第六話 水際の待ち伏せ
森の縁を下るにつれ、道の脇の葦の背が高くなっていった。乾いた土の色が退き、足の下は湿った黒土に変わる。細い水路が道を横ぎって東へ抜け、川岸に葦の穂が銀色にゆれる。丸一日と半日を東へ下って、グレンはミナ湿原のはずれ、ナギ川の渡し場を持つ小さな里へ着いた。
家は十五戸ばかりで、屋根を葦で葺いた渡し場の小屋が川ぞいに一つ立ち、その脇に魚を干す長い棚が伸びる。川の南寄りは水面から底の泥まで浅く見通せ、北寄りは背丈より高い葦が密に立って、そのかげの水はよどんで昏い。水深がひざの下ほどに落ちる短い瀬が中ほどにでき、川底に丸石が並んでいた。渡し舟が二艘、渡し場の杭に結ばれたまま揺れているだけで、川の上に人の姿はなかった。
肩のフェルがいったん飛び立ち、湿原の上を高く旋回する。湿原の水面のあちこちから、鴨と鷺が影を追って飛び立つ。だがフェルの旋回が北寄りの葦のかげの上に来ると、そのあたりからは水鳥が一羽も立たない。フェルは高いところをひと回りして戻り、じきにグレンの肩へ止まった。そこには生き物が寄らない、という気配だけがフェルから届く。
日に焼けた老人が渡し場の小屋の脇の葦のかげからこちらを見ていた。腰は曲がっているが目の光は鋭く、この川筋の渡し守ガリだと名乗る。四十年、川を見てきた男である。奥の日陰から中年の背の高い男が出てきて、漁の組の頭テムだと名乗った。
「舟が出せねえんだ」。ガリが川の北寄りへ、皺の深い顎をしゃくる。「三日前、あの淵の口を渡ってる途中で下から突き上げられてな。舟底が裂けちまった。客が二人ばかり水に落ちてよ。おれが引き上げて、なんとか助かった」
テムは川の北寄りをにらんだまま、後をついだ。「五日前は網を引いててやられた。淵の口で網を引いてた漁師の一人が水に引かれて、そのまま戻らねえ。もう一人は膝から下を打っちまって寝込んでる。その七日前は水牛だ。淵の岸で水を飲ませてた百姓が、水牛の前脚をひざの上から丸ごと嚙み切られてな。あとで前脚の骨が一本、下流の浅瀬に流れ着いた」
被害はどれも淵の北寄りから出ていた。相手は一頭で、この淵に居着いている。グレンはそう見当をつけた。
「その骨と亀裂を見せてくれ」。荷を下ろしながらグレンは言う。「あと、寝込んでる漁師の話も聞かせてほしい。水ん中で何をされたか、覚えてることを本人の口から」
テムが少し意外そうに眉を上げた。「聞くのが先か」
「先だ」。グレンは南の浅瀬、北の淵、その間の瀬の並びへ順に目を送る。「骨の歯型と舟の裂けめを見て、漁師の話を聞いてから狩りに出ればいい。淵に潜むやつは水底に姿を隠してて、こっちの目にゃ見えん。だが、獲物に何をしたかは骨や舟の傷に残ってる」
ガリは黙ってうなずき、日陰の水牛小屋の方へ先に立つ。
布に包まれた脚の骨が一本、小屋の裏に置いてあった。前脚のひざから上、太い骨の一本である。歯の跡は上下二列、鋭い牙が並ぶ。グレンは骨を布から出し、指で歯の間隔を測る。上の列と下の列で少し噛み合わせがずれ、噛んだ瞬間に横へねじった痕が残っていた。歯の間隔から口の幅を組むと、両の顎の広がりは、片手ではとても押さえられぬ大きさになる。
「大きな口だな」。グレンは骨を布に戻した。「渡し舟の亀裂は」
ガリが陸に上げた渡し舟の一艘へ、グレンを連れて行く。下から上へ突き破った亀裂が舟底の中ほどに走っていた。裂けめの縁は下から中へ突き上げて割れた形をしており、外から中へめくれた跡ではなかった。突き上げの力は水面に対してほぼ垂直に、真下から一直線に上へ抜けていた。相手は舟の下へ回り、体当たりで舟底を頭で突き上げている。
寝込んでいる漁師のところへは、テムが案内した。土間の隅の藁の敷物に横になった若い漁師が太股と脛の擦れた痣を布から見せる。鱗の擦れた跡だ、と本人が続けた。
「先に足首をなぞられたんだ」。漁師の声はまだ細い。「水面に立ってたおれの、足首だよ。触れたと思った次の瞬間、水の流れが足元でぐるりと回ってな。踏ん張ろうとしたら、足を横へ払われた。そのまま水を飲んで、気がついたら岸で仰向けになってた」
「なぞってから、足を払ったか」
「そうだ。触られてから、そのあとで流れが来た。順ははっきり覚えてる」
グレンは礼を言い、土間の日陰から昼の光の中へ出た。
集めた跡と話をつなぎ合わせると、相手は水中で獲物の足音・櫂の音・網の綱の張り具合を、水を伝って届く圧の変化でいち早く感じ取り、そのうえで水底から水流を渦にして獲物の足を横へ払う。よろけた獲物が水を飲む瞬間、下から突き上げて口で噛み、そのまま淵の中へ引き込む。そこまで組み立てて、グレンは淵と浅瀬のあいだへ足を運んだ。
腹の擦れた痕が一筋、北寄りの淵の岸の泥に直線に十歩ぶんほど残っている。幅は人の胴ほどあった。夜のうちに淵から岸へ半身を寄せた跡だ。獲物の気配を上から取りに来ているのだろう、とグレンは踏んだ。淵の入り口の水底の泥は上から見下ろすと螺旋を巻いて泡が抜けたようにへこみ、水流を渦にして撹乱した跡がそのまま残っている。
南寄りの浅瀬に膝までつかると、水はぬるく、流れも遅い。水底の丸石は掌ほどの大きさで、みっしり並んでいる。この上を腹で這って越えるのは難しい。淵と浅瀬のあいだの瀬では水がひざの下に落ち、丸石がひときわ大きく、頭ほどのものが多かった。縁は鋭く欠け、腹で乗り越えれば鱗が擦れて浅い傷を負うだろう。相手を瀬の手前まで引き出し、この石の縁で足を止めさせれば、こちらの間合いが取れる。
グレンは瀬の脇にしゃがみ、頭ほどの丸石の一つを両手で持ち上げてみた。落とせば底へ食い込んで動かない重さで、杭を打つ土台に、これが要る。
日はもう西へ傾いていた。段取りを組むまえに、翌朝の市で仕入れねばならぬものがあった。傷の手当ての薬と、狩りの前夜に飲むぬるい湯冷ましの根。渡し場の女将にそう話すと、朝いちばんに南の水路から葦舟の薬売りが来る、と教えられる。ちょうど旬の市だという。
グレンは女将の家の軒に荷を寄せさせてもらい、火のそばに座った。フェルは軒の梁に止まり、羽の下へ嘴をしまう。ガリは渡し場の小屋の脇で、黙って水面を見ている。
蛙が鳴きはじめた。段取りの半分は夜のあいだに固まる。もう半分は朝の市で組の者と話し、地形を知る者に聞いてから詰めていくことになった。
翌朝、渡し場のたもとに小さな市が立つ。粉の袋を担いだ女や革紐を巻いた老人、干し魚の籠を積んだ男が葦干し棚の脇に四つ五つの台を並べていた。日はまだ低く、川の面に薄い光が這っている。
グレンは女将に案内されて、市の並びを歩いた。南の水路から着いた葦舟が台の一つに繋がれている。杭に結ばれた舟のまわりだけ、水面のざわめきが妙に平らだった。ふつうの流れが舟の脇でわずかに落ち着き、木の胴に触れる波が細くなっている。念じるだけで水面を鎮める術の跡だと、グレンは見て取った。
薬草を並べた台が舟のかたわらの布の上にある。化膿止めの干し葉、止血の粉、打ち身の膏薬、熱冷ましの根、巻いた縄と革紐。並べ方に見覚えがあった。あのヴェナの市で腕の擦り傷に薬草を売った女が台の後ろに立っていた。
女はグレンが台の前に立っても包みの手を止めず、次の客の要り用を頭で数えていた。目方を計り、余った半端を別の客の分と合わせて割り、銭を木の椀に落として、上に小石を置いて客ごとに分ける。三、四人の注文を並行に捌く手つきに、迷いはない。
その手つきに、母テナが村うちの家々から届いた注文を紙に書きつけながら、鍋の火をいつ落とすかを判断していた台所の朝が遠くから重なった。父の鍛冶場から回ってくる鉄の注文と、母の帳面に並んだ家々の名前と、鍋のなかの豆と麦を、母は同時に見ていた。弟ロルの椀とグレンの椀に飯を分けた匙が椀のふちで小さく鳴る。飯の量は毎朝、二人の椀にぴたりと同じだけ入っていた。
台の女の手元へ、グレンは目を戻す。
腕を前へ出して擦り傷を見せた。「化膿止めと、狩りの前夜に飲むぬるい湯冷ましの根、それに止血の乾いた葉を、一包みずつ」
女は台の手前の布から化膿止めの薬草を一包み、指で選り分けて置いた。続けて熱冷ましの根を一節折り、止血の乾いた葉の包みを、いつもの並びで前へ寄せる。手を止めず、グレンの腕の擦り傷に目をやった。「その擦り傷、葦の縁で切ったろ。乾きのいいのを選んどいたよ」
薬草を寄せながら、女はグレンの腰の鉄杭の束に一度だけ目を落とす。締め方を見て、視線を戻した。「……鉄の束、締め方は変わらないね。北の道はまだ先があるのかい」
グレンは腕を引き、三品を胸の前まで寄せた。「まだ先だ。今はここに用がある」
女は三品を布ごと軽く前へ押し出し、値の段になると言葉を落として短く言い切った。「三つで銅六枚だよ。まけないからね」
グレンは値切らずに銭を置く。「助かった」
女は銭を椀に落とし、他の客の椀と紛れないよう小石で仕切った。「ふうん」。それきり、目は次の客へ行く。
日が高くなるころ、市の客足がひと段落した。台の薬草は半分ほど売れ、女は空いた布を畳んでいる。
グレンは台の前へ戻り、腰の鉄杭の束を身体の側面につけたまま、女と目の高さを合わせるように腰を落とす。
「湿地の道を、聞かせてもらいたい」。声は台の内側だけに届く高さで抑えた。「ここの淵と瀬と、下流までの水路の並びだ。あんたが商いで通っている道だ。薬の代金とは別に、対価を払う。値は、あんたが付けてくれ」
女は薬草を包みかけていた手を止め、布ごと台の隅に寄せる。台の後ろで軽く腰を落とし、指で台の板を三度、間を置いて叩いた。
「湿地の道ね。……全部じゃないよ。あたしは品ごとに分けて出すんだ」
女は指を立てて数える。「淵の口の水底の形、瀬の丸石の並び、季節ごとの水位の変わり方。この三つが基本の品だよ。銅で八枚。まけないからね」
少し間を置いて続けた。「銅の代わりに、あんたが今度仕留めるやつの鱗を三枚でも受ける。革と薬の目利きで、あたしの商いに要るからね」
グレンは腰の袋から銅を数え、八枚を台の椀に落とす。「銅で払う。鱗の話は狩りの後だ。今は約束できん」
女は銭を数え、椀の別の場所へ小石で仕切った。それから声を落として、指を三本のうち一つずつ順に触りながら、地形の話を短く並べていく。淵の入り口の水底に一段の棚が落ち、その先で急に深くなる。水流が棚の縁の下を長く削り、奥へえぐっている。瀬の丸石は流れの中ほどが最も大きく、両岸へ寄るほど小さい。季節の水位は夏の終わりに最も下がって、丸石の頭が水から顔を出すところまで落ちる。三品は指の順に、短く言い切って並んだ。
話が終わると、女は台の上に置いた指を軽く握る。「裏の水路は別だよ」。目を上げて言い足した。「あたしの葦舟でしか抜けない細道は、値には入れないんだ。今日は話さないよ。それを渡したら、あたしの商いの底が抜けるからね」
グレンはうなずき、台から半歩退いた。
女はもう一度、目を合わせ直す。声をさらに落とした。「それと、値のうちで一つだけ添えとくよ。あんたが今夜か明朝に狙うやつ、あの棚の縁の下に伏せてるはずだよ。……命に関わる話は、値の都合で伏せたりしないから」
グレンは初めて、女の顔を正面から見た。棚と縁のえぐれ、と口の中でくり返す。昨日の夕方に見た水底の螺旋の泥はその棚の縁を下流へ流れる水が渦になった跡だ。渡し舟を突き上げた力が真下から一直線に上へ抜けているのも、棚の下から舟底まで垂直に上がる筋なら合う。夜のうちに岸へ寄せた腹の擦れ痕は棚の縁の下から抜けて岸を這う道筋であり、相手が待ち伏せる場所は淵の入り口のその一点だと絞れた。
「助かった」。グレンは頭を下げつつ、腰の袋の紐を締め直した。「借りにはしない。銭で釣り合ってる」
女は椀の縁に指を触れ、目をふっとゆるめる。「あんたはそれでいい」
台の椀を片づける手つきで、女は次の客のほうへ向き直った。
グレンは市を離れて、渡し場のガリと組頭のテムのところへ戻る。棚の縁の下だ、と一言だけ伝えると、ガリの目が細まった。テムはうなずいて、日暮れまでに要る手はずを組に伝えに走る。
その日の夕、グレンは淵の口の岸で段取りを最後の一手まで詰めていった。相手を棚の下から突き上げの一手に誘い、水面へ半身を出したところで撃つ。囮には、割れた渡し舟をひとつ使う。ガリの許しをもらい、亀裂の入った古い舟に葦の束と、七日前に岸に残されていた水牛の骨と肉のなごりを積んだ。舟の内側に獣脂の匂いを残し、風で下流へ流す狙いだった。舟は淵の入り口の水面へ、綱で杭に繋いで固定する。棚の縁の真上に、ちょうど収まる位置になった。
鉄杭を三本、瀬の丸石の縁に、頭を水面すれすれにして突き立てた。相手が瀬まで押し出されて腹を丸石の縁で裂かれるなら、そこに鉄が生えていれば、勢いをもう一度殺せる。杭を打つ土台には、昨日持ち上げた頭ほどの丸石で足りた。
夜が薄れかける少し前、東の空が青みはじめる。グレンは瀬の南岸、丈の低い葦のかげに身を伏せた。鉄杭の残りを腰の脇に、火術の鉄粉を革袋のまま手の届く順に並べる。淵の口までは目算で二十歩、瀬の丸石までは五歩。フェルは陸の北寄りへ離し、警戒だけを気配でよこす役に置いた。ガリとテムは南寄りの葦干し棚のかげでグレンの合図を待つ。
明けの空が白みはじめるころ、川面に薄い霧が湧いた。淵の口の水面が一度細く波立つ。舟の底が下からわずかに突かれ、綱で杭に結ばれた舟が斜めに傾いだ。相手が棚の下から、舟を目がけて突き上げにかかっている。
警戒の気配がフェルから濃くなって届いた。だが気配が濃くなる先は舟の位置よりも、瀬の南寄り、グレン自身の伏せた場所の方へ少し寄っている。
相手は舟の擾乱を察している一方で、その擾乱を出しているこちらの側の位置も水を伝う圧の変化から掴んでいる、とグレンは見当をつけた。
舟の下の水が一度、大きく渦を巻き、次の瞬間、舟の縁が水面から浮き上がる。相手は舟の真下から少し外れた斜め横で水面から半身を出した。淵の入り口の水面が横へ盛り上がり、盛り上がりのまま、瀬の丸石の縁を越えて、南岸へ向かって突き進んでくる。相手は舟を蹴って弾みをつけ、瀬を越え、グレンの伏せた葦のかげへ、直線に突っ込んできた。
グレンは息を殺したまま、鉄杭を一本、握る。相手の姿は水面から胸まで出て、大きな口が半ば開いていた。歯の間隔から組んだ両顎の幅は片手で押さえきれない大きさで、水を切り分けながら迫ってくる。
瀬の丸石の縁を越える一瞬、相手の腹が鋭い石の縁と突き立てた鉄杭に、続けざまに擦れた。鱗が裂ける音が朝の川面に短く鳴る。相手の突進の勢いが、そこで半歩ぶん、鈍った。
その半歩を、グレンは待っていた。
鉄杭を一本、低く投げる。腕で放った杭が飛ぶ途中で念じるそばから宙で進む向きを曲げ、相手の頭の下、鰓の後ろの一点に、深く突き立った。相手の首が横へ捻れ、勢いが片側へ流れる。
続けて革袋から鉄粉を掴み出し、鰓の裂けた縁へ放った。鉄粉の周りに念じて空気を寄せ、朝の川面のその一点だけで燃やす。散らさず集めた炎が鰓の裂けめから頸の内側へ深く焼き貫いた。
相手は瀬の丸石の上に、横ざまに倒れた。白い煙が頸の下から上がった。ぬれた鱗が朝の光を短く弾く。
葦干し棚のかげからテムが駆け出してきて、ガリが遅れて続いた。相手の頭を回して、口の中を確かめる。歯の間隔は水牛の骨の跡とぴたりと同じだった。
「終わったな」。テムはこわばった肩を落とす。
グレンは瀬の水につかったまま、肩で息をした。瀬の冷たい水が膝の裏に這い上がる。呼吸が肩から胸まで落ちるのに、しばらくかかった。
朝の光が川面いっぱいに広がった。
フェルが陸の北寄りから舞い降りて、グレンの肩に止まる。奥の危うさが消えた気配がフェルから届いた。ガリと組の者は瀬に横たわった死体の始末に取りかかっている。
グレンは市の並びへ目を向け、渡し場の杭を確かめた。女の葦舟はまだそこに結ばれていた。
グレンは瀬から水を切って上がり、市の並びを横切って、女の葦舟の脇の川岸に立った。女は台をもう畳み、薬種の残りと干物と革紐を舟に積み戻している。女の指は杭に結んだ縄の結び目にすでにかかっていた。
「棚と縁のえぐれ、当たったよ」。グレンは声を落として告げる。「相手は棚の下から瀬までを、勢いで越えてきた」
女はほどく手を止めずに、グレンの顔を一度だけ見て、視線を舟の荷に戻した。「そうかい。棚と縁のえぐれで当たったんなら、それでいい」
縄を舟のへりに落として、革紐の束を舟の中で積み直す。それから櫂を舟のへりに立てかけ、身体をわずかにグレンの方へ向けた。
「あたしはこれから下流の里さ。明日はそこで市に立つ。その先は東の平野で旬の大市だよ。人族の本領寄りの、穀倉に近いやつだ。年に一度、無理してでも足を運ぶんだ」
短く間を置いて、女は台の並べ方の話に落とす。「気が向いたら、覗きな。台の並べ方は、いつもと同じにしとくよ」
もう一拍、いつもの短さで女は続けた。「あたしは、ノラ」
それだけ短く置いて、舟に片足を乗せ、櫂を握る。「……まあ、いいか。じゃ、行くよ」
ノラは舟を杭から離し、櫓を水に落とした。舟の周りだけ、水面のざわめきが平らになる。葦舟は下流の葦のかげへ、細く水を切って抜けていく。
グレンは葦のかげが閉じるまで、そこに立って葦舟の影を見送った。
フェルが肩の上で羽をたたむ。ガリが瀬から上がってきて、路銀の袋を差し出した。相手を一晩で片づけた礼だと、ガリは短く言い添える。グレンは頭を下げて袋を受け取り、荷に仕舞った。
「東の道はな」。グレンはガリに向き直って訊いた。「下ると、どこへ出るんだ」
ガリは川の東を見て、しばらく黙ってから口を開く。「下れば、穀倉の中心の邦の狩り場に出る。ハルア平野の北縁だな。あそこにも狩りの組が要るだろうよ」
グレンは頭を下げて礼を言い、女将と組の者に別れを告げた。フェルが肩で軽く鳴き、荷を負い直したグレンは渡し場のかたわらの道へ足を向ける。
道の脇の葦が風に揺れて銀色に鳴った。東の空はもう晴れて、雲がまばらだった。
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呼び名 サーペント。川淵に居着く大きな遊泳の獣。ミナ湿原では「淵の主」とも呼ぶ。
棲み処 川淵と湖沼の底。段差の落ちる棚が水底にあり、縁の下が水流に長く削られてえぐれた場所を選んで伏せる。夜のうちに岸へ半身を寄せて、上から獲物の気配を取りに来ることもある。
習性 単独で待ち伏せる。水中で獲物の足音・櫂の音・網の綱の張りを、水を伝う圧の変化で先に察し、水流を渦にして獲物の足を横へ払う。よろけて水を飲んだ一瞬、下から突き上げて口で噛み、そのまま淵の中へ引き込む。
体と急所 全長は渡し舟の胴ほど。長い胴を鱗で覆い、四肢は短く水かきを持つ。両顎は片手で押さえきれない大きさで、上下二列に鋭い牙を並べる。急所は鰓の後ろ。
干渉 水面上の擾乱を遠くから察して狩りの合図にする。




