第23話 眠らない家
翌朝。
ベルグの朝は、王都よりもずっと静かだった。
窓の外では、街道を行き交う荷馬車の音が遠くに聞こえる。
けれどこの灯りの家の敷地は、その喧騒から少しだけ離れているようだった。
私は身支度を整え、生活棟へ向かった。
ベッドの上では、ビビがまだぐっすり眠っていた。
小さな体を丸め、尻尾を抱えて眠っている。
昨夜の様子を思い出す。
あのあと――
ビビは、なかなか眠らなかった。
フードの中で何度も顔を出し、周囲を警戒していた。
私は何度も背中を撫でた。
「大丈夫よ」
小さく声をかけながら。
それでも、落ち着かない様子が続いた。
やっとビビが眠ったのは――
かなり夜が更けてからだった。
真夜中を過ぎた頃。
緊張が切れたように、
ようやく丸くなって眠りについたのだ。
だから。
今も起きる気配はない。
私はそっとビビをすくい上げる。
両手で優しく包み込み、
外套のフードを少し開いた。
そのまま中へ入れてやる。
ビビは目を覚まさない。
無意識のまま体勢を整えると、
そこがいつもの寝床だと理解したように、
また丸くなった。
私はフードの縁を軽く整える。
その様子を見ていたラーラが、小声で言った。
「まだ寝てるの?」
私は小さく頷く。
「うん」
「昨日、かなり警戒してたからね」
ルークが腕を組んだ。
「そういや、夜ずっとモゾモゾしてたな」
私は苦笑する。
「結局、寝たのはかなり遅い時間だったと思う」
フードを軽く指で押さえる。
中では、ビビが微動だにしない。
「ほとんど寝てないんじゃないかな」
ラーラが覗き込む。
「じゃあ今……」
私は肩をすくめる。
「うん。完全に爆睡してる」
ルークが小さく笑った。
「そりゃそうだ」
「警戒して一晩起きてたら、そうなるわな」
フードの奥から、
小さな寝息が聞こえてきた。
まるで。
昨夜の不安が嘘だったかのように。
けれど――
私は、あの様子を忘れていない。
あれはただの臆病とは、少し違っていた。
あそこまで警戒するビビを、
私は今まで見たことがなかった。
私はフードをそっと撫でる。
「……何か感じたの?」
もちろん、返事はない。
ただ小さな体が、
安心しきったように眠っているだけだった。
♦︎
食堂へ入ると、すでに子どもたちが席についていた。
朝食は簡単なものだ。
焼いたパン。
豆と野菜のスープ。
薄く切った果物。
豪華ではないが、十分に栄養のある食事だった。
ドミニクが穏やかな声で言う。
「おはようございます、アイリー様」
白衣の袖を整えながら、柔らかく微笑む。
「昨夜はゆっくり休めましたか?」
「ええ、とても」
私は席に着きながら答えた。
「静かな場所ですね」
ドミニクは小さく頷く。
「子どもたちが安心して眠れる環境を作るのが、私の仕事ですから」
その言葉は自然だった。
隣の席では、ラーラがパンをかじりながら子どもたちと話している。
「その絵、昨日の続き?」
「…うん」
小さな女の子が頷く。
声は小さいが、落ち着いている。
ルークはスープを飲みながら、リュークに話しかけていた。
「よく眠れたか?」
「…うん」
リュークは素直に頷いた。
その様子を見ながら、私はふと違和感を覚えた。
……昨日より反応が鈍い。
朝だからかもしれない。
それでも、どこか動きが遅く見えた。
やがて食事が終わり、子どもたちはそれぞれの部屋へ戻っていった。
食堂には、私たちとドミニクだけが残る。
「片付けは私がやりますので」
ドミニクはそう言って、食器をまとめ始めた。
私は軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
やがてドミニクは食器を持って厨房へ下がっていった。
食堂には、私たち三人だけが残る。
ラーラが私の袖を軽く引いた。
「ねえ」
小さな声だった。
「ん?」
ラーラは、さっきまで子どもたちが座っていた席をちらりと見ながら、眉をひそめる。
「なんかさ」
「子どもたちの反応、昨日より少し遅くない?」
私は少し考え、さっきの様子を思い返す。
確かに。
質問してから答えが返るまで、
ほんのわずかな“間”がある。
ルークが腕を組みながら言う。
「まぁ確かにそうだけど」
「でもこの子たち、ここに来てるってことは」
「何かしら心に傷を抱えてる子だろ」
少し肩をすくめる。
「普通の子どもとは、少し違うのかもしれないな」
ラーラは少しだけ考え、頷いた。
「……そうかも」
説明としては、納得できる。
ここは治療施設だ。
普通の子どもと同じ反応を求める方が、おかしいのかもしれない。
それでも――
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
その時だった。
厨房の方から、足音が近づいてくる。
振り向くと、ドミニクが食堂へ戻ってきていた。
「お待たせしました」
穏やかな声だった。
手を軽く拭きながら、こちらへ歩いてくる。
フードの中で、ビビがビクッと反応した。
私は軽くフードを押さえる。
「どうした?」
黒い鼻先が、ほんの少しだけ外を覗く。
けれど、すぐにまた奥へ潜り込んだ。
その様子に気づいたドミニクが、優しく目を細める。
「可愛らしいですね」
「小動物ですか?」
私はフードを軽く押さえながら答えた。
「はい。リスなんですが、森で怪我をしているところを見つけて」
「手当てしたら、そのままついて来るようになったんです」
ラーラが笑う。
「完全に懐かれてるんだよね」
ルークも肩をすくめた。
「気づいたら、いつもフードの中にいる」
ドミニクは興味深そうに頷く。
「なるほど」
「随分と慣れているようですね」
「野生の子がそこまで人に懐くのは、珍しい」
私は小さく笑う。
「そうかもしれません」
フードの奥で、ビビが静かに丸くなる。
ドミニクはそれ以上気にする様子もなく、穏やかな表情のままだった。
けれど――
私は、フードの中の小さな動きを、もう一度だけそっと確かめた。
ほんのわずかに。
ビビの体は、まだ緊張しているようだった。
♦︎
食事のあと、ドミニクは生活棟を案内してくれた。
子ども部屋。
小さな机。
本棚。
壁には子どもたちの描いた絵が飾られている。
どこも清潔だった。
環境としては、申し分ない。
その時、アイシャが廊下の窓際に立っているのが見えた。
私は声をかける。
「アイシャ」
少女はゆっくり振り向く。
少し間があってから、答えた。
「……はい」
私は微笑む。
「体調はどう?」
また、少しの間。
それから。
「……大丈夫です」
声は落ち着いている。
けれど。
昨日より、感情が薄い気がした。
私はそれ以上は聞かなかった。
その時、フードの奥でビビが小さく震える。
ピク。
ほんの一瞬だった。
♦︎
次に、ドミニクは私たちを診療棟へ案内してくれた。本日は、定休日のようだ。
生活棟とは違い、こちらの建物は空気が少しひんやりとしている。
薬草と薬品が混ざった独特の匂いが、静かに室内に漂っていた。
扉を開けると、広い診療室が現れる。
中央には大きな机。
その横には簡素な診察台が置かれている。
壁際には、いくつもの魔導具が整然と並べられていた。
精神状態を測定するための魔石。
脈を計る小さな魔法器具。
子どもの手首ほどの細い光管も見える。
そして――
奥の壁一面には、大きな薬棚があった。
細かく区分けされた棚の中に、無数の薬瓶が並んでいる。
透明な液体。
乾燥させた薬草。
粉末状の薬。
ルークが一つの瓶を手に取る。
ラベルを確認し、少し眉を上げた。
「これ……鎮静薬だな」
ドミニクは落ち着いた声で答える。
「ええ」
「精神治療ではよく使用します」
「不安が強い子どもは、どうしても思考が過敏になってしまう」
「そういう時は、少しだけ心を落ち着かせてあげる必要があるのです」
説明の口調は穏やかで、理路整然としていた。
無理に言い訳をしている様子もない。
ルークは瓶を元の場所へ戻す。
「なるほどな」
「まあ、精神治療なら普通に使うか」
ドミニクは静かに頷く。
「ええ」
「薬だけで治すわけではありませんが」
「睡眠と安心は、回復にとても大切ですから」
ラーラは棚の前に立ち、並んでいる瓶を眺めている。
「でも……」
そう言いながら、少し首を傾げた。
「結構多いね」
棚の奥まで、同じ薬が並んでいる。
瓶の数は、ざっと見ただけでもかなりの量だった。
ドミニクは落ち着いた表情のまま答える。
「症状が重い子もいますので」
「継続的に使用する子もいます」
「ですから、どうしても量は必要になるのです」
その言葉は自然だった。
ここが精神治療の施設だと考えれば、特別おかしな説明ではない。
むしろ――
理屈としては、きれいに通っている。
私はもう一度、棚の薬瓶を見た。
整然と並ぶ小さな瓶。
同じ薬が、同じ間隔で並べられている。
管理は、とても丁寧だ。
その時、
フードの中で、ビビが小さく身じろぎした。
私はそっとフードを押さえる。
「ビビ?」
しかしすぐに、また静かになった。
ドミニクはその様子に気づくこともなく、穏やかな表情のままだった。
♦︎
夕方。
見学は一通り終わり、中庭のベンチに腰をかけている。
空はゆっくりと茜色に染まり、診療棟の屋根の向こうへ太陽が沈みかけていた。
庭に植えられた薬草が風に揺れ、ほのかに苦い香りが漂う。
生活棟の窓からは、子どもたちの小さな話し声がかすかに聞こえていた。
私はドミニクの方へ向き直る。
「もしよろしければ」
少しだけ間を置いて言う。
「もう一泊させていただけませんか?」
ドミニクの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に、ほんのわずかな時間だった。
まばたき一つほどの。
けれど。
その瞬間、空気がわずかに沈んだように感じた。
ドミニクの目が、ほんのわずかに細くなる。
視線が、私ではなく――
一瞬だけ、診療棟の方へ流れた。
次の瞬間。
その表情は、何事もなかったように元へ戻っていた。
「もちろんです」
柔らかな笑み。
いつもの穏やかな声。
「歓迎します」
「旅人がゆっくり休める場所を作るのも、ここを開いた理由の一つですから」
言葉は自然だった。
態度も、穏やかだ。
それなのに。
私は、なぜか胸の奥がざわついた。
ほんの一瞬の沈黙。
それだけのはずなのに――
まるで、何かを計算した後に答えられたような。
そんな感覚が、消えずに残っていた。
♦︎
灯りの家は静まり返っていた。
子どもたちは、すでに眠っている。
客室の窓の前で、私は外を見ていた。
腕の中には、ビビがいる。
小さな体を抱えると、ほのかな体温が伝わってくる。
ビビは目を細め、私の腕の中で静かに丸くなっていた。
私は窓の外へ視線を向ける。
ベルグの夜は暗い。
王都のような灯りは少なく、街の明かりもまばらだった。
今夜は満月だった。
月明かりが庭を照らし、診療棟と生活棟の輪郭を浮かび上がらせている。
遠くで風が鳴る。
私はそのまま、ぼんやりと今日のことを思い返していた。
ドミニクという男。
穏やかな笑顔。
丁寧な言葉。
整えられた診療所。
子どもたちの様子も、表面だけ見れば問題はない。
食事も用意されていたし、部屋も清潔だった。
それなのに――
胸の奥に、小さな違和感が残っている。
理由は、はっきりしない。
説明できるほどの何かもない。
ただ、どこかが引っかかっている。
私はビビの背中を、そっと撫でた。
「……気のせいかな」
小さく呟く。
その時だった。
生活棟の扉が、
ゆっくりと開いた。
私は息を止める。
暗闇の中から、
小さな影が現れた。
子どもだ。
裸足のまま、
庭へ出てくる。
ゆっくり歩く。
足取りは、まるで夢遊病のようだった。
月明かりが、その顔を照らした。
目は虚ろ。
表情はない。
そのまま――
庭を横切る。
診療棟へ向かう。
その時。
かすかに音が聞こえた。
ぺた。
ぺた。
石畳を踏む、
小さな足音。
夜の静けさの中で、
それだけが妙に大きく響く。
私は思わず息を止めた。
子どもは振り返らない。
ただ――
診療棟の扉へ向かって歩いていく。
カチ。
小さな金属音が、夜に溶けた。
しばらくすると、
腕の中に抱かれていたビビが――
バッ
と顔を出した。
全身の毛が逆立っている。
尻尾は大きく膨らみ、
昨夜と同じぐらい
とても警戒していた。
小さな体が震えている。
ビビの黒い瞳は、
まっすぐ診察室がある方を睨んでいた。
私は小さく呟く。
「……何があるの?」
夜は、静かだった。
けれど。
ビビは、
一度も目を逸らさなかった。




