第五話 夜に紛れるもの
高原を下りるにつれて、西から吹きどおしだった風がしだいにやんでいった。乾いて締まった草の台地は背後へ退き、足の下の土が一歩ごとにやわらかく湿ってくる。道の先には、行く手を横ぎって葉の厚い広葉樹の森が立ち、その手前に小さな町が見えた。十数戸ばかりの家が背を森に預け、東へ牧場を広げている。グレンが着いたのは日の落ちかけたころで、森の奥のほうから先に暗くなり、木立の中はもう見通せなかった。
ソナの古老が教えた町はここで間違いなかった。姿を闇に紛らせる獣が出て、狩りの組が手を焼いている。すぐそこにいるのに、目には見えないという。
肩のフェルがさっきから落ち着かず、羽を半端に立て、森の北のほうへ顔を向けて、喉の奥で低い声を立てている。いつもなら先に飛ばして、森の奥を見に行かせる相棒だ。奥に危ない獣がひそんでいると、フェルは決まってこの声を立てる。今は肩に乗せたままだが、その声で北のどこかに危ない何かがいるのは分かった。グレンは北の森へ一度目をやってから、町へ入った。
町の者があちこちで、家畜を囲いへ追い込んでいた。男が牛を編み垣の内へ追い、女が羊を呼び込む。番火がもう二か所で熾り、煙と、焼けた獣脂のにおいが湿った空気に低くたれこめている。
グレンは広場で狩りの組と顔を合わせ、組頭の男の応対を受けた。男は家畜の番も兼ねているといい、ベイルと名乗った。日に焼けた顔に、目の下の疲れが濃い。脇には、見張りの若者ティムと、茶毛の牧羊犬の綱を引いた年寄りのガロが立っている。
「腕の立つハンターが助っ人に入ってくれるなら、ありがたい」。ベイルは前置きを省いた。「ただ、先に断っておくぞ。厄介な相手でな」
続きを、グレンは黙って待った。
「居場所がつかめんのだ」。ベイルが森の北へ顎をしゃくる。「夜ごとに来る。なのに、誰がどう探っても見つからん。すぐそこにいるはずなのに、どこにいるか分からん。二晩前にゃ見張りが一人やられてな。間合いを見誤って、肩を爪で裂かれた。今も寝込んでる」
前の夜の被害を訊くと、ベイルは口の端を曲げた。「昨夜は羊を一頭やられた。編み垣の内で、喉をひと裂きにな。妙な話さ。足跡は垣の外から内へ続いてるのに、内から外へ戻った跡がない。獣がどこへ消えたのかも分からん」
グレンが北の森へ目をやると、日はもう木立の梢に半分かかっていた。
「明るいうちに、その跡を見せてくれ」。頼みながら、グレンは荷を背負い直す。「足跡の向きと、喉の裂け方を、自分の目で確かめたい。日が落ちると、跡が読めなくなる」
「居場所じゃなく、跡をか」。ベイルが少し意外そうな顔をする。
「居場所はあんたらが探っても掴めずにいる。なら、よそ者のおれに掴めるわけもない」。グレンは森を見たまま言葉を継ぐ。「だが跡はごまかせない。獣がどんな体で、どう動いたかは、土に残る」
ベイルはそれもそうだという顔で、綱を引いた年寄りに目で合図し、北寄りの牧場へ歩き出した。
北寄りの牧場は森の縁にいちばん近い一区画だった。腰の高さほどの編み垣が四方を囲い、その内側に、喉を裂かれた羊が一頭、垣の脇へ寄せて置かれている。グレンは荷を下ろし、まず羊のそばへ膝を折った。夕方の風はなく、血と、湿った獣毛のにおいが、垣の内に低くこもっている。
喉の傷は片側に一筋、深く入っていた。下あごの付け根の少し後ろだ。グレンは牙の穴の間を指で測った。上下に二対、左右の開きは手のひらの幅ほどある。喉の毛の上には、それとは別に、四本そろった浅い引っかき傷が一組ついていた。牙で押さえ、前足の爪で胴を引き寄せて、押さえ込んだ跡だろう。傷口の縁はきれいに裂けて、一度で喉を断っている。羊が地を蹴った跡は足元に二、三歩ぶんしかなかった。獲物はほとんど暴れる間もなく倒れている。
「餌を食いに来たんじゃないな」。グレンは羊の腹のほうへ目をやった。喉のほかは、わずかに食い破られた程度だ。「喉だけを、一度で裂いてる。手際が早すぎる」
それから、グレンは垣の根もとの土に膝を移した。
跡ははっきり残っていた。森側の外から垣の根もとへ、まっすぐ続く肉球の跡だ。四本指で、爪の跡は出ていない。歩くときに爪をしまう猫の仲間の足だった。前足の幅はグレンの手のひらより少し大きい。左右の跡がほぼ一直線に近く並び、歩幅は広く、どの踏み込みも浅かった。土をそっと押すように、足音を立てずに歩く運びだ。
ところが、垣の根もとの一点だけ、前足の跡が深く沈み、土が後ろへ蹴り出されていた。グレンは垣の内側へ回る。跳んだ先に、前足二つがそろって深く沈んだ着地の跡があり、そこから羊の倒れていた場所まで、数歩だった。獣は森から歩いてきて、この一点で地を蹴り、垣を跳び越えていた。
では、出ていった跡はどこか。グレンは垣の内側を、根もとに沿って一周した。内から外へ歩いて戻った足跡は垣の下にも、垣沿いにも、一つもない。だが横木の一本に、内側から外へこすれた毛が残り、上端の枝が外向きにしなって折れていた。グレンは垣を越えて外へ出る。森寄りの土に、跳び降りた前足の跡が二つ、深く沈み、そこから森の方へ、点々と続いて下草の中で消えていた。
獣は消えたわけではなかった。羊を残したまま、来たときと同じ垣を、内側からもう一度跳び越えて、森へ戻っただけだ。歩いて出入りしないから、地面に戻りの足跡が残らない。垣には跡を残す。横木のこすれと折れた枝に、人の手が触れて確かめた跡もない。組は地面の跡まで来て、そこで止まっていた。
ガロが茶毛の牧羊犬を外の足跡へ寄せた。犬は鼻を地につけ、迷わず森の縁へ匂いをたどっていく。獣の匂いは、確かに地に残っていた。グレンは犬のあとについて森の縁まで歩いた。下草の先で、犬は鼻を上げ、追うのをやめる。匂いが落ち葉に紛れて、薄れたらしい。
「ここまでだ」。ガロが綱を引き戻した。
グレンは犬が止まった場所を見た。匂いが薄れたこの先に、もし獣が伏せていても、犬は気づかないのだろう。げんに犬は止まる間際まで、近くを気にするそぶりを見せなかった。残った匂いはたどれても、今そこにいる獣のほうは、犬の鼻でも嗅ぎ当てられない。
森の縁に立って、グレンは自分の歩いてきた方を振り返った。二晩前に見張りが肩を裂かれたのも、この北寄りの牧場も、どちらも森の縁の北から北東へ寄った側だ。牧場の南と西の垣には、こすれ跡も足跡もない。獣は森の北東の一角へ抜ける一本の通り道だけを使って出入りしている。
居場所で先回りできなくても、匂いも跡も、ちゃんと残る。前夜と同じ垣の、同じ跳躍の一点。そこで待てばいい。
日の落ちるまでに、グレンは段取りを組んだ。
跡から分かったことを、まずベイルに伝える。「相手は大きな猫の仲間が一頭だ。姿をうまく闇に紛らせるから、目では追えない。だが消えちゃいない。体は地面を歩くんだ。足音は殺せても、跡までは化かせない」。グレンは森の北東を指した。「出るのも戻るのも、あの一本道だ。今夜はそこで待つ」
ベイルは半信半疑の顔だったが、二晩持て余した相手だ。異は挟まなかった。
グレンはベイルに指図し、牛と大半の羊を南寄りの垣へ寄せさせ、番火を厚く焚かせ、人もそちらへ固めさせた。北寄りの牧場だけは羊を数頭、垣の内に残し、番火を一つに落とした。手薄に見せる餌だ。獣がこれまで使ってきた垣を、今夜もそのまま使わせる。
前夜、獣が地を蹴って跳んだ垣の根もとへ、グレンは日のあるうちに鉄杭を打ち込んだ。外の蹴り跡と、内の着地点。杭の頭を地すれすれに残し、着地点を横切るように、低く縄を張る。継ぎ目を指で確かめ、わずかな緩みを詰めた。仕留めるための罠ではない。垣を越えて踏み込む勢いを、一拍だけ止める。その隙に、こちらが間合いを外して構える。
身を置く場所も選んだ。着地点の正面には立たない。獣がひと跳びでは届かない斜め横、暗がりの中だ。間合いに踏み込めば、姿を闇に紛らせる獣の姿は目の前で景色に溶ける。姿を消したまま忍び寄れば、獲物は暴れる間もない。羊はそうやって倒された。見張りも、近づいた寸前で消えられて間合いを見誤り、裂かれたのだろう。そういう獣だと、グレンは見た。だから最後まで間合いの内には入らない。鉄杭も、火も、間合いの外から届く。
ベイルと見張りのティム、ガロと犬は北東の通り道の側へ回した。番火を二つ、離して置く。犬は風下に伏せて、匂いで獣の来着を報せる役だ。「直接は当たるな」。グレンは念を押した。「間合いに入った者から裂かれてる。合図があるまで、動くな」
フェルには、北東の森の縁の上を低く飛ばせた。奥の危うさが近づいて濃くなれば、フェルの羽の立ち方と、喉で立てる声の調子が変わる。それを、獣の動き出しの早鐘にする。
仕込みを終えるころには、日は森の向こうへ落ちていた。グレンは粉の小袋を手の届く順に並べ、鉄杭の束を腰に締め直す。番火の爆ぜる音のほかは、牧場も静まっていた。あとは、獣が来るのを待つ。
番火の灯りの届かない暗がりで、グレンは身を低くしたまま、長い待ちに入った。夜気が冷え、伏せた腕の下の土も冷たい。羊が時おり身じろぎするほかは、牧場は静かだ。手の中で、鉄粉の小袋の口を、いつでも開けられるように握っておく。
この粉に火を集める手を、グレンは火術師団には見せられなかった。
待つうちに、そのころのことが浮かんだ。火術師団の、最後の選抜の日だ。試験は大きな火を、どれだけ長く出し続けられるかを見るものだった。燃料の粉を撒いて雲にし、空気を寄せて温度を上げ、雲ごと一斉に燃やす。それを、息の続くかぎり、何度も繰り返す。邦の精鋭は戦いのあいだ、その大きな火を絶やさず保ち続ける。求められたのは、太く、長く、火を絶やさない力だ。
グレンは最後の段まで残り、そこで足りなかった。隣の者たちがまだ大きな火を吐き続けるなか、グレンの火は先に細っていく。何度繰り返しても、その一点だけは、どうしても届かなかった。
落ちた、と告げられても、グレンは黙ってうなずいただけだった。自分でも分かっていた。家業に戻る道もあった。鉄を打つ腕なら、村でも図抜けている。火を長く吐けなくても、鉄は打てる。
あれから、火の使い方を変えた。暗がりで、グレンは握った粉の袋を指の腹で確かめる。大きく、長くは出せない。なら、小さく、狙った一点へ集める。鉄粉を撒かずに一点で燃やせば、師団があの試験で吐く火より、よほど高い熱がその一点だけに集まる。長くは保てなくても、一撃なら、誰よりも鋭い。今夜要るのも、その一撃だ。
風が森のほうから、湿った土のにおいを運んでくる。グレンは息を浅くして、垣の外の闇へ目を凝らした。
待つほどに、夜は更けていった。
最初に動いたのは、フェルだった。北東の森の縁の上で、フェルの伝える危うさが濃くなっていく。フェルの声が森の奥のほうへ強く向いて、低く長く鳴いた。けれど垣の外の暗がりでは、何も動かない。やがてフェルが奥からゆっくり北寄りへ顔を向け直す。
続いて、ガロの犬が鳴いた。北東の逃げ道側ではない。グレンの伏せた北の牧場の風上、森から牧場へ下る低い窪地へ、鼻を上げて毛を逆立てる。匂いまでは、ごまかせない。獣はそこにいる。
グレンは息を殺して垣を見た。前夜と同じ跳躍点では、跳ぶ音がしない。そこから五、六歩ずれた、垣の低くなった一点で、何かが地面と垣を探るような気配があった。獣は仕込んだ罠の側を避けている。打ち込んだ鉄の匂いか、踏み荒らした人の残り香を嫌ったのか。
跳躍の瞬間、フェルの危うさが急に濃くなり、犬が激しく鳴いた。だがフェルの危うさも犬の声も、なお北東の奥のほうへ向いている。垣とは食い違っていた。獣の姿は跳ぶその一瞬に、闇へ溶けて掻き消えた。確かなのは、犬の鼻が垣の低い一点へ寄ったことと、その一点で垣がこすれ、羊が怯えて鳴いたことだけ。
獣は張り綱のない低い一点を跳び越え、勢いを殺されずに牧場の内へ降りた。グレンの罠は空を切った。
だが獣は羊へは走らず、着地するなり身を低くして、垣の内の積み草の陰へ一足で退いた。そこは、羊と、伏せたグレンの両方をうかがえる位置だと、グレンは見た。間合いは、まだひと跳びの外。獣はグレンの正面ではなく、横手の暗がりにいた。
グレンの背に、冷たい汗がにじむ。罠は外れ、フェルも犬も、今は当てにならない。頼れるのは、目と耳で確かめた跡だけだ。
火はまだ取っておく。伏せた相手へ闇雲に撒けば外すし、外せば二度目はない。
グレンは狙いを、積み草の陰の縁に定めた。獣が跳び出すために前足を踏み込むはずの、その地面だ。獣の体そのものは狙わない。鉄杭を一本、低く投げる。腕で投げた杭が飛ぶ途中で念じるそばから宙で進む向きを曲げ、獣の足もとの土へ深々と突き立った。
伏せていた獣の足もとに、いきなり硬い鉄杭が生えた。
獣は跳んだ。足もとの異物を蹴り、溜めていた勢いのまま宙を一直線に来る。狙いは囮の羊でなく、たった今その杭を投げたグレンの喉だ。
その一瞬を、グレンは待っていた。いったん宙へ跳んだ体はもう向きを変えられない。姿はごまかせても、跳んだ体の進む先までは、ごまかせない。グレンは握った粉を、獣の喉の高さへ撒いた。鉄粉の周りに、念じて空気を寄せる。グレンが念じると、撒いた粉がその一点でいっせいに燃え上がった。
散らさず一点に集まった炎が跳びかかる獣の喉を、串刺しにするように焼き貫いた。
獣は跳躍の頂きで声もなく力を失った。喉と頸が焼け、煙を上げて、横手の地面へ落ちてくる。だが焼かれてなお絶え切らない重い体が勢いのまま前へ倒れ込み、グレンの間合いの内へ最後の半歩を踏み込んでくる。
その刹那、半ば焼かれて宙から落ちてくる獣の体が輪郭から闇へとろけて消えた。間合いの数歩で姿を景色に紛らせるあの力が死にぎわにまで効いていた。踏み込んでくる半歩はグレンの目の前で景色に紛れながら消える。
グレンは退き場へ引いておいた片足を軸に、身を横へ投げた。獣の爪が直前までグレンのいた所を掻いた。鼻先を焦げたにおいがよぎり、首すじが夜気に冷たくなった。
それきり、獣は動かなくなった。
グレンは地に膝をつき、肩で息をした。火が半拍遅れていれば、目から半歩が消えたまま、最後の踏み込みを浴びていた。間合いの外から、姿が見えるうちに、先に撃つ。その一点だけで、勝ちと負けが分かれた。
番火の向こうから、ベイルたちが駆けてくる。これまで姿も居場所も掴めなかった相手が今は一頭の獣として、焦げて横たわっている。ティムがその死体を見下ろして、こぶしを握りしめた。ガロの犬は生きた匂いが絶えて、もう吠えない。死体には鼻を寄せるが、声は立てなかった。
フェルが夜空から舞い降りて、グレンの肩に止まった。奥の危うさが消えて、フェルが落ち着いた。危ういものはもういないという気配だけが、グレンにも伝わってくる。フェルから届くのは、いつもそれだけだ。何が起きたのかまでは、伝えてこない。
獣の死体は組の者が運んでいった。ベイルは今夜はもう出るまいと言って、グレンに納屋の隅をあてがった。グレンは火術の粉の残りを革袋に戻し、鉄杭を回収して数を確かめてから、藁の上に身を横たえた。森の夜気が板壁の隙間から細く流れ込んでくる。じきに、グレンは目を閉じ、眠りへ落ちていった。
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石の通路に戻ると、同じかたちの石櫃がいくつも壁ぎわに並んでいた。腰までの高さの、平たい石の蓋を持つ寝台が列をなして続いている。
ひとつめの蓋に手をかけ、力を込めて押し上げる。蓋は密閉のまま、わずかも上がらなかった。次の蓋へ、また次の蓋へと、手をかけ続けていく。手のひらの下で石は冷たく、耳を寄せると、自分自身の鼓動だけが響いた。
最後の蓋から手を離す。並ぶ石櫃を背に、わたしはふたたび一人で通路に立っていた。
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翌朝、獣はもう出なかった。組の者は片づいた死体を確かめて、ようやく胸をなで下ろす。グレンは礼を受け、発つ支度をした。
町を出る前に、グレンは森の縁をひと回りする。獣がねぐらにしていた北東とは反対の、南東寄りの岩がちな一角まで来たとき、グレンは足を止めた。岩のあいだの、雨のかからない奥に、古い機構の残骸があった。
各地で、グレンはこういう古い機械仕掛けを見てきた。だが今度のはどれよりよく形が残っている。錆と土に半ば埋もれてはいるが、細かい歯車が幾重にも噛み合ったまま、岩の奥に据わっていた。グレンは荷を下ろし、しゃがみ込む。
刃物の背で、歯車のまわりの土を少しずつ払う。歯車を動かせば、二度と同じ形を写し取れない。残った歯を、一枚ずつ目で追っていく。小さな歯車から大きな歯車へ、力が何段にも渡る作りだ。途中に、力を一定に保つ仕掛けが噛んでいる。グレンは帳面を開き、噛み合いの全体を、まず線で写し取った。
それから、一つの歯を別の頁に大きく描く。隣の歯、そのまた隣の歯。どれも、寸分違わず同じ輪郭をしていた。
グレンはそこで、手を止めた。
歯が一枚残らず、同じ形に揃っている。手で一枚ずつ削った仕事では、こうはならない。一枚ごとに、わずかな癖が出る。鍛冶の手なら、グレンには分かる。これは、同じ形を狂いなく何度でも出せる作り方だ。
グレンは読み取ったことを帳面に書きとめた。この作り手は細かく正確な手わざを、機械のほうに肩代わりさせていたらしい。
そこまで書きつけて、グレンは筆を持つ手を止める。それから歯の摩耗の面と削りの方向、火と湯の機関とつながっていた継ぎ目の跡を写し取り、鉄杭一本を物差しにして寸法を書き添えた。陽が高くなるころには、写しは終わっていた。
町へ戻ると、ベイルが路銀を渡して、礼を言った。これまで居場所も掴めなかった相手を、一晩で片づけたことに、組の者たちは驚いている様子だった。グレンは礼を受け、荷を負い直す。
発つ前に、グレンは帳面を開いて、写し取ったばかりの歯車の図を、もう一度見た。いつもなら、写しを取れば帳面に仕舞って、次の土地のことを考える。今朝はその図を、いつもより少し長く眺めていた。グレンは帳面を閉じ、革紐で縛り直して、荷の奥へ仕舞った。
別れぎわ、ベイルが東への道を教えてくれた。「下っていくと、葦の茂る湿地に出る。渡し場のある里だ」。声を落とす。「そこの渡しと漁が水際の獣に手を焼いてるそうでな。薬売りも難儀してるらしい」
水際の獣と、薬売り。グレンはある女の顔を思い出した。いつか辺境の市で会った、薬を商う女だ。同じ者かどうかは分からない。だが葦の湿地となれば、あの女の通り道かもしれない。
「ありがたい」。グレンはベイルに頭を下げた。「ちょうど次の行き先を探してたんだ」
フェルが東の空へ舞い上がる。グレンは荷を負い、葦の湿地のある東へ、森の縁を下りはじめた。
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呼び名 シャドウキャット。夜、家畜を襲う大きな猫。
棲み処 森の縁。夜になると森を出て、牧場や道を行く者に忍び寄る。出入りには同じ一本の道を通る。
習性 単独で待ち伏せる。獲物に音もなく忍び寄り、牙で喉を押さえ、前足の爪で胴を引き寄せて一度で仕留める。
体と急所 大きな猫のような体。爪をしまって歩き、足音は立たない。足跡と匂いは残る。急所は喉と首すじで、毛が薄く刃が通る。
干渉 獣が数歩の間合いに入ってくると、体の輪郭が闇に紛れて見えなくなる。間合いの外なら、姿はふつうに目で見える。姿を消しても、足跡・食い痕・体のにおいまでは隠せない。犬の鼻と、地に残った跡から居場所はたどれる。




