第33話 繋がる名前(ルーク視点)
昨夜のことが、頭から離れなかった。
甘い匂い。
黄色い果肉。
――マンゴー。
酒のせいじゃない。
あの味を口にした瞬間、
ずっと奥に沈んでいた記憶が、浮き上がりかけた。
「……あいつ、好きだったんだよな」
ぽつりと、声が漏れる。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
――リオナ。
頭の奥で、あの小さな声がよぎる。
「……りおな」
あいつが、あの時そう言った。
意味なんて分からなかった。
ただ、覚えてる場所みたいな響きだった。
午前中のうちに、リオナ院の視察は終わっている。
中は問題なかった。
だからこそ、なにかが引っかかった。
港で母親たちから話を聞いた。
子どもが攫われた話。
そして――
潮風亭の女亭主。
「……この時間に行っても話を聞くのは無理だな」
ラーラの声。
その通りだ。
昼時の店は、一番忙しい。
話を聞ける空気じゃない。
アイリーが少しだけ考えてから言う。
「じゃあ、時間をずらそう」
「お昼ここで食べて、落ち着いた頃にダリアさんから話を聞こう」
短く頷く。
「そうだな」
そして俺たちは、潮風亭の前に立つ。
扉の向こうは、昨日よりも賑わっていた。
声。
鍋の音。
皿のぶつかる音。
昼の熱気が、そのまま溢れている。
扉を開ける。
「いらっしゃい!ちょい待ってくださいね〜」
昨日と同じ声。
同じ女。
「お、昨日のお客さんじゃないか」
「また来てくれたのかい?」
アイリーが笑う。
「はい。すごくおいしかったので」
女は嬉しそうに笑った。
「そりゃどうも!」
「ちょっと待ってな、今混んでるから」
端の席に通され、みんなで座った。
視線が、勝手に動く。
皿を運ぶ手。
声をかける動き。
笑い方。
昨日と同じだ。
なのに――
こんなにも胸がザワザワしてくる。
それからしばらくすると、美味しい香りのする料理が運ばれてくる。
魚介のスープ。
焼き魚。
煮込み。
湯気が立ち上るスープを口に運ぶ。
味は変わらない。やっぱりうまい。
けど――
落ち着かない。
視線がまた動く。
女の背中。
――繋がりかけてる。
「……このあと、どうする?」
アイリーの声。
現実に引き戻される。
短く答える。
「ここで待つ」
それだけでいい。
ラーラが頷く。
「だな。この時間はまだ無理だ」
食事を終えても、すぐには動かない。
席に残る。
酒を一杯だけ頼む。
店の中の熱が、少しずつ落ちていく。
客が減る。
声が減る。
音が間延びする。
そのときだった。
女が皿を持って、こちらへやってくる。
「これ、サービス」
置かれたのは、黄色く切られた果物。
マンゴー。
甘い匂いが、ふわりと広がる。
――その瞬間。
胸の奥が、強く引っかかる。
視線が、皿に落ちる。
手が、止まる。
「……ルーク」
アイリーの声。
顔を上げる。
まっすぐ見られていた。
「昨日から気になってたんだけど」
少しだけ間を置く。
「マンゴー見たとき、変だったよね」
逃げられない。
短く息を吐く。
「……ああ」
少しだけ視線を落とす。
「昔、少しだけ面倒見てた子がいた」
まだ、二人は反応しない。
誰のことか、確定していないからだ。
「そいつが、これ好きだったんだよ」
皿の上のマンゴーを見る。
「……ゼロ・ハチ・二・ヨン…だ」
その一言で、空気が変わる。
アイリーの目が、はっきりと見開かれる。
ラーラも、表情を止めた。
「……あの子の話?」
アイリーが、静かに聞く。
「ああ」
短く答える。
それで十分だった。
「最初、ほとんど喋らなかった」
あの部屋の空気が、頭に戻る。
壁際に座っていた姿。
視線を落としていた目。
「で、ある日」
少しだけ間を置く。
「それ、食わせたらよ」
マンゴーを見る。
「そしたら、初めて」
喉の奥が、少しだけ引っかかる。
「……“まんご”って言った」
アイリーが息を呑む。
ラーラも、何も言わない。
ただ聞いている。
「それと――」
「“りおな”って言ってた」
アイリーの眉が寄る。
「……リオナ?」
「ああ」
頷く。
「その時は分からなかったけど、今なら分かる」
ラーラが低く言う。
「……ここか」
否定しない。
それよりも、もう一つ。
少しだけ間が落ちる。
「……あと」
声が、わずかに低くなる。
「あいつ、夜中に一回だけ」
「“おかあさん”って呼んだ」
沈黙が落ちる。
誰もすぐに言葉を出さない。
ただ、理解が揃う。
アイリーが、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだったんだね」
その声は、軽くなかった。
ちゃんと、受け取った音だった。
ラーラが小さく言う。
「……全部繋がってるのかもな」
否定できない。
むしろ――
はっきりした。
視線が、店の奥へ向く。
皿を運ぶ手と、笑い声。
――あの人か。
客が引き、店の空気が落ち着いていく。
――今だな。
立ち上がる。
それを見て、アイリーが頷く。
ラーラも続く。
そして――
アイリーが、前に出た。
♦︎
「すみません」
顔を上げた店の女に向かって、続ける。
「ダリアさんで、合ってますか?」
その名前が落ちた瞬間、女の目がわずかに細くなる。
「あいよ、どうした――」
言いかけて、こっちを見た。
軽く笑う。
「今日はゆっくりできたかい?」
「はい」
アイリーが頷く。
「すごくおいしかったです」
「そりゃどうも」
いつもの調子だった。
昨日と同じ声。
同じ笑い方。
けど、もう昨日みたいには見えない。
視線が勝手にそこへ吸い寄せられる。
あの手で、皿を置いていた。
あの声で、マンゴーだと言った。
胸の奥が、またざわつく。
アイリーが、そのまま言った。
「少し、お話を聞かせてもらってもいいですか?」
ダリアの手が止まる。
ほんの一瞬。
けど、その一瞬で十分だった。
「……なんの話だい」
低い声。
警戒が、はっきり乗る。
アイリーは引かない。
「この街で、五年前に起きた――」
「子どもの失踪についてです」
空気が変わる。
店の奥では鍋の音が鳴ってる。
客の話し声も消えてない。
なのに、ここだけ切り離されたみたいに静かだった。
ダリアの目が細くなる。
「……誰に聞いたんだい?」
「港で、少し」
短い返答。
間が落ちる。
その数秒が、妙に長い。
それから、ダリアが言った。
「……あんた」
視線が、アイリーにまっすぐ向く。
「何者だい」
当然だと思う。
ただの客が踏み込んでいい話じゃない。
アイリーが一歩だけ前に出る。
声は静かだった。
「私は、王子直属の養育視察官です」
少しだけ間を置く。
「第一王子エリオット殿下より任命を受け、ルクス養育院に関わる事案と、子供に関する事件を調査しています」
そのあとで、
アイリーは懐から何かを取り出した。
小さなブローチ。
光が、一瞬だけ跳ねる。
紋章が見える。
――王家だ。
それだけで、十分だった。
見せつけるでもなく、
ただ、そこにある。
それだけなのに、
場の重さが変わる。
さっきまでの“客”の空気が、消える。
ダリアの視線が落ちる。
ブローチに止まる。
それから、ゆっくり上がる。
アイリーの顔へ。
迷いがある。
けど、もう軽く流せる相手じゃない。
そういう顔だ。
そのとき。
横から声が入る。
「第一王子エリオット殿下より、視察官アイリー殿の護衛を仰せつかっております。レオンと申します」
数秒の沈黙の後、
ダリアが、小さく息を吐いた。
「……そうかい」
それだけ言って、少しだけ視線を落とす。
「……それは、私の息子の事だよ…」
その一言で、喉の奥が詰まる。
きた、と思った。
でも、まだ口は開けない。
今ここで勝手に言葉を差し込んだら、全部壊れる気がした。
ダリアの声は、さっきまでと違っていた。
「あれは五年前の昼だった」
ゆっくり、言葉を拾っていく。
「お昼ご飯を食って、友達と広場に遊びに行ったのさ」
港町の昼が頭に浮かぶ。
陽の光。
子どもの声。
人の行き来。
「……そこに、このリオナじゃ見たことのない奴が来たらしい」
指先に力が入るのが見えた。
皿を持つ手がわずかに強張る。
「気づいたときには」
「息子は抱えられて――」
そこで、一度詰まる。
胸の奥が、ぎり、と痛む。
「そのまま、走って連れ去られたんだよ」
何もできなかった。
その瞬間の空気が、そのまま伝わる。
「一緒に遊んでいた子が、すぐに知らせに来てくれてね」
「すぐさま追ったさ」
短く息を吐く。
「でも――」
首を振る。
「……見つからなかった」
音が遠くなる。
鍋の音も、皿の擦れる音も、少し向こうの世界みたいだった。
アイリーが静かに聞く。
「その時の息子さんの年齢は?」
「……十二だ」
十二。
「息子さんの特徴は、何かありますか?」
ダリアはすぐには答えない。
一度、目を閉じる。
その間が、嫌に長い。
それから、ゆっくり開いた。
「右の腰に」
心臓が強く打つ。
「赤い痕があった」
「丸くて、苺を潰したみたいな」
もう駄目だった。
そこで、全部揃った。
マンゴー。
りおな。
おかあさん。
右腰の赤い痕。
あいつだ。
間違いない。
隣でラーラも黙っている。
空気の固まり方で分かる。あいつも察してる。
アイリーが、さらに聞く。
「……その子は」
「どんな子でしたか」
ダリアの顔が崩れる。
ほんの少しだけ。
「ああ……」
かすれた声。
「よく笑う子だったよ」
その言葉に、胸が痛む。
あの部屋で、あいつが笑った顔は見ていない。
けど、見えた気がした。
ここに来る前の、笑ってた頃の顔が。
「甘いもんが好きでね」
小さく笑う。
涙の手前で止まる笑いだ。
「マンゴーなんか出したら」
「すぐ食いついてた」
やっぱり、と思う。
分かっていたはずなのに、実際に聞くと重さが違う。
喉の奥が、また詰まる。
ダリアはそこで言葉を切った。
それ以上は、出てこない。
出せないんだろうと思う。
アイリーは急がない。
黙って、その間を待つ。
それがありがたかった。
変に急かされたら、こっちの方が先に壊れていたかもしれない。
そして――
「……その子の、名前は?」
アイリーが静かに置く。
逃げ場のない場所に。
ダリアの指が止まる。
完全に。
ゆっくりと顔が上がる。
目が揺れる。
五年前で止まった時間が、今、動こうとしている。
息を止める。
「……あの子は――」
そのときだった。
奥で、皿のぶつかる音がした。
「おい、ダリア。そっち終わったか?」
低い男の声。
ダリアの肩が、わずかに揺れる。
「今行くよ」
そう返す声は、さっきまでと同じ調子に戻っていた。
けど――
目だけが、戻っていない。
奥から、男が出てくる。
布で手を拭きながら。
調理場の熱をまとったままの体。
年は、ダリアと同じくらいか。
視線が、そっちへ向く。
――一瞬。
呼吸が、止まる。
似ている。
頭で考えるより先に、身体が反応する。
顔の輪郭。
目の形。
口元。
あいつが、少し成長したら――
そんな想像が、勝手に重なる。
隣で、ラーラが息を呑むのが分かる。
アイリーも、言葉を失っている。
誰も、すぐに動かない。
男は、こちらに気づく。
「……客か?」
何も知らない声。
ただの店主の顔だ。
けど――
違う。
ダリアが、ほんの少しだけ目を伏せる。
それだけで、全部が繋がる。
胸の奥が、重く沈む。
――間違いない。
言葉にしなくても、分かる。
ここまで来て、
ようやく“現実”になった。
この物語は、まだ続きます。
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