第19話 無言の悲鳴
小さな籠の中で、リスのビビは丸くなっていた。
夜明けの光が、窓から静かに差し込む。
昨日まで震えていた体は、もう揺れていない。
布に顔をうずめたまま、
小さな胸が、ゆっくり上下している。
安心した眠りだった。
私は籠の縁にそっと指をかける。
「……おはよう」
まだ、目は覚まさない。
守れる命がある。
それだけで、胸の奥のざわつきが、薄紙みたいに一枚だけ剥がれる。
(ビビ、行ってくるね!)
今日は――ルクス養育院へ行く。
視察官として。
♦︎
朝の空気は、やけに澄んでいた。
ルクス養育院ホームディア院の門は、以前と変わらず手入れが行き届いている。
白い壁。均された小道。
朝露を含んだ花壇が、静かに光っていた。
「久しぶりだな」
ルークが小さく呟く。
私は頷いた。
久々に立つ、この場所。
前回は“訪問者”だった。
今日は違う。
胸元に留めた、王家の紋章入りのブローチが、朝日にきらりと光る。
この国で、それを身につける者は限られている。
門を開けたシスターの視線が、そこに落ちた。
息を吸う音が、わずかに聞こえた気がした。
「……ようこそ、お越しくださいました」
声は柔らかい。
けれど、案内の歩幅まで丁寧になっている。
空気が、以前とは違う。
私はそのまま、門をくぐった。
♦︎
中庭に出ると、白い石畳の向こうに、見慣れた背中があった。
陽を受けた庭は静かで、花壇の縁まできっちり揃えられている。
その中心に、彼はいた。
振り向いたのは、施設管理者のオズリックだった。
相変わらず、隙のない身なり。
皺ひとつない衣服。
髪は一筋も乱れていない。
穏やかな微笑みが、貼りつくように自然だ。
「これは……お久しぶりでございます、アイリー様」
以前と同じ、柔らかな声。
けれど、視線だけが私の胸元へ滑った。
王家の紋章。
――その瞬間。
オズリックの瞳の奥で、何かが切り替わるのが見えた。
微笑みは崩れない。
けれど、言葉を選ぶための“間”が生まれる。
「本日は、どのようなご用件で?」
私は一歩、前へ出た。
「本日は、ご挨拶に参りました」
声は静かに。
だが、曖昧にはしない。
「国王第一王子エリオット殿下より、ルクス養育院全施設の視察官に任命されました」
ほんの一拍、置く。
「本日が非公式ではありますが、視察官としての初訪問になります」
空気が動く。
近くにいたシスターが、小さく息をのんだ。
それは恐れというより、驚きと――安堵に近いものだった。
胸元の紋章に視線が集まる。
「……王家の」
誰かが、思わず呟く。
ひとりが両手を胸の前で組み、
もうひとりは、目を輝かせたまま深く頭を下げた。
「ようこそ、お越しくださいました」
その声には、素直な敬意がある。
視察という言葉よりも、
“王家が子どもたちを気にかけている”という事実に心を動かされているようだった。
子どもたちも、きらきらと紋章を見つめている。
理解はしていない。
けれど、“何かが違う”ことだけは感じ取っている。
その中で、オズリックだけが呼吸を浅くした。
オズリックは、ゆっくりと頭を下げる。
「それは……大変光栄なことでございます」
完璧な角度。完璧な間。
その完璧さが、逆に冷たく見える。
「我々も、何かありましたら
全面的に協力させていただきます」
私は、軽く頷いた。
「それは助かります。ありがとうございます」
そして、隣へ視線を向ける。
「こちらは、私の仲間のルークとラーラです」
二人が一歩、前へ出る。
「今回の視察には、護衛として同行してもらっています」
私はそのまま言葉を続けた。
「今後の視察活動でも、二人にはすべて護衛として付いてもらう予定です。
国から正式に依頼されていますので、基本的に私と行動を共にします」
ルークとラーラは、軽く会釈をした。
言葉は穏やかに。
だが、“国の任務”であることははっきり伝える。
オズリックの視線が、二人へ移る。
一瞬だけ、値踏みするような間。
すぐに、微笑みに戻る。
「ようこそ、ホームディア院へ」
丁寧な一礼。
「護衛の方々にも、感謝申し上げます」
言葉は整っている。
だが、その目はほんのわずか、距離を取っている。
私は話を戻す。
「いきなりで申し訳ありません」
視線を逸らさず続けた。
「後ほど、現状の運営資料を拝見したいのですが
見せていただくことが出来ますか?」
周囲の空気が、少しだけ揺れる。
子どもたちではない。
シスターたちだ。
オズリックは一瞬だけ静止し、それから穏やかに微笑んだ。
「……私の執務室兼、居住区にございます」
柔らかな声。
「生活空間でもありますので、通常は視察はそこまでにしていただいておりますが――」
間。
「……本日は、特別にお通しいたします」
私は頷いた。
「ありがとうございます。助かります」
そうして、私は中庭を見渡す。
子どもたちが整列している。
「おはようございます、アイリー様」
声が、揃いすぎている。
音の高さも、間の取り方も、驚くほど同じ。
そこに“子どもらしさ”が混ざらない。
……人数は合っている。
でも。
何人かいなくなっている。
前回、よく話しかけてくれた小さな女の子。
無口で、いつも端にいた男の子。
代わりに、見覚えのない子どもが数人いる。
髪の色。身長。目の形。
違うのに、立ち方だけが同じだ。
「新しい子が増えましたね」
私は自然に尋ねる。
「ええ。入退所は流動的ですので」
淀みのない答え。
私は視線を外さない。
「以前いた子たちは?」
オズリックのまばたきが、わずかに遅れる。
「良い引き取り先が決まりました。あるいは、他院へ移送されております」
整った声。
けれど、その整い方が――さっきより硬い。
私は、ただ頷いた。
まだ、確信はない。
けれど――
あの夜。
子どもたちの様子が気にかかって、
門の外からこの建物を見上げたことを思い出す。
夜の中で、何が行われているのか。
確かめるために、忍び込む覚悟までした。
あのときは、ただの訪問者だった。
今は違う。
視察官として、正面から問うことができる。
挨拶で終わらせるつもりはない。
私は、その事実を確かめに来た。
♦︎
その時、紙を握りしめた小さな影が、列を抜けて近づいてきた。
マッシュ。
八歳の男の子。
前回ここを訪れたとき、
顔を黒く、ぐしゃぐしゃに塗りつぶした絵を差し出してきた子だ。
今日は違う。
無言のまま、胸の前に掲げられた紙。
そこに描かれていたのは――
怒っている顔。
大きく見開いた目。
吊り上がった眉。
ぎゅっと結ばれた口。
赤い線が、何度も重ねられている。
同じ場所を、
何度も、何度も。
まるで――
消えない怒りを塗り重ねるみたいに。
私はゆっくりとしゃがんだ。
「描いたの?」
マッシュは、小さく頷く。
紙の端を強く握っている。
けれど、顔には怒りはない。
無表情に近い。
まるで、絵の中だけに感情を置いてきたみたいに。
「……上手になったね」
そう言うと、マッシュの視線が管理棟の方へ流れる。
“教室を見る目”じゃない。
“確認する目”だ。
「最近、感情表現の練習をしているんです」
横から、シスターがやわらかく言う。
「自分の気持ちを、きちんと絵に出せるように、と」
説明としては正しい。
むしろ、理想的だ。
それでも。
私は、紙の上の怒りを見つめたまま立ち上がった。
それは成長か。
それとも――描き方を覚えただけなのか。
♦︎
オズリックは、わずかに視線を伏せてから顔を上げた。
「資料は執務室にございますが、私室も兼ねておりますので
少々整えてから、ご案内いたします」
一礼。
私は頷いた。
「お待ちします」
オズリックは踵を返し、執務室がある奥へと消えていく。
扉が閉まる音が、中庭へ落ちた。
「では、自由時間にしましょう」
シスターの声で、子どもたちの列がほどける。
笑い声や足音が散っていく。
けれど、どこか控えめだ。
その時だった。
私の外套の裾が、
ほんの一瞬だけ引かれた。
振り向く。
そこには、小さな女の子が立っていた。
何かを言いかけて、
口を開く。
けれど。
次の瞬間、
はっとしたように視線を逸らした。
執務室がある方を一瞬だけ見て。
そして慌てて、
子どもたちの列の中へ戻っていく。
何もなかったかのように。
――ほんの一瞬のことだった。
隣でルークが低く呟く。
「……静かだな」
「え?」
「子どもって、もう少しうるせぇもんだろ?」
確かに。
走走り出す子はいる。
声を上げて笑う子もいる。
でも――
“はしゃいだ声”が、ひとつもない。
ラーラが腕を組みながら、ぽつりと続ける。
「怒られ慣れてる空気っていうか」
軽く言っているようで、目は真剣だ。
「やりすぎなくらい“揃ってる”」
私は小さく息を吸う。
「ラーラも、そう思う?」
「うん」
ラーラは視線を中庭の端へ流す。
「いい施設だと思うよ?ちゃんとしてるし」
一拍。
「でも、息が詰まるくらい“正しい”」
私は一瞬、オズリックの消えた扉へ視線を向けた。
二人は感情で騒いでいない。
ただ、感覚で掴んでいる。
私は小さく頷く。
「ありがとう」
♦︎
十分ほど経った頃。
廊下の奥から足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
オズリックが穏やかな笑みを浮かべて現れる。
その手には、鍵束。
「こちらへ」
私たちは施設内の奥へと進む。
子ども部屋や食堂を抜け、
人の気配が薄くなる一角へ。
そこに、ひとつの扉があった。
厚みのある木製の扉。
外からは何の表示もない。
オズリックは立ち止まり、静かに言う。
「恐れ入りますが」
視線が、ルークとラーラへ向く。
「こちらは機密資料を扱う場所でございますので、視察官殿のみの入室とさせていただいております」
柔らかな声。
拒絶ではない。
規則を述べているだけ、という口調。
その時。
ルークが、わずかに眉をひそめた。
「……鍵、内側からも掛けられるのか」
オズリックの視線が一瞬だけ動く。
「ええ。管理上の都合で」
ルークはそれ以上何も言わない。
ただ、私を見る。
ほんのわずかに。
「……気をつけろ」
声に出さない、視線だけの合図だった。
ラーラも軽く肩をすくめる。
「了解。外で待ってる」
私は小さく頷いた。
「すぐ戻るね」
オズリックは鍵束から一本を選び取る。
差し込む。
金属が擦れる音。
カチリ、と小さな解錠音。
扉が開く。
私は中へ入る。
背後で扉が閉まる。
そして。
内側から、再び鍵がかけられた。
――その音が、やけに明瞭に響く。
♦︎
「こちらが執務室でございます」
部屋は、磨かれたように片付いていた。
机。書棚。帳簿。
どれも埃ひとつ見えない。
私室も兼ねているはずなのに、
生活の匂いがほとんどない。
湯の気配も、食事の気配も、眠気の気配も。
寝台はきっちり整えられ、
私物らしきものは視界に入らない。
“人が住む場所”より、
“人を迎えるための部屋”に近かった。
「どうぞ、ご確認ください」
帳簿が机に並べられる。
入退所記録は正確。
移送先も明記されている。
寄付金の帳簿も、手が行き届いている。
少なくとも、私の目に触れる範囲では――
不審な点は見当たらない。
私は一冊、帳簿を手に取る。
ページをめくる。
乱れはない。
数字も合っている。
「……素晴らしい管理ですね」
私が言うと、オズリックは静かに頷いた。
「我々は常に清廉であることを心がけております」
言葉も、部屋も、隙がない。
♦︎
その時。
視界の端に、小さな内扉が映った。
書棚の奥。
半分、影に隠れた扉。
小さな鍵穴。
「……あちらは?」
空気が、止まった。
――この瞬間だけは、はっきり分かった。
オズリックが“答えを先に決めた動き”をした。
自然に、その前へ立つ。
「私の寝室でございます」
笑顔のまま。
「私的空間ですので、視察はご遠慮いただいております」
周囲のシスターたちは、静かに一礼したまま動かない。
誰も視線を向けない。
それが、この施設の当たり前なのだろう。
私は、これ以上は踏み込まなかった。
♦︎
執務室を出ると、廊下の空気がわずかに軽く感じた。
鍵のかかる音が背後で響く。
重たい扉が閉まる。
それだけで、緊張が一段落ちる。
中庭では、子どもたちがそれぞれの遊びに戻っている。
小さな笑い声。走る足音。
表面だけ見れば、どれも自然だ。
帳簿にも、不備はなかった。
少なくとも――
見せられた範囲では。
それでも。
胸の奥に、
小さな棘のような違和感が残る。
帳簿は正しい。
記録も揃っている。
なのに――
ここにいる子どもたちは、
どこか“正しすぎる”。
減っていた子どもたちの顔。
入れ替わった視線。
マッシュが抱えていた、怒りの絵。
そして、鍵のかかる扉。
私は振り返らなかった。
まだ、決めつける段階じゃない。
疑いは、確証になってからでいい。
ただ。
揃っていることと、安心できることは同じじゃない。
それだけは、はっきりしている。
「……覚えておこう」
小さく呟き、門を出た。
♦︎
施設を離れ、石畳の道を歩き出す。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に破ったのは、ラーラだった。
「……どう思った?」
軽い調子に聞こえるが、目は真面目だ。
「ちゃんとしてたよね」
私は頷く。
「うん。記録も整ってた」
ルークが鼻を鳴らす。
「立派な国の施設って感じだったな」
「やっぱりそう思う?」
ラーラが振り返る。
「うん。悪い意味じゃなくて」
ルークは前を向いたまま続ける。
「子どもがあんなに静かなの、あんま見たことねぇ」
ラーラが言う。
「笑ってるんだけど、様子見してる感じっていうか」
一拍。
「あたし達を見てるんじゃなくて、“反応を待ってる”感じ」
私はその言葉を反芻する。
「怒られないように、かもね」
ルークが短く言う。
「管理者の顔色を見る癖がついてる」
風が吹き抜ける。
穏やかな午後だ。
「帳簿は多分問題なさそう」
私が言うと、ルークは頷いた。
「だから余計、なんかが引っかかる」
ラーラが小さく笑う。
「証拠ゼロの違和感って、いちばんやっかいだよ」
私は空を見上げた。
違和感は、まだ形を持たない。
でも、三人とも同じ場所に引っかかっている。
それだけで、十分だった。
「まだ時間はある」
私は静かに言う。
「焦らない。もう一度見る」
ルークが即答する。
「今度は、もっと近くでな」
ラーラが肩をすくめる。
「記録以外もね」
施設の白い壁が、背後に小さくなっていく。
穏やかな風が吹いている。
違和感は、まだ名前を持たない。
けれど、消えてはいなかった。
♦︎
その後も、私たちは何度かホームディア院を訪れた。
記録を見せてもらい、
子どもたちと話し、
シスターたちとも言葉を交わした。
オズリックは変わらず丁寧で、
資料は変わらず揃っている。
鍵束の音も、案内の順番も、毎回同じだった。
マッシュは相変わらず怒った顔を描き、
子どもたちは相変わらず静かだった。
それ以上の手がかりは、見つからなかった。
――証拠は、ない。
ただ、感触だけが残る。
やがて、三週間が過ぎる。
「そろそろだな」
ルークが言う。
王都への出発の日が、近づいていた。
次の視察先は、王都内のルクス養育院。
ホーリス院と、セイント院。
私は、最後にもう一度だけホームディア院を振り返った。
白い建物。
穏やかな庭。
変わらない日常。
――今は、ここまで。
答えは、まだ先にある。
私は王都へ向かう支度を始めた。




