第42話 用意された舞台
王から名を与えられ、男爵としての立場を告げられた直後、控え室に戻った私は、その現実をまだ処理しきれずにいた。
「……失礼いたします」
扉が開く。
入ってきたのは――フリード・ドローレ。ルクス養育院の施設総監であり、現場運営を統括する責任者。
無駄のない所作で、表情はいつも通り動かない。
だが、その視線だけが――はっきりとこちらを捉えている。
「改めまして」
一歩、距離を詰める。
「本日の任命、誠におめでとうございます」
形式的な言葉。
だが、祝意よりも“確認”に近い響きだった。
「……ありがとうございます」
言葉が遅れ、まだ現実が追いついていない。
フリードはそれを気にする様子もなく続けた。
「本日十九時より、王国主催の夜会が開かれます」
その一言で、空気が変わる。
ルークが反応する。
「今日、か?」
「はい」
迷いのない返答。
「本日より、貴女の一挙一動は“立場として”見られることになります」
間が落ちる。
「個人ではなく、“男爵”として扱われます」
その意味を、頭の中でなぞろうとする。
けれど――
輪郭だけが見えて、実感が追いつかない。
「……それって」
ようやく、声が出る。
「何をすれば、いいんですか」
問いは、曖昧だった。
分からないまま、出てきた言葉。
フリードは一瞬だけ間を置いた。
「特別なことはございません」
静かに答える。
「ただ、“その立場として振る舞う”だけで結構です」
それが一番難しい、そう言われているのと同じだった。
「どう振る舞うかで、周囲の態度は変わります」
言葉が重く沈み、私は何も言い返せない。
分かっていないことだけが、分かる。
ただ、事実だけを告げる。
「――本日十九時より、夜会がございます」
そこで一度、言葉が切られる。
「その場にて、多くの方と顔を合わせることになります」
そして、少しだけ声の調子を落とす。
「後ほど、準備の者を向かわせます」
「お疲れのご様子ですので、それまでの間はお部屋にてお休みください」
一礼。
だが、そのまま言葉を終えない。
ほんのわずかに、視線を上げる。
「……また明日、第一王子殿下主催の招待夜会がございます」
続く現実。
「こちら側の立場にも、徐々に慣れていただく必要があります」
その言い方は柔らかい。
だが意味は明確だった。
“戻れない”。
そういうことだ。
「では、準備の者を手配いたします」
軽く一礼し、「失礼いたします」
そのまま、静かに退出する。
扉が閉まる。
――無音。
そして、
「……」
何も、動かない。
考えようとしても、言葉が浮かばない。
頭の中で、情報だけが増えていく。
名誉男爵。
新しい名前。
夜会。
明日も夜会。
見られる側。
評価。
「……アイリー?」
ラーラの声。
遠い。
「おい、大丈夫か」
ルークの声も届く。
でも――
応答ができない。
処理が、止まっている。
「……完全に固まってるわね」
ラーラが呟く。
そのまま、私は立ち上がることもできず、レオンの指示で部屋へと移されることになった。
♦︎
気づいたときには、寝台の上だった。
いつ、横になったのか覚えていない。
身体が、重い。
現実が、少し遠い。
それでも――
時間は進んでいた。
窓の外の光が、夕方の色に変わっている。
「……」
息を吐く。
戻ってきたわけじゃない。
ただ、進んでいる。
それだけ。
しばらくすると、扉の外から声がする。
「失礼いたします」
再び扉が開き、使用人たちが入ってきた。
手には、布。
整えられた衣装。
「夜会のご準備をさせていただきます」
拒否する余地は、ない。
そのまま、身体が動かされる。
衣装を脱がされ、新しいドレスを通される。
――ぴたりと合う。
淡い青のドレス。
朝の空のように、やわらかく透き通る色。
胸元から裾にかけて、白い花の刺繍が静かに散っている。
動くたびに、光を受けてわずかに揺れる。
「……」
鏡を見る。
そこにいるのは――
見慣れたはずの自分で、でもどこか違う。
思わず、視線が止まる。
髪も、姿勢も、整えられている。
さっきまでの自分と、繋がっているはずなのに、うまく重ならない。
「……」
一歩、近づく。
鏡越しに、自分を見つめる。
まるで――
別の誰かを見ているみたいだった。
サイズも、形も、
最初から分かっていたみたいに、
何一つ違和感がないはずなのに。
その“違和感のなさ”が、逆に、現実を遠ざける。
これは、本当に――
自分なのか。
ただ、淡々と整えられていく。
髪。
姿勢。
装飾。
一つずつ、“こちら側”に寄せられていく。
そのとき――
扉が、控えめに叩かれる。
――控えめな、だが明確な合図。
「……どうぞ」
室内からの応答を確認してから、ゆっくりと扉が開く。
入ってきたのは、一人の令嬢。
淡い栗色の髪。
過度な装飾はないが、一目で“整っている”と分かる佇まい。
扉の内側で、一度、足を止める。
そして――
裾を軽く摘まみ、静かに腰を落とした。
カーテシー。
無駄のない、美しい動作。
「初めてお目にかかります」
顔を上げる。
視線はまっすぐ。
「ディアス・ロザンヌ伯爵家が娘、セリーナ・ロザンヌと申します」
一拍、間を置く。
「第一王子エリオット殿下の命により、参上いたしました」
形式は崩さない。
だが、言葉は簡潔。
「本日は、アイリー・エイジス男爵に――」
わずかに、言葉を選ぶ間。
「社交界における、最低限の作法をお伝えするために参りました」
空気が、静かに張る。
「時間は限られております」
一歩踏み出し、距離が縮まる。
「早速、始めさせていただいてもよろしいでしょうか」
「……はい」
短く、答える。
許可を得る。
セリーナは、小さく頷いた。
その瞬間、“指導者”としての顔に切り替わる。
視線が、上から下へと動く。
観察。
測定。
評価ではない。
――“確認”。
「立ち方」
一言。
「それ、低いわ」
ぴたり、と指摘が入る。
「貴族は“下を見ない”」
顎を、軽く持ち上げられる。
「視線は水平。落とさない」
「……はい」
素直に従う。
修正する。
セリーナの目が、わずかに細くなる。
「礼」
次。
「速すぎる。浅い」
「もっと“間”を使って」
一つずつ、直される。
言葉は厳しい。
だが、迷いがない。
「会話も同じ」
「短くてもいい。でも“弱く”は見せない」
その指導は、容赦がない。
だが――
私はすべて受け取る。
否定しない。
言い返さない。
ただ、修正する。
その様子を見て、セリーナの内側で、何かがわずかに揺れた。
(……違う)
想像していたものと、違う。
それから――一時間。
セリーナによる指導は、容赦なく続いた。
歩き方。
視線。
礼の深さ。
言葉の間。
崩れれば、即座に修正が入る。
「違う」
「浅いわ」
「“見られている”前提を忘れないで」
考える暇はない。
ただ、繰り返す。
「……もう一度」
「……はい」
応じる声も、少しずつ重くなる。
足が、鈍い。
呼吸も浅い。
それでも――止まらない。
やがて。
「……ここまでにしましょう」
その一言で、糸が切れた。
「……」
身体が、思うように動かない。
気づけば、指先がわずかに震えていた。
セリーナは一瞥する。
「今の状態を、維持なさい」
それだけを残して、背を向ける。
――鐘が鳴る。
低く、重い音が、城内に響く。
「……夜会の時間です」
現実が切り替わる。
私は、小さく息を吸った。
「……はい」
♦︎
廊下を、並んで歩く。
足音が、静かに響く。
夜会の会場は、もうすぐそこだ。
扉の前で、レオンが足を止めた。
わずかに、こちらへ視線を向ける。
「……緊張なさっていますか」
低く、落ち着いた声。
いつもと変わらない。
だが――どこか、意識がこちらに向いている。
「……少しだけ」
正直に答える。
レオンは、小さく頷いた。
「問題ありません」
一歩、距離を詰める。
その立ち位置は、“守るため”の位置。
「私が傍におります」
視線が、まっすぐ合う。
「基本的には離れません。必要であれば、すぐに介入いたします」
簡潔。
無駄がない。
だが――揺るがない。
「どうか、ご安心ください。問題はございません」
その一言に、過剰な優しさはない。
それでも――
確かに、支えられていると分かる。
「……はい」
小さく、頷く。
胸の奥のざわつきが、ほんのわずか静まった。
レオンはそれ以上言わず、扉へと視線を戻す。
「参りましょう」
扉が、開かれる。
王城の大広間。
光が、満ちている。
天井は高く、幾重にも連なるシャンデリアが、空間を照らし尽くしていた。
金と白を基調とした装飾。
磨き上げられた床が、光を映す。
長卓には、彩り豊かな料理が並び、香りが静かに漂う。
音楽は控えめに流れ、笑い声も、抑えられている。
それでも――
場の密度は、重い。
一歩踏み入れた瞬間に分かる。
――ここは、選ばれた者の場所。
逃げ場がない。
視線が、集まる。
言葉には出さない。
だが、全員が見ている。
測るように。
値踏みするように。
「……」
足を進める。
隣には、レオンがいる。
その事実だけが、かろうじて私を前へ進ませた。
その中で――
「……平民上がりで、男爵、か」
低く、ねっとりとした声が、すぐ後ろから聞こえた。
振り返ると、そこには髭面の中年の男。
距離が――近い。
一歩、踏み込まれる。
逃げ場を塞ぐように、正面に立たれる。
視線が、上から落ちてくる。
舐めるように、値踏みするように。
「ずいぶんと軽い爵位だな」
口元が歪む。
「努力も、血も、積み重ねもない」
わざと、ゆっくりと言葉を置く。
周囲に聞こえる程度に。
「それでも“貴族”を名乗れるとは――」
小さく、笑う。
「随分と都合がいい」
空気が、わずかに揺れる。
明確な悪意。
「……」
反論はしない。
ただ、立つ。
視線を落とさない。
それだけ。
一瞬、男の眉がわずかに動く。
だがすぐに、鼻で笑った。
「……まあいい」
興味を失ったように、肩をすくめる。
「どこまで持つか、見ものだな」
吐き捨てるように言い、その場を離れる。
残るのは、ざらついた空気と、消えない視線だけだった。
「……」
足が、止まる。
呼吸が、浅い。
胸の奥に、重たいものが落ちたまま、うまく動かない。
――初めてだ。
ここまで、はっきりと言葉で否定されたのは。
分かっていたはずなのに。
こうなることも、見られていることも。
それでも――
実際に向けられると、思っていたより胸が苦しい。
「……」
指先に、わずかに力が入る。
崩れるほどではない。
けれど、踏み出す足が、少しだけ遅れる。
そのとき――
「……お気になさらなくて結構です」
隣から、静かな声が落ちる。
レオンだ。
視線は前を向いたまま。
「この場には、ああいった方も一定数おります」
淡々とした口調。
だが、突き放さない。
「しかし――それがすべてではありません」
わずかに、間を置く。
「どうか、ご自身の立場を疑われませんよう」
短い言葉。
だが、まっすぐに届く。
「……はい」
小さく、息を吐く。
視線を、前に戻す。
足を、一歩踏み出す。
まだ、重い。
それでも――
止まらない。
♦︎
視線を受けながら、流れに逆らわないように、ゆっくりと歩く。
左右には、小さな輪がいくつもできている。
談笑。
情報交換。
そして――値踏み。
その中で、ひときわ視線を集めている一角があった。
黒を基調とした軍装。
広い肩幅。
無駄のない立ち姿。
騎士団長――ガルド・レイヴン。
数人の貴族を前に、短く言葉を交わしている。
余計な動きはない。
だが、その場の主導権は完全に握っていた。
笑っていないのに、誰も逆らわない。
圧だけで、成立している。
「……」
一瞬、視線が合う。
こちらを、認識する。
だが――それだけ。
すぐに、会話へと戻った。
(……強い)
言葉ではなく、存在で分かる。
そのまま、通り過ぎる。
止まる場所ではない。
流れに乗る。
その直後――
「はじめまして」
柔らかい声。
「バルク家当主、セリオス・バルクと申します」
「……アイリー・エイジス男爵でございます」
一拍、呼吸を整える。
裾を摘まむ。
教えられた通りに、ゆっくりと腰を落とす。
カーテシー。
“間”を意識する。
崩さない。
視線は、水平。
顔を上げる。
(これでちゃんと出来てるかな……)
セリオスの目が、わずかに細くなる。
――観察されている。
「……緊張なさってますね」
「ところで、どなたの推薦で、ここまで来られたのですか?」
間を置く。
踏み込まない。
だが、逃がさない。
「少々、興味がありまして」
探り。
声は穏やか。
だが、目的は明確。
「今後の情勢次第では」
わずかに、言葉を選ぶ。
「関係を築くことも、検討できるかと」
囲い込みではない。
“選択肢として提示する”。
それだけ。
だが――
だからこそ重い。
「……まだ、分かりません」
一拍、わずかに間を置く。
「私自身も、まだ“その位置”を理解しきれておりませんので」
嘘ではない。
だが――
空気が止まる。
セリオスの視線が、わずかに深くなる。
「なるほど」
小さく頷く。
「現時点で、どちらにも寄らない」
確認。
評価。
そして――保留。
「それが一番、賢明かもしれませんね」
穏やかに笑う。
「また、状況が動いた頃にでも」
それ以上は、求めない。
軽く会釈し、そのまま自然に離れていく。
残るのは――
言葉よりも、“測られた感覚”だった。
そのとき。
――乾いた音。
甲高く、鋭い音が空気を裂いた。
ガラスが、割れる。
一瞬の静寂。
遅れて、小さな悲鳴が上がる。
ざわめきが広がり、視線が一斉に集まった。
その先。
割れた破片を手にしたまま、ひとりの人物が静かに立っていた。
「……」
何かがおかしい。
理由は分からない。
ただ、
空気だけが、
確かに変わっていた。
次は、4/9の予定です!
よろしくお願いします^ ^




