第44話 名を得た日、その直後
昨日は、任命式があった。
名を与えられ、男爵として立たされ、
そのまま、国王主催の夜会へと向かった。
――考える暇もないまま、一日が終わった。
身体は重いが、昨日の混乱は抜けていた。
息を吸うと、胸のざらつきがわずかに薄れる。
起き上がり、窓の外を見る。
城の庭が静かに広がっていた。
「……」
昨日のことを思い返す。
王の言葉。
アデルの視線。
エルミナ公爵の声。
どれも胸の奥に残ったまま、沈んでいる。
……やっていけるのか。
貴族として、あの場所で、見られる側として。
考えようとすると、うまく形にならない。
正しい振る舞いも、選ぶべき言葉も、まだ掴めていない。
それでも――立たなければならない。
昨日、自分が立っていた場所に。
手のひらに力が入る。
怖くないわけではないが、背を向ける理由にはならない。
ふと、頭に浮かぶ。
ビビの顔。
ラーラが見てくれていると分かっている。
「……会いたい。とりあえずご飯に行こう」
小さく、呟く。
思い出すだけで、呼吸が少し整う。
♦︎
食堂へ向かう廊下を歩きながら、ゆっくりと意識が現実に戻っていく。
さっきまでの静けさとは違う、日常の音が近づいてくる。
扉を開けると、中にはすでにルークとラーラの姿があった。
二人とも席についている。
いつもと同じ配置。
――ただ、昨日までとは意味が違う。
「眠れたか?」
ルークが言う。
「うん、大丈夫だよ」
短く返し、席につく。
そのとき。
フードの内側で、わずかな動き。
「……?」
肩口が、少しだけ揺れる。
ビビだ。
普段なら、まだ眠っている時間。
それなのに――
落ち着かない様子で、もぞもぞと動いている。
フードの縁から、顔だけを出す。
黒い瞳が、じっと空間を見ている。
「どうしたの?」
指先でそっと撫でる。
だが、いつもなら落ち着くはずの動きに、反応しない。
小さく、鳴く。
――きゅっ
短い、警戒の音。
尻尾が、わずかに膨らんでいる。
「……」
ただの寝起きじゃない。
何かを、見ている。
何もないはずの空間を。
一瞬だけ、視線を巡らせる。
食堂。
いつもと同じ光景。
異常は、ない。
「……気のせい、かな」
そう呟くと、
ビビはすぐにフードの奥へ潜り込んだ。
けれど――
完全には落ち着いていない。
奥で、小さく体を丸めたまま、
動かない。
用意された朝食に手を伸ばす。
温かいスープの湯気が、静かに立ち上っていた。
口に運ぶ。
昨日より、味が分かる。
「たくさんご飯を食べな」
ラーラが覗き込むように言う。
「うん、食べる!」
「元気そうで、よかったわ」
それ以上は聞かない。
その距離が、ちょうどいい。
「話は聞いたわよ」
軽い声が横から落ちる。
視線を向けると、セドリカが立っていた。
手には、小さなガラスの器。
中には、とろりとしたプリン。
もう片方の手には、焼きたての小さなタルト。
すでに一口ずつ減っている。
「……セドリカさん」
「おはよう、男爵様」
軽く手を振る。
からかうような口調だが、目は冷静だ。
そのまま自然に席へ座る。
プリンを一口すくう。
「で、屋敷もらったんでしょ?」
「……はい」
「“小さい屋敷”って言われた?」
「そう、聞いてます」
セドリカはタルトを口に運び、小さく笑う。
「貴族の言う“ちょっとした屋敷”はね、普通の家とは違うのよ」
スプーンを弧を描くように回す。
「最低でも部屋は十以上」
「維持するだけでも人が要るわよ」
「掃除、管理、食事、来客対応――放っておけばすぐ荒れる」
淡々としている。
「……そんなに」
予想以上の部屋の規模に、呆然としてしまう。
「ええ」
即答。
「“住む場所”じゃないのよ」
「“回す場所”なの」
言葉が残る。
「人を入れないと回らないわよ」
プリンをもう一口。
「誰か心当たりある?部屋の管理をしてくれそうな、あなた達が信頼出来る人。」
「それなら」
ラーラがすぐに口を開く。
「ベルグのアイシャとチェルシーがいいんじゃない?」
「……」
「信用できるし、任せられるでしょ」
現実的な提案だった。
アイリーは一度、小さく息を整える。
「……お願いしたい、とは思ってる」
すぐには言い切らない。
「でも」
視線を少し落とす。
「アイシャとチェルシーの意思は、ちゃんと確認したいです」
決めつけない。
選ばせる。
その言葉に、
セドリカがスプーンを止める。
「そう、それでいい」
短く言う。
「やるかどうかは、向こうが決めることよ」
一口、プリンをすくう。
「勝手に決めて連れてくるのは、一番揉めるやつだからね」
「……はい」
アイリーは頷く。
「……一度、ベルグに行って、直接話します」
一拍。
ルークが口を挟む。
「ベグとポールはどうする?」
「……」
考える時間は、長くない。
すぐに決める。
「2人はまだ幼いから、ルクス養育院に残ってもらう」
視線を上げる。
「今は、その方がいいと思う!」
守るための場所として。
ルークも頷く。
「……確かに、そうだな」
セドリカはそのやり取りを横目で見ながら、
何も言わずにタルトを口に運ぶ。
ラーラも軽く頷く。
「その方がいいわね」
ルークも口を挟む。
「顔見て決めてもらった方が早ぇ」
セドリカは満足そうに小さく頷く。
「いい流れね」
そのまま、もう一口。
一拍置いて、
「で、もう一つ」
スプーンを置く。
「屋敷を“回す”だけなら、今の話で形にはなる」
視線がこちらに向く。
「でも、貴族が来るなら話は別よ」
「……」
「形式、言葉、所作」
「全部、見られる」
「一人は必要ね」
「ちゃんと応対できる人間が」
現実だった。
「……」
ラーラが腕を組む。
「そういうのって、簡単には見つからないわよね」
ルークも低く言う。
「俺らじゃ無理だな」
「……」
少し考えてから、
アイリーは顔を上げる。
「……セドリカさん」
視線を向ける。
「そういう人材に、心当たりはありませんか」
セドリカの手が、わずかに止まる。
プリンをすくったまま、
一瞬だけ間が空く。
「……いなくもないけど」
曖昧な返答。
視線を外す。
「ちょっと確認するわ」
それだけ言って、
また何事もなかったようにプリンを口に運ぶ。
それ以上は、語らない。
だが――
確かに、何かはある。
朝食の終盤。
「失礼いたします」
静かな声とともに、レオンが現れた。
「本日ですが」
こちらへ視線を向ける。
「ご体調とご都合に問題がなければ、屋敷をご案内することが可能です」
「……行きます」
迷わず答える。
レオンは小さく頷いた。
「承知いたしました」
そのとき、
「ちょっと待ちなさい」
セドリカが立ち上がる。
「時間ないけど、あたしも行くわ」
焼き菓子を口に放り込む。
「気になるのよ」
軽い口調。
だが、目は真剣だった。
「……ありがとうございます」
思わず、言葉が出る。
セドリカは一瞬だけこちらを見る。
それから、肩をすくめる。
「別に」
短く返す。
「あんたは、放っとくと無茶しそうだからよ」
それだけ言って、視線を外す。
「……」
その言い方に、少しだけ口元が緩む。
「行くわよ」
セドリカはもう次の動きに入っていた。
♦︎
馬車が石畳を滑るように進む。
揺れは抑えられているが、速度は落ちていない。
窓の外の景色が、ゆっくりと変わっていく。
人通りの多い通りを抜け、建物の密度が落ちる。
やがて、整えられた街並みに入る。
広い道。
一定の間隔で並ぶ屋敷。
だが――
中心ほどの華やかさはない。
少しだけ、外れている。
「……」
視線を外へ向ける。
ここが、貴族街の外縁だと分かる。
貴族街に入ってすぐ、
「到着いたしました」
馬車が静かに止まる。
扉が開く。
フードの中で、ビビがまた小さく鳴く。
さっきより、はっきりとした警戒だった。
視界に入ったのは、想像していたよりもはるかに広い敷地だった。
石造りの門。
過剰ではない装飾。
だが、明らかに“こちら側”の造り。
その奥に、手入れの行き届いた庭が広がっている。
低く整えられた生垣。
石畳の小道。
中央には、小さな噴水。
水の音が静かに響いていた。
その先に建つ建物。
二階建てで、横に広く、奥行きもある。
窓は多く、光を取り込む設計になっている。
「……」
視線を上げ、屋敷全体を見渡す。
――個人で住む規模ではない。
「これが、アイリー様の屋敷となります」
レオンの声が落ちる。
「……」
言葉が出ない。
広すぎる。
そう思う前に、どう使うのかが分からない。
「さぁ、男爵様のお屋敷の中、見ましょうか」
セドリカが先に歩き出す。
迷いがない。
門を抜け、玄関へ向かう。
扉が開き、中へ入る。
ひんやりとした空気。
磨かれた床。
正面に広がる広間。
天井は高く、音がわずかに反響する。
左右に廊下が伸びている。
奥には階段。
生活のためというより、“機能”のために作られた構造だった。
「……」
足を踏み入れる。
靴音が、乾いた音を返す。
まだ誰の気配もない。
「部屋数は十分ね」
セドリカが歩きながら言う。
壁に軽く触れ、窓の位置を確認する。
入口から見える範囲。
死角。
人の流れ。
すべてを見ている。
「応接、居住、使用人区画……最初から分けてあるわね。よかったわ。」
階段へ視線を上げる。
「上階は寝室と私室」
「下は人の出入り用…ね。」
迷いがない。
「やっぱり、管理人は必要ね」
「使用人も最低三人は欲しいわ」
「動線は悪くないけど、配置を間違えたらすぐ回らなくなる」
完全に、運用の目線だった。
「……」
その横で、ラーラが呟く。
「てか、ギルマスなんでそんな貴族のことについて詳しいの?」
セドリカが一瞬だけ足を止める。
振り返る。
ほんの一拍。
それから、肩をすくめる。
「ギルマスとして当たり前よ」
軽く流す。
それ以上、触れさせない。
そして、すぐに歩き出し、広間をもう一度見渡す。
「さて」
手を叩く。
「だいたい分かったし、あたしはここまでね」
振り返る。
「この後予定あるのよ」
足はもう出口へ向いている。
「あなた達、無理すんじゃないわよ」
それだけ残して、そのまま外へ出ていく。
引き止める間もない。
♦︎
セドリカが居なくなった後、もう一度屋敷を見渡す。
「広すぎ!大きい家に憧れあったけど、これはデカすぎ!」
ラーラが苦笑いしながら言う。
「部屋の中で、気にせず斧を振れるからいいけど…にしても、広すぎな」
ルークも同意する。
「いやー、この家どうしたらいいんだろうね」
困惑しながら屋敷内を歩く。
(ここで、人を迎えるのか。)
そのとき。
フードの中で、ビビの気配が変わる。
ぴたり、と動きが止まる。
次の瞬間――
毛並みが、一気に逆立った。
「……!」
フードの縁から、顔を出す。
全身を強張らせ、
一点を睨みつける。
視線の先――
屋敷の外。
「シャァッ……!」
低く、鋭い威嚇。
今まで聞いたことのない声。
空気が、張り詰める。
――悲鳴。
遠くから、かすかに聞こえる。
次の瞬間、複数に増える。
「……!」
空気が変わる。一同が顔を見合わせる。
レオンが即座に顔を上げる。
「外です」
迷いがない。
「行くぞ」
ルークが走り出す。
通りへ出ると、人の流れが乱れている。
逃げる者。叫ぶ声。
逃げ惑う人々の波を書き分け、突き進んでいく。
その先に――
いた。
見たことのない存在。
巨大な身体。
歪んだ輪郭。
生物として成立していない形。
「……何だ、あれ」
ラーラが呟く。
答えはない。
ただ一つだけ分かる。
――異物だ。
それが、街の中に立っていた。
その瞬間。
――目が、合った。
一瞬だけ、確かにこちらを見た。
敵を見る目じゃない。
何かを――求めるような。
「……っ」
呼吸が、止まる。
知らないはずなのに。
知らないはずなのに――どうして、こんなに引っかかるの。
胸の奥が、ざらりと揺れた。
あれは、本当に“魔物”なのか。
その答えを、私はまだ知らない。
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