17話 雨の日の依頼
次の日の朝、町には細い雨が降っていた。
窓の外がいつもより暗い。
屋根を叩く雨音が、静かに続いている。
ナオはベッドの上で少しだけその音を聞いていた。
雨の日の朝は、元の世界でも少し動き出しづらかった。
この世界でも、それは変わらないらしい。
「……今日は外、面倒だな」
ナオは小さくつぶやいて、体を起こした。
昨日は角ウサギを倒さずに林へ追い払い、ギルドでミーとリュウが少し変な空気になり、宿ではサチと香り草の話をした。
カジノには行かなかった。
最近、行く日と行かない日の差が少し出てきた気がする。
それがいいことなのか、我慢しているだけなのかは分からない。
ただ、エルの袋が急に軽くなっていないことだけは確かだった。
ナオは杖を持ち、部屋を出た。
階段を下りると、宿の入口でサチが外を見ていた。
入口近くの香り草と小さな花は、雨の湿気のせいか少し匂いが強くなっている。
「おはよう」
ナオが声をかけると、サチが振り向いた。
「おはよ、今日は雨だね」
「ああ、結構降ってるな」
「こういう日は冒険者って休み?」
「どうだろうな」
「知らないんだ」
「まだ雨の日の依頼はあんまり経験ない」
「そっか」
サチは外へ目を戻した。
道を行く人は少ない。
屋台も、いつもより数が少なかった。
荷車を押す人も、布をかぶせて急ぎ足で歩いている。
「今日は無理しなくていいんじゃない?」
サチが言った。
「軽い依頼だけ見る」
「それ、最近よく聞くけど、軽い依頼が軽く終わらないこと多くない?」
「たしかに」
「トカゲとか、魔物とか、護衛とか」
「雨なら屋内の依頼もあるだろ」
「ならいいけど」
サチは少しだけ眉を寄せる。
「外に出るなら滑らないようにね」
「分かってる」
「リュウにも言って」
「たぶん聞かないぞ」
「ナオが言えば半分くらい聞くでしょ」
「半分か」
「半分でも大事」
その時、階段からリュウが降りてきた。
まだ少し眠そうな顔をしているが、雨音に気づいたのか、外を見てすぐに顔をしかめた。
「雨かよ」
「おはようより先にそれか」
ナオが言うと、リュウは片手を上げた。
「おはよう、で、雨かよ」
「順番を直しただけだな」
サチが笑う。
「今日は休む?」
リュウは少し考えた。
「ギルドは行く」
「雨でも?」
「屋内の依頼あるかもしれないし」
「カジノも屋内だよね」
サチが言うと、リュウは一瞬だけ黙った。
「……ギルドに行く」
「今、考えたよね」
「考えてない」
「顔が考えてた」
「みんな顔読むの上手くなってるな」
「リュウが分かりやすいだけだよ」
リュウは少し不満そうにしながらも、反論はしなかった。
ナオとリュウは宿を出た。
サチに渡された古い布を頭にかけ、雨を避けながら屋台へ向かう。
いつもの串焼きの屋台は出ていなかった。
代わりに、屋根付きの小さな売り場で、温かいスープと硬いパンを売っていた。
「肉がない」
リュウが残念そうに言う。
「雨の日くらい諦めろ」
「肉は天気に負けない」
「屋台は負けてる」
2人はスープとパンを買い、屋根の下で軽く食べた。
スープは薄味だったが、雨の日にはちょうどよかった。
体が少し温まる。
ギルドへ向かう道はぬかるんでいた。
リュウが何度か滑りかける。
「滑るなよ」
ナオが言うと、リュウは足元を見た。
「分かってる」
「何割?」
「今日は7割」
「低いな」
「道が悪い」
「自分のせいじゃないみたいに言うな」
ギルドに入ると、中はいつもより混んでいた。
雨で外の依頼が少ないせいか、冒険者たちが掲示板の前に固まっている。
受付の方から、ちりんと鈴の音がした。
ミーが木の鳥飾りに触れてしまったらしい。
耳がぴこっと動く。
「リュウさん、ナオさん、おはようございますです」
ミーがこちらに気づいて手を振った。
「おはよう、ミー」
リュウが返す。
「おはよう」
ナオも軽く手を上げた。
ミーはリュウの足元を見る。
「リュウさん、雨で滑りませんでした?」
「少しだけ」
「転びました?」
「転んではない」
「おお、止まる練習の成果ですね」
「滑るのと止まるのは違うだろ」
「でも止まれたんですよね?」
「まあ、止まれた」
「じゃあ成果です」
ミーは真面目な顔でうなずいた。
リュウは何か言い返そうとして、やめた。
最近、ミーの変な納得に付き合うのが少し上手くなってきている。
「今日は屋内の依頼ある?」
ナオが聞くと、ミーは書類を確認した。
「あります、雨の日なので、倉庫整理とか、ギルド内の資料運びとか、あと訓練場の床ならしです」
「床ならし?」
「昨日の雨で土が少し変になったみたいです」
「屋内じゃないな」
「屋根はあります」
「半分屋内か」
「半分屋内です」
ミーはなぜか胸を張った。
リュウが掲示板を見る。
「資料運びって楽そうじゃないか?」
「紙を運ぶだけならな」
ナオが言う。
ミーは少しだけ目をそらした。
「えっと、資料室がちょっと散らかってます」
「ちょっと?」
リュウが聞く。
「少しです」
「ミーの少しは信用していいのか?」
「8割くらいです」
「怪しいな」
ナオは依頼書を見る。
ギルド資料室の整理。
古い依頼記録と地図を棚ごとに分け直す。
報酬は少ない。
危険度はない。
ただし、時間がかかる可能性あり。
「今日はこれでいいか」
「雨だしな」
リュウもうなずいた。
ミーは嬉しそうに手続きを始めた。
「助かります、実は資料室、誰もやりたがらないんです」
「なんで?」
リュウが聞く。
「紙が多いからです」
「そのままだな」
「あと、たまに変な虫が出ます」
「危険度ないって書いてあるぞ」
「虫は危険度に入らないみたいです」
「人によるだろ」
ナオは苦笑した。
手続きを終えると、ミーが資料室まで案内してくれた。
ギルドの奥の廊下を進み、古い木の扉を開ける。
中には棚が並んでいた。
紙束。
巻かれた地図。
古い依頼書。
木箱。
そして床に積まれたままの資料。
ちょっと散らかっている、という表現では済まない。
「ミー」
ナオは部屋の中を見ながら言った。
「はい」
「これは、ちょっとじゃない」
「えっと、ギルド基準ではちょっとです」
「便利な基準だな」
リュウが部屋をのぞき込む。
「これ、終わるのか?」
「終わります、たぶん」
「たぶんか」
「今日中に全部じゃなくて、ここの山を3つ整理すれば依頼完了です」
「ならまあ」
ナオは杖を壁に立てかけ、袖をまくった。
魔物はいない。
戦闘もない。
ただ紙を整理するだけ。
それも冒険者の仕事らしい。
「じゃあ始めるか」
「おう」
リュウは床に積まれた紙束を持ち上げた。
その瞬間、下から小さな虫が1匹出てきた。
「うおっ」
リュウが後ろに下がる。
ミーの耳もぴんと立った。
「あ、出ました」
「出ましたじゃない」
「大丈夫です、たぶん噛みません」
「たぶんばっかりだな」
ナオは紙を1枚使って虫をそっとすくい、窓の外へ逃がした。
「倒さないんですね」
ミーが言う。
「虫まで倒さなくていいだろ」
「ナオさんらしいです」
「虫相手にまで言われるのか」
リュウは少しだけ距離を取っていた。
「リュウ、虫苦手なのか?」
「別に苦手じゃない」
「下がったぞ」
「急に出たからだ」
「剣士なのに」
「剣で虫とは戦わない」
ミーが真面目な顔でうなずいた。
「リュウさん、虫相手にも止まる練習ですね」
「それは違う」
「違いますか?」
「違う」
「じゃあ、虫と距離を取る練習です」
「もう何でも練習にするな」
ミーは楽しそうに笑った。
3人で資料を整理していく。
ミーは案内役のはずだったが、気づけば一緒に紙を分けていた。
ただ、時々分類を間違える。
「ミー、それ地図じゃなくて請求書だぞ」
リュウが言うと、ミーは紙を見直した。
「あ、ほんとです、線がいっぱいあったので地図かと思いました」
「金額の線だな」
「金額も道みたいに見えませんか?」
「見えない」
「少しだけ」
「見えない」
リュウは呆れながらも笑っていた。
ナオは古い依頼記録を棚に入れていく。
そこには、過去の護衛依頼や討伐依頼の記録が残っていた。
西の村への護衛。
北の森の魔物調査。
東の川沿いの荷運び。
知らない地名がいくつもある。
この町の周りにも、まだ行ったことのない場所がたくさんあるのだと分かる。
「ナオさん、何見てるんですか?」
ミーがのぞき込む。
「古い依頼記録」
「面白いですか?」
「知らない場所が多いなと思って」
「ああ、この辺りは町の外にも村とか森とか川とかありますからね」
「ミーは行ったことあるのか?」
「えっと、近くの村にはあります、でも遠いところはあんまりです」
「そうなんだ」
「受付なので、基本はギルドにいます」
「外に出たいとか思わないのか?」
ナオが聞くと、ミーは少しだけ考えた。
「たまには思います、でも道に迷いそうなので」
「それはありそうだな」
リュウが言う。
「ひどいです、リュウさん」
「でも否定できるか?」
「……半分くらいできます」
「半分は迷うんだな」
ミーは少し恥ずかしそうに耳を伏せた。
リュウは笑ったが、その顔は優しかった。
「まあ、外に出る時は誰かと一緒ならいいんじゃないか」
「誰かと?」
「ああ」
「リュウさん、案内してくれますか?」
ミーは何気なく聞いた。
リュウは紙束を持ったまま固まった。
「俺?」
「はい、リュウさんは速いので」
「速いと案内できるは別だぞ」
「でも、迷っても早く戻れそうです」
「発想が雑だな」
「だめですか?」
「だめじゃないけど」
リュウは少し視線をそらした。
「まあ、いつかなら」
「いつかですね」
ミーは嬉しそうに笑った。
ナオは見ないふりをして、紙束を棚に入れた。
雨音が窓の外で続いている。
資料室の中は紙の匂いと、少し湿った木の匂いがした。
派手な依頼ではない。
でも、こういう時間も悪くない。
しばらく作業をしていると、1枚の地図が出てきた。
かなり古い。
紙の端が少し破れている。
そこには町と、周辺の村、森、川、山道が描かれていた。
ナオは手を止める。
「これ、古い地図か?」
ミーがのぞき込む。
「あ、それはたぶん昔の周辺地図です」
「今と違うのか?」
「道が変わってたり、今は使われてない小屋とかあります」
リュウも横から見る。
「この先って何だ?」
リュウが地図の西側を指さした。
そこには、細い道の先に小さな印があった。
文字はかすれて読みにくい。
ただ、村よりもさらに先にあるように見える。
「古い見張り小屋……かな?」
ミーが目を細める。
「見張り小屋?」
「昔、街道を守るために使ってた小屋があったって聞いたことあります、今は使われてないと思いますけど」
「へぇ」
リュウの目が少し興味を持った。
ナオも地図を見る。
この前行った西の村より、さらに先。
そこに古い見張り小屋。
今すぐ行くような場所ではない。
でも、いつか行くかもしれない場所。
そんな感じがした。
「ナオさん、興味あります?」
ミーが聞く。
「少しな」
「リュウさんも?」
「少しな」
リュウが答える。
ミーは2人を見て、少しだけ笑った。
「2人とも、外に行く顔してます」
「どんな顔だよ」
リュウが言う。
「えっと、冒険者っぽい顔です」
「俺たち冒険者だけどな」
「そうでした」
「忘れるなよ」
ミーは照れたように笑った。
ナオは古い地図を丁寧に丸めた。
「これはどうする?」
「古地図の棚です」
「そんな棚あるのか」
「あります、たぶん」
「案内してくれ」
「はい、こっちです」
ミーは奥の棚に向かって歩き出した。
そしてすぐに別の紙束につまずきそうになった。
リュウがとっさに手を伸ばす。
「危ない」
「あ、ありがとうございますです」
「足元見ろよ」
「地図の棚を見てました」
「足元も見ろ」
「はい」
ミーは少し恥ずかしそうに笑った。
リュウはその手をすぐに離したが、少しだけ照れたような顔をしていた。
ナオはやっぱり見ないふりをした。
昼過ぎまで作業を続け、ようやく指定された3つの山が片付いた。
部屋の中は、最初よりかなりましになっている。
床が少し見えるようになっただけでも、だいぶ違う。
「終わった……」
リュウが椅子に座り込む。
「戦闘より疲れたかも」
「紙との戦いだったな」
ナオも肩を回した。
ミーは棚の前で満足そうにうなずく。
「すごいです、資料室が資料室みたいです」
「今までは何だったんだよ」
「紙の森です」
「言い方はちょっといいな」
リュウが笑った。
受付に戻ると、ミーが報酬を用意してくれた。
少ないが、雨の日に屋内で稼げたなら悪くない。
「今日はありがとうございましたです、リュウさん、ナオさん」
「どういたしまして」
ナオが言う。
「紙の森、また増えたら呼んでくれ」
リュウが言うと、ミーは目を輝かせた。
「いいんですか?」
「いや、そんな全力で喜ぶと思わなかった」
「資料室、みんな嫌がるので」
「また雨の日ならな」
「約束です」
「雨の日限定だぞ」
「はい、雨の日のリュウさんです」
「なんか変な呼び名が増えたな」
ミーは楽しそうだった。
リュウも、文句を言いながら悪い気はしていなさそうだった。
ギルドを出ると、雨はまだ降っていた。
朝よりは弱くなっている。
町の道には水たまりがいくつもできていた。
カジノの看板は昼でも少し光っている。
雨の日だからか、中にはいつもより人が多そうだった。
リュウが一瞬そちらを見る。
ナオも見た。
「雨の日のカジノは混んでそうだな」
リュウが言う。
「だろうな」
「屋内だし」
「そうだな」
「……行く?」
ナオは少し考えた。
今日は資料整理だけで、大きな危険はなかった。
報酬も少ない。
エルを増やしたい気持ちはある。
でも、雨の日の混んだカジノは、なんとなく長く居座ってしまいそうな気がした。
「今日はやめておこう」
ナオが言うと、リュウは少し驚いた顔をした。
「即答じゃないんだな」
「ちょっと迷った」
「正直だな」
「正直に言った方が止まれる気がする」
「それはある」
リュウはカジノの看板をもう一度見た。
それから、息を吐く。
「じゃあ今日は飯だな」
「まだ早いぞ」
「雨の日は腹が減る」
「それはリュウだけじゃないか?」
「ミーも言いそう」
「言いそうだな」
2人は笑いながら宿へ戻った。
宿の入口では、サチが床に入ってきた雨水を拭いていた。
「あ、おかえり、雨大丈夫だった?」
「少し濡れた」
ナオが答える。
「今日は何したの?」
「ギルドの資料室整理」
「え、冒険者ってそんなこともするの?」
「するみたいだな」
「雨の日っぽい依頼だね」
「紙の森だった」
リュウが言うと、サチは首を傾げた。
「紙の森?」
「資料室が紙の森だった」
「なんとなく分かるような、分からないような」
サチは笑いながら、ナオの肩のあたりを見た。
「ちょっと濡れてる」
「すぐ乾くだろ」
「風邪ひくよ」
「大丈夫」
「そういうのが1番信用できない」
サチは宿の奥から乾いた布を持ってきて、ナオに渡した。
「拭いて」
「ありがとう」
ナオは布を受け取って、肩や髪を軽く拭いた。
サチはリュウにも布を渡す。
「リュウも」
「俺も?」
「見れば分かるでしょ、濡れてる」
「ありがと」
リュウは布で髪を拭きながら言った。
「今日、カジノ行かなかった」
「えらいじゃん」
サチが即答する。
「雨の日なのに」
「雨の日なのに?」
「屋内だから行きやすいかなって思ったけど、行かなかった」
「それはかなりえらい」
「だろ?」
「半分くらい見直した」
「半分か」
リュウは笑った。
ナオは布を返しながら、サチに今日見つけた古い地図の話をした。
「西の村のさらに先に、古い見張り小屋があるみたいだ」
「見張り小屋?」
「昔使ってた場所らしい」
「行くの?」
「今すぐじゃない」
「今すぐじゃないってことは、いつか行きそうだね」
「たぶん」
サチは少しだけ外の雨を見る。
「遠くに行く場所、増えていくね」
「そうだな」
「帰ってくる場所も忘れないでよ」
その言葉は、軽く言ったようで軽くなかった。
ナオはうなずいた。
「忘れない」
「何割?」
「10割」
「よし」
サチは安心したように笑った。
雨は夕方まで続いた。
ナオとリュウは近くの食堂へ行くのも面倒になり、屋根のある通りの店で温かいスープとパンを買って済ませた。
カジノには行かなかった。
雨の中、カジノの光だけはいつも通り明るかった。
でも今日は、その光が少し遠く見えた。
宿に戻り、ナオは入口の香り草と花を見る。
雨の日でも、そこだけ少し明るい。
自分が持ち帰ったものが、宿の一部になっている。
それを見ると、遠くへ行くことと、ここへ戻ることが同じ線でつながっているような気がした。
今日は紙の森を片付けただけの日だった。
魔物も出なかった。
戦闘もなかった。
でも、古い地図を見つけた。
まだ知らない道を知った。
雨の日でも、世界は少しずつ広がっている。
ナオは部屋に戻り、杖を壁に立てかけた。
雨音はまだ続いている。
明日晴れたら、また外に出る。
雨が続けば、また何か別の依頼を探す。
どちらにしても、この世界での日々は続いていく。
行って、止まって、帰ってくる。
その繰り返しの中で、ナオたちは少しずつ冒険者になっていくのだと思った。




