道?」
「たぶん」
「たぶんうつってるぞ」
「仕方ないだろ、読みにくいんだから」
その時、リュウの足元の土が少し崩れた。
「うおっ」
「リュウ!」
ナオはすぐに杖を差し出す。
リュウがそれをつかむ。
足が滑り、体が少し斜面を下る。
ナオは踏ん張った。
体に重さがかかる。
「くっ」
腕に力を入れる。
その瞬間、ナオは魔力を流した。
押し出すのではなく、地面に置く。
リュウの足元に、小さな光が広がる。
「はぁぁっ!」
光が薄い膜のようになり、滑る土の上でリュウの足を少し受け止めた。
完全ではない。
でも、勢いが止まる。
リュウは体勢を立て直し、杖をつかんだまま上へ戻ってきた。
「危なっ」
リュウは道の上に戻ると、大きく息を吐いた。
「10割じゃなかったな」
ナオが言うと、リュウは気まずそうに笑った。
「9割5分くらいだった」
「滑った時点でだめだろ」
「でも止まった」
「それはそうだな」
ナオも息を吐いた。
今のは危なかった。
でも、昨日練習した光を置く感覚が、少し役に立った。
攻撃ではない。
支援とも違う。
足場を作るような感覚。
まだ名前は分からない。
でも、使い方は少しずつ増えている。
「ナオ、今のすごかったな」
リュウが言った。
「俺もよく分かってない」
「でも止まった」
「ああ」
「止まる練習、ナオも成果出てるな」
「そうだな」
2人は斜面にはそれ以上近づかず、記録用紙に詳しく書き込んだ。
道幅が狭くなっていること。
土が崩れやすいこと。
古い道しるべらしき板が出ていること。
見張り小屋と古い街道の文字が読めたこと。
奥へは行かず、ここで引き返す。
それが今日の判断だった。
「奥、気になるな」
リュウが旧道の先を見る。
道は草に覆われながら、さらに西へ続いている。
濡れた木々の間へ、細く消えていくように見えた。
「気になるけど、今日は行かない」
ナオは言った。
「サチとの約束か」
「それもあるし、準備不足だ」
「まあな」
「道も悪い」
「俺も滑ったしな」
「自覚あるならいい」
リュウは少し笑った。
「じゃあ戻るか」
「ああ」
帰り道、リュウはいつもより静かだった。
さっき滑ったことが少し効いているのかもしれない。
ナオも足元を確認しながら歩く。
雨上がりの旧道は、思った以上に危険だった。
ただ歩くだけなら問題ない。
でも、少し無理をするとすぐに足を取られる。
冒険とは、魔物や盗賊だけではない。
道そのものも、十分に危険なのだ。
町の門が見えた時、リュウがようやく口を開いた。
「ミーに滑ったって言うべきかな」
「言わなくてもいいんじゃないか」
「でも、報告で道が滑るって言うだろ」
「お前が滑ったとは言わなくてもいい」
「ナオ、優しいな」
「言ったら面倒になりそうだからな」
「それはある」
ギルドに戻ると、ミーが受付で木の鳥飾りを磨いていた。
いや、また磨いていた。
ナオは少し笑いそうになる。
「あ、おかえりなさいです」
ミーが顔を上げる。
「リュウさん、ナオさん、旧道どうでした?」
「道、かなり悪かった」
ナオが記録用紙を渡す。
「崩れてる場所があって、荷車は危ない」
「そうなんですね」
「あと、古い道しるべが出てた」
「道しるべですか?」
「見張り小屋と古い街道って読めた」
ミーの耳がぴこっと立った。
「本当ですか?」
「ああ」
「古い地図とつながってるかもですね」
「たぶん」
「ナオさんも、たぶん増えましたね」
「うつった」
ミーは少し嬉しそうに笑った。
リュウは横で黙っている。
ミーはすぐにそれに気づいた。
「リュウさん、静かですね」
「そうか?」
「はい、いつもより8割静かです」
「細かいな」
「何かありました?」
「いや、別に」
ミーはじっとリュウを見る。
「滑りました?」
リュウが固まった。
ナオも少し固まった。
「なんで分かるんだよ」
「顔です」
「顔か」
「あと、靴に泥がついてます」
「それは道が悪かったから」
「ズボンにもついてます」
「……少し滑った」
ミーは目を丸くした。
「転びました?」
「転んではない」
「怪我は?」
「ない」
「よかったです」
ミーは本当にほっとした顔をした。
リュウは少し言葉に詰まる。
「心配した?」
「しますよ、リュウさんはすぐ前に出そうなので」
「今日は斜面に出た」
「それは前じゃなくて下です」
「言い方が」
ナオはつい笑ってしまった。
ミーも少し笑った。
「でも無事ならよかったです、滑る練習は危ないので、しないでください」
「しない」
「何割?」
「10割」
「今度こそ信じます」
「何割?」
「9割です」
「1割疑ってるな」
「はい」
リュウは苦笑した。
報告を終えると、ミーは旧道の記録を別の書類に写し始めた。
「これ、ガルドさんにも伝えた方がいいかもです」
「なんで?」
ナオが聞く。
「古い見張り小屋の方、たまに魔物の通り道になってるって聞いたことがあります」
「魔物の通り道?」
「はい、でも私も詳しくないので、聞いてみます」
「頼む」
「忘れないようにします」
「何割?」
「今日は10割です」
「本当か?」
「たぶん」
「もう崩れてるぞ」
ミーは自分で言って笑った。
リュウも笑った。
ギルドを出ると、夕方にはまだ早かった。
雨上がりの町は、少しだけ蒸し暑い。
カジノの看板はまだ光っていない。
リュウはそちらをちらっと見たが、すぐに目を戻した。
「今日は行く気分じゃないな」
「珍しいな」
「滑ったからな」
「関係あるのか?」
「ちょっと反省してる」
「本当に成長してるな」
「だろ?」
「でも、反省してる時点で偉い」
「サチみたいに褒めるな」
2人は宿へ向かった。
入口ではサチが花の水を替えていた。
ナオたちを見ると、すぐに顔を上げる。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早いね」
「旧道の確認だけだったからな」
サチの表情が少し変わった。
「旧道?」
「ああ、昨日の見張り小屋の方に続いてる道の入口付近」
「奥まで行ってないよね?」
「行ってない」
「ほんと?」
「約束しただろ」
サチはナオの顔を見た。
それから少し安心したように息を吐いた。
「ならいい」
「ただ、道が少し崩れてた」
「危なかったの?」
「危ない場所はあったけど、無理はしてない」
ナオが言うと、リュウが少しだけ目をそらした。
サチはそれを見逃さなかった。
「リュウ、何かした?」
「何も」
「その顔は何かした顔」
「なんでみんな分かるんだよ」
「分かりやすいから」
ナオは少し迷ったが、正直に言うことにした。
「少し斜面で滑った」
「リュウが?」
「俺が」
リュウが答える。
サチは眉を上げた。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「10割ない」
「それはよかったけど、危ないことしないでよ」
「はい」
リュウが素直に返事をしたので、サチは少し驚いた顔をした。
「今日は素直だね」
「反省してるからな」
「じゃあ本物だ」
サチは少し笑った。
ナオは宿の入口に立ち、香り草の匂いを感じた。
今日、旧道の先に行くこともできた。
リュウが滑ったあとでも、無理をすれば進めたかもしれない。
でも、戻ってきた。
サチに言った通り、奥までは行かなかった。
それだけのことなのに、少し胸が軽かった。
「ちゃんと戻ったな」
サチが言った。
「戻った」
「それならいい」
サチはそう言って、香り草の横の花を少し整えた。
「見張り小屋、いつか行くの?」
「行くと思う」
「やっぱり」
「でも、ちゃんと準備してからだ」
「私にも言ってから?」
「ああ」
「ならいい」
サチは軽く笑った。
「その時は、帰ってくる予定もちゃんと言ってね」
「分かった」
「何割?」
「10割」
「よし」
リュウは横で小さく笑った。
「ナオも管理されてるな」
「お前ほどじゃない」
「俺はミーとサチとナオに管理されてる」
「自覚あるのか」
「最近ある」
サチが吹き出した。
「それは成長だね」
「だろ?」
「でもカジノは?」
「今日は行かない」
「ほんと?」
「10割」
リュウは少し間を置いてから言った。
「たぶん」
「今たぶん付けた」
「正直に言った」
「じゃあ、行きたくなったら一回宿の前まで戻ってきてから考えな」
「それ、戻るの面倒で行かなくなるやつだな」
「そうだよ」
サチは笑った。
ナオも笑った。
その夜、2人は食堂で飯を食べた。
リュウは斜面で滑った話を少し大げさにしようとして、ナオに止められた。
カジノには行かなかった。
旧道の先。
古い見張り小屋。
魔物の通り道かもしれない場所。
そこには、いつか行くことになる気がした。
でも今日は、行かなかった。
戻る判断をした。
それも冒険者として、大事な一歩なのだと思う。
ナオは食堂の窓から、夜の町を見た。
カジノの光が少し遠くで揺れている。
宿の方には、香り草と花がある。
ギルドには、ミーの木の鳥飾りがある。
西には、まだ知らない旧道が続いている。
この町での日々は、少しずつ外へ広がり始めていた。
けれど、広がるたびに戻る場所もはっきりしていく。
行きたい場所が増える。
帰りたい場所も増える。
それはたぶん、この世界で生きていくということなのだろう。
ナオは水を飲み、リュウを見る。
リュウは肉を食べながら、少しだけ足を気にしていた。
「痛むのか?」
「いや、泥がまだ残ってる気がする」
「風呂入れ」
「そうする」
「滑るなよ」
「風呂で?」
「念のため」
「そこまで信用ないのか」
「9割くらい」
「微妙だな」
2人は笑った。
雨上がりの旧道。
古い道しるべ。
そして、行かずに戻った判断。
派手な出来事ではなかった。
でも、ナオの中にはちゃんと残った。
進むだけが冒険じゃない。
戻ることも、止まることも、たぶん同じくらい大事だ。
そのことを、少しずつ覚えている。
明日、何があるかは分からない。
でも今日もまた、ちゃんと帰ってきた。
それだけで、今は十分だった。




