第4話 近くにスーパーあります?
ピピッ
噂をしてると真琴先輩から連絡が来た。
天使たちの連絡手段として使われているのは、『チャットポッド』と呼ばれる魔法具だ。
簡単に言えば、人間界のスマホみたいなもの。
……いや、正確にはスマホを基準に説明すると怒られるくらいには高性能なんだけど、私みたいな元人間からすると、どうしてもその認識になってしまう。
このチャットポッドは魔法具の一種で、ほとんどの天使は普段から体内に収納している。収納といってもポケットやカバンの中に入れているわけじゃない。分子レベルまで分解した状態で体内に保持し、必要になった瞬間だけ再構築して取り出すという、初めて聞いたときはSF映画か何かかと思ったような仕組みらしい。
さらに上級の天使になると、それを脳や神経系に直接接続している人までいる。連絡が来れば頭の中に通知が届き、資料を開けば視界に直接情報が表示されるというびっくり仕様。人間だった頃の私なら「便利そう!」と反射的に飛びついていたかもしれないけれど、正直なところ脳に直接データを流し込むとか聞くだけでちょっと怖い。
だから私は、昔ながら――と言っていいのかわからないけれど、外付けタイプを使っている。
魔力を使えばチャットポッドの形状や大きさは自由自在に変えられるため、腕輪型にしている人もいれば、アクセサリーとして身につけている人もいるし、中には本当に体の一部みたいに扱っている人もいるらしい。その点、私はまだ魔力の扱いが未熟だ。細かい制御なんて到底できないので、支給されたチャットポッドも見た目はほぼスマホそのまま。サイズ感も重量も操作方法も、人間界で使っていたものとほとんど変わらない。おかげで使いやすい反面、なんとなく研修生感が抜けないというか、「はい、初心者用はこちらです」と渡された練習機材みたいな扱いを受けている気がしなくもない。ちなみに今使っているこれは正式な個人端末ではなく、あくまで貸与品だ。天使として昇格し、一定の資格を得ると、個人専用のIDとデータバンクが発行される。それによって天界のクラウドネットワークへ正式に接続できるようになり、自分専用のチャットポッドを構築できるようになるのだとか。
そのネットワークもまた規格外だった。通信は分子単位で行われていて、保存された情報はどこからでも呼び出し可能。利用者は魔力を媒介にして必要なデバイスをその場で組み立て、端末として使用する。つまり「スマホを持ち歩く」という概念そのものが存在しない。データだけを常に保持しておき、必要なときだけ形を与えて取り出す。体内に埋め込むという表現も、実際には分子レベルで収納しているだけなので、怪我をしたり手術をしたりするわけではないらしい。初めて説明を聞いたときは意味がわからなかったけれど、今なら少しだけ理解できる。だって考えてみれば便利なのだ。連絡が来たら自動で画面を表示することもできるし、アラームを鳴らすこともできる。そもそも体の中に収納されているのだから、落とす心配もなければ置き忘れることもない。スマホを三回なくした経験のある私からすると、それだけでも革命的な発明だった。
えーっと、真琴先輩からのメッセージは――
『無事に着けた?』
……相変わらず優しい。
この一文だけで、荒れ果てた心にじんわり染みるものがある。少なくとも謎に畳が沈みそうな古民家に放り込まれた新人天使に対して、最初に安否確認をしてくれるあたり、真琴先輩は間違いなく良識側の存在だった。
私はすぐに返信欄を開き、親指で文字を打ち込む。
『無事に着けたけど、状況が芳しくありません』
と。
「誰から?」
「……あ、いや」
背後からひょいっと夏木先輩が覗き込んできたので、私は反射的に画面を伏せた。いや、別に見られて困る内容ではない。ないのだけれど、なんというか、こういうものは気持ちの問題である。
私は少しだけ考えてから、結局さっきの文章を消し、別の文面を打ち直した。
『頑張ります。もし一週間連絡がなかったら、畳に飲まれたと思ってください』
送信。
すぐに既読がついた。
『畳には気をつけてね』
……否定しないんだ。
真琴先輩、そこは「そんなことないよ」とか「大丈夫だよ」とか、優しく安心させてくれる流れじゃないの?
この家の畳、やっぱり天使界隈では正式に危険認定されているの?
私がチャットポッドの画面を見つめたまま固まっていると、夏木先輩がまた横からぬっと顔を寄せてきたので、私は端末をぎゅっと胸に抱え込んだ。
「見ないでください」
「えー、まこっち何て?」
「個人情報です」
「天使同士にプライバシーなんてないよ」
「あります。あってください。ないと私の精神衛生が死にます」
「大げさだなぁ」
夏木先輩はまったく悪びれた様子もなく肩をすくめると、あっさり興味を手放したように踵を返した。
真琴先輩は、私のことをどこまで知っているのだろう。
私が烏森町の出身で、烏森高校に通っていて、交通事故で死んだこと。たぶん、そのあたりの基本情報は、教育担当として最初から把握していたはずだ。というか、把握していなかったらそれはそれで困る。こっちは死後の進路指導を受けている身なのだから、担当者にプロフィール欄すら読まれていないとなると、さすがに天界の管理体制を疑いたくなる。
けれど事故の詳しい状況や、生前の家族、友人関係、私が最後に誰と話したのか、どんな生活をしていて、どんな人間だったのか――そこまで真琴先輩が知っていたのかはわからない。
というより。
そういう情報は、そもそも見ようと思えば見られるものなのだろうか。
「あの、夏木先輩」
「ん?」
夏木先輩が、廊下の途中で振り返る。
薄暗い二階の廊下に、古い木材の匂いが漂っていた。階段の方からは、一階のテレビの音がかすかに聞こえている。
「私の死亡記録って、自分で見ることはできるんですか?」
口にしてから、少しだけ胸がざわついた。
自分の死亡記録。
言葉にすると、やっぱり変だ。
夏木先輩は一瞬だけ目を細め、それからいつもの調子に戻って答えた。
「正式な手続き踏めばね。見習い本人が自分の死亡記録を閲覧するには、教育審査局と魂管理局の承認がいる。面倒だから普通はやらない」
「面倒なんですね」
「天界で一番強い魔法は書類だから」
「すごく嫌な真理を聞いた気がします」
天界法、恐るべし。
魔法陣より判子の方が強い世界なのかもしれない。
「私の担当区は中川区全域なんだけど、最近は八田町の方へ行くことが多いんだよね」
「八田町?」
「烏森町の隣。ここからも近い。そこで失踪事件が続いてる」
「失踪事件……」
「人間の警察も動いてる。天界側も管制塔で監視してる。魔族反応は出たり消えたりで安定しない。魔物に襲われた痕跡も、魂を食われた形跡も、はっきりしない。人間の事件なのか、魔族絡みなのか、どっちにも決めきれない」
急に空気が変わった。
古民家の薄暗い廊下。天井の隅に張った蜘蛛の巣。足元でかすかに軋む床板。一階からは相変わらずテレビの音が聞こえているのに、その生活感だけが妙に遠い。
私は自然と背筋を伸ばした。
「真琴先輩のチームが烏森町にいたのも、そのせいですか?」
「そう。まこっちのチームは実績あるからね。うちみたいなテキトー組だけに任せてらんないって上が判断したんでしょ」
「自分でテキトー組って言うんですね」
「事実は事実として受け止めるタイプだから」
「そこ受け止める前に改善しません?」
「改善はそのうち」
「出た、そのうち」
下界修行初日から不穏な情報が多くない?
私は平和な町でゴミ拾いして、交通指導して、真面目に課題をこなして、時々スイーツを食べる予定だったのに。
「夏木先輩は覚えてるんですか?」
「何を?」
「生前のこと」
「当たり前でしょ。まあ、私が人間だったのはもう三十年も前の話だけどね」
「三十年……」
思わず声が小さくなった。
三十年。
私からすると、すごく長い。
人間の三十年は、赤ちゃんが立派な大人になって、場合によっては家庭を持って、仕事をして、人生の形が何度も変わるくらいの時間だ。天使にとっては、たぶん少し感覚が違うのだろう。寿命がない存在にとっての三十年は、人間より軽いのかもしれない。
それでも三十年は三十年だ。
目の前の夏木先輩は、私と同じくらいの年齢に見える。少し年上か、同年代くらい。ポニーテールで、シャツをだらしなく着て、コタツでみかんを食べている。とても三十年も天使をやっているようには見えない。
天使の肉体は、その魂がもっとも活発だった時期の記憶を参考に構成される。
だから見た目年齢と実年数は一致しないんだそうだった。亡くなった年齢とも限らないみたいで、子どもの姿をしたベテラン天使もいるし、老人の姿をした新人もいる。人間の魂以外を基礎にした天使もいるので、そもそも人間の年齢という概念が当てはまらない場合もあるらしい。
頭ではなんとなくわかったつもりではある。
でも、目の前で同年代っぽい先輩に「三十年前」と言われると、脳が少し混乱してしまう。
「三十年前って、昭和ですか?」
「失礼だな。ギリ平成だよ」
「すみません。時代感覚がまだ雑で」
「平成初期の空気を知らない若者め」
「私、死んでるので若者と言っていいのか微妙です」
「死後一年未満は若者でしょ」
「そういう分類なんですか?」
「今作った」
「適当すぎる」
夏木先輩は楽しそうに笑った。
聞くと、元々は関東に住んでいたらしい。さらに細かく聞いたら、青森県の最北端に近い場所で生まれ育ったと言われ、私は「関東とは」と心の中で突っ込んだ。本人いわく「地理は雰囲気」らしい。
雰囲気で地理を語るな。
「三十年も天使やってるとさ、だんだんサボり癖がついてくるんだよ」
「堂々と言うことじゃないです」
「業務が嫌いってわけじゃないんだけどね? この多様性の時代に、ちまちま書類まとめたり、交通パトロールなんかに一日中勤しんでらんないよ。適度に遊んで、適度に仕事するくらいがちょうどいいんだ」
「教育審査局が聞いたら卒倒しそうな発言ですね」
「教育審査局は卒倒しないよ。あの人たちは倒れる前に報告書を書く」
「怖い」
「あんたに教えとくよ。“有意義な過ごし方”ってやつをさ」
うわぁ。
絵に描いたようなやる気のない天使だ。
この人、本当に三十年もやってるの?
いや、三十年やった結果こうなったのかもしれない。真面目に働き続けた末に、行き着いた境地がコタツとみかんと適度なサボりなのだとしたら、それはそれで深い……のかもしれない。いや、深くない。たぶんただの怠惰。
「とりあえず、荷物置いたら買い物行ってきて」
「買い物?」
唐突すぎる単語に、私は思わず聞き返す。
「夜ご飯の食材。冷蔵庫、思ったより空っぽだった」
「先生が行くんじゃないんですか?」
「私は留守番」
「何の?」
「家の」
「家は逃げませんよ」
「この家はわかんないよ」
「怖いこと言わないでください」
さらっと不穏なことを言わないでほしい。
今まさに畳への警戒度が上がったところなのに、家全体まで怪しい存在に格上げされると、もう安心して荷物も置けない。そんな私の不安など知ったことではないとばかりに、夏木先輩は階段を上がりきったところで足を止めた。
二階の廊下の端には、小さな木の棚が置かれていた。
古い鍵や、輪ゴムや、何に使うのかわからない金属片みたいなものが雑に積まれていて、その上に、使いかけのメモ帳が一冊だけぽんと置かれている。夏木先輩はそれを当たり前みたいに手に取ると、ぱらぱらと数枚めくってから、一枚を破ってこちらに差し出した。
「はい、これ」
渡された紙には、手書きの文字で買うものが雑に並んでいた。
肉。
野菜。
米。
卵。
牛乳。
みかん。
煎餅。
焼肉のタレ。
カップラーメンは好きなの。
……最後。
最後だけ急に情報の方向性がおかしい。
買うものなのか、好みの申告なのか、あるいは買ってきてほしいという遠回しな圧なのか、判断に困る書き方をしないでほしい。
というか、途中まではまだ生活必需品のメモとして成立していたのに、最後の一文で完全に買い物メモとしての責任を放棄している。
「好きなのって何ですか」
私は買い物メモの一番下に書かれた謎の一文を指差した。どう見ても買う物の一覧に紛れ込ませる内容ではなかったからだ。むしろ付箋か何かに別で書くべき情報だと思う。
すると夏木先輩は、まるで当たり前のことを聞かれたみたいな顔で首を傾げた。
「好きなの買っていいよ」
「そこだけ自由なんですね」
「天使に必要なのは自主性だから」
「都合のいい時だけ教育者っぽいこと言わないでください」
絶対今それっぽいこと言いたかっただけですよね。
そんな言葉が喉元まで出かかったものの、これ以上突っ込んでも話が脱線する未来しか見えなかったので、私は大人しくメモを受け取ることにした。
買い物袋を持たされて食材の調達を任される。
なんだか普通の下宿生活みたいだ。
何度も言うけど、天使になったらもっとこう神秘的な任務とか、荘厳な儀式とか、光の柱の中で祈りを捧げたりするものだと思っていたのだ。けれど現実は夕飯の買い出しである。
いや、まあ。夕飯は大事だ。さっき煎餅を一枚もらっただけでも、醤油の匂いとぱりっとした食感で妙に気持ちが落ち着いたのだから、真琴先輩が言っていた「食べた方が精神は安定する」という話も、今ならかなり実感を持って理解できる。
天使は別に人間みたいに毎日三食きっちり食べなくても活動できる。魔力と魂の循環さえ正常なら、肉体は勝手に維持されるし、栄養失調で倒れることもない。極端な話、何年食べなくても存在そのものが消えることはないらしい。……らしい、という言い方になるのは、もちろん私がそんなチャレンジ精神あふれる実験をする気など一ミリもないからである。だって普通にお腹は空く。少なくとも私は空くし、美味しいものを食べればちゃんと幸せになる。天使になったからといって、急に霞だけで満足できる高尚な存在になれるわけではないのだ。
ただ、前に真琴先輩が言っていた通り、天使にとっての食事は単なる栄養補給ではない。むしろ役割としては、魂のメンテナンスに近いらしい。下界の食べ物は、人間だった頃の感覚を自然に呼び起こす。温かい味噌汁を飲んでほっと息を吐くこと。熱いラーメンを勢いよくすすって舌を火傷すること。疲れた日に甘いものを食べて、脳みそが溶けるみたいに幸せになること。そういうどうでもよさそうで、でも確かに自分を人間だった頃の感覚へ戻してくれるものが、魂の輪郭をやわらかく保ってくれるのだという。
長く天使を続けていると、少しずつ感情の起伏が鈍くなることがあるらしい。悲しいことにも慣れ、嬉しいことにも慣れ、何百年、何千年という時間の中で、心が摩耗するというより、静かに平坦になっていく。だからこそ、食事のような小さな刺激が大切になる。お腹が空く。匂いに釣られる。ひと口食べて「おいしい」と思う。満腹になって眠くなる。その一つ一つが、人間だった頃の自分をつなぎ止める杭みたいなものなのだ。
ついでに、好きなものを美味しく食べると魔力循環も安定するらしい。そこが精神論なのか、実際に魔力の流れへ影響しているのかはまだよくわからないけれど、現場の天使たちがやたら真面目な顔で「ちゃんと食べろ」と言うので、多分それなりに重要なのだろう。夏木先輩がみかんを常備しているのも、ただの趣味に見えて、案外そういう理由があるのかもしれない。……いや、あの人の場合は単純に好きで食べている可能性もだいぶ高いけれど。
ちなみに日本人の魂を持つ天使には、米や魚や味噌汁が特によく効くらしい。故郷の記憶と結びついているからだとか何とか。あと焼肉は万国共通で効く。これは研修中に複数の先輩から聞いたので、かなり信頼性が高い情報である。国籍も年代も違う天使たちが、焼肉の話題になった瞬間だけ妙に深く頷いていたのだ。もはや天界公認の真理と言っていい気がする。
「近くにスーパーあります?」
買い物メモを片手に尋ねると、夏木先輩は「あるよ」と軽い調子で頷いた。
「歩いて十分くらいかな。道わかる?」
「地図見れば何とか」
「まあ、チャットポッド使えるなら大丈夫か」
そう言いながら、先輩は二階の廊下の壁にもたれかかった。
そのまま終わるかと思ったのだけれど、なぜか少しだけ真面目な顔になる。
「ついでに町の空気も見てきなよ」
「町の空気?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
空気を見るって何だろう。
酸素濃度でも測れということだろうか。
私が首を傾げると、夏木先輩は苦笑しながら説明を続ける。
「下界勤務の基本だよ。地図とかデータだけ見ててもわかんないことって結構あるから」
「例えば?」
「人の流れとか」
一本指が立つ。
「音とか」
二本目。
「匂いとか」
三本目。
「あと違和感」
最後に四本目。
なんだか急にベテランっぽいことを言い始めた。
「違和感?」
「うん。何か変だなって感覚」
先輩はそう言うと、窓の外へ視線を向けた。
「魔族反応って、機械の数値に出る前に気づくことがあるんだよ」
「そんなことあるんですか?」
「あるある。人通りが多い場所なのに妙に静かだったり、逆に誰もいないのに妙な気配が残ってたり。数字じゃ説明できないけど、現場に立つと何となくわかることってあるんだよね」
それは経験則というやつなのだろう。
研修施設では機材の扱い方や観測方法ばかり教わってきたけれど、現場の天使はもっと感覚的な部分も重視しているらしい。
「だから町を歩く時は周りも見ておくこと。店の雰囲気とか、人の表情とか、そういうの意外と大事」
なるほど。
確かに地図アプリだけ見ながら歩いていたら、その辺は全部見落とすかもしれない。
私は少しだけ感心してしまった。
「……先輩」
「ん?」
「たまにちゃんと先生ですね」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間、夏木先輩の眉がぴくりと動いた。
「たまにって言うな」
「だって普段は畳に飲まれるとか言ってるじゃないですか」
「事実だから仕方ないでしょ」
「怖いことを事実認定しないでください」
「それより常に先生っぽいって言え」
「常には無理です」
「即答!?」
あまりにも反射的に返してしまった。
だって無理なものは無理だ。
さっきだって畳を警戒していたし。
すると夏木先輩は心底残念そうな顔をしたあと、何かを思い出したように指を鳴らした。
「あ、そうだ」
嫌な予感がする。
「追加でトイレットペーパーも買ってきて」
「職権乱用!」
「違う違う。生活必需品」
「絶対今思い出しただけですよね!?」
「気づいた時に頼むのが上司の仕事だから」
「便利な言葉に言い換えただけじゃないですか!」
けれど結局、メモにはしっかり『トイレットペーパー』が追加された。
増えた。
私の任務が増えた。
こうして私は下界修行初日から、荷物整理もそこそこに買い出しへ向かうことになったのである。
望月町子としての記念すべき最初の仕事。
内容は、肉と野菜と卵とみかんと焼肉のタレとトイレットペーパーの調達。
……天使とは。
もっとこう、困っている人を救うとか、悪しき魔を討つとか、光り輝く翼を広げて神々しい使命を果たすものだと思っていた。
現実は夕飯の買い出しである。
いや、でも。
案外これも大事なのかもしれない。
下界で暮らす以上、人間社会に溶け込まなければならない。
スーパーへ行く。
商品を選ぶ。
値札を見る。
レジに並ぶ。
お金を払う。
袋に詰める。
特売品を見つけて少し得した気分になる。
賞味期限を確認して、少しでも新しいものを選ぼうと悩む。そういう何でもない日常の積み重ねが、人間として暮らすということなのだろう。天使だからといって空の上から人間を眺めているだけではわからないことがある。人の生活は、人の暮らしの中に入らなければ見えてこない。
……うん。
そう考えれば、買い出しも立派な研修だ。
たぶん。おそらく。きっと。そういうことにしておこう。
家を出る前に、私はひとまず二階にある自分の部屋へ荷物を置くことにした。正直、あの一階の惨状を見たあとだったので、部屋もそれなりの覚悟をしていたのだけれど、襖を開けて中を覗いた瞬間、思わず「……あれ、意外とまとも」と声に出してしまった。畳は日に焼けて少し色が褪せているし、部屋の隅には年季の入った木の匂いが染みついているものの、少なくとも居間みたいに生活感と怠惰が煮詰まった空間ではない。窓を開ければ小さな庭と細い路地が見えて、風が通るたびに古い家特有の乾いた匂いがふわりと揺れた。
部屋には木製の机と小さな本棚、それから畳の上に畳まれた布団、壁際には飴色に変色した古いタンスが置かれていた。試しにタンスを開けてみると、中には望月町子用として用意されたらしい服がきちんと畳まれて入っている。白いブラウスに膝丈のスカート、大学生が休日に着ていそうなカーディガン、部屋着、ジャージ、そしてなぜかエプロン。いや、エプロンって何。料理イベントでも発生する予定なの?魔法省、こういうところだけ妙に用意周到なのが逆に怖いんだけど。
さらに布団の横には、いかにも支給品ですと言わんばかりに、見習い用の魔導書と魔法剣のケース、そして魔法薬の小瓶が入った木箱まで置かれていた。装備。そう、これはもう完全に装備だった。学生の一人暮らしというより、初心者冒険者がチュートリアル前に渡される初期アイテム一式である。ああ、いよいよ本当に下界修行が始まるんだな、と嫌でも実感してしまう。
私はそっと魔導書に指を伸ばした。革張りの表紙に触れた瞬間、指先がじんわりと温かくなる。熱いわけではない。ただ、内側から小さな光が返事をするような、不思議な感覚だった。たぶん、私の中にある魔力が反応しているのだと思う。まだ使えない。権限もない。まともに制御する方法だってわからない。それでも、確かに私の中には何かがあるらしい。そう思うと怖いような、少しだけ楽しみなような、なんとも落ち着かない気分になった。
しばらく魔導書を見つめたあと、私は荷物を机の横に置いて部屋を出た。廊下の隅に張っていた蜘蛛の巣については、見なかったことにする。今の私にはそこまで向き合う余裕はない。掃除は、そのうち。……たぶん。きっと。
一階へ降りると、夏木先輩はすでにコタツへ戻っていた。テレビでは昼の情報番組が始まっていて、画面の中では芸能人が湯気の立つ料理を口に運び、「んんっ! なにこれ、溶ける!」と大げさに目を見開いている。いや、それ絶対毎回言ってるやつでしょ、と思いながら玄関へ向かう私に、夏木先輩はコタツから顔だけを出してひらひらと手を振った。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃーい。財布、忘れないでね。ここの商店街、現金しか使えない店も地味にあるから」
「あ、そうだ。天界支給の生活費って、ちゃんと下界でも使えるんですよね?レジで弾かれたりしませんよね?」
「使える使える。レプリカ名義の口座と連携してるから、普通の銀行カードみたいに使えるよ。身分証まわりも町子ちゃん名義で処理済みだし、そのへんは安心して」
「そこだけ聞くと、魔法省ってめちゃくちゃ有能ですね」
「そこだけじゃなくて基本的には有能だよ。ただし現場に投げる説明が雑なだけで」
「一番困るやつじゃないですか」
「まあまあ。ちなみに生活費、調子に乗って使いすぎると月末普通にしんどいから気をつけてね。天界支給って言っても無限じゃないから」
「夢がない……」
「下界修行に夢を見すぎないこと。はい、いってらっしゃい」
最後だけ妙に現実的な忠告を受けながら、私は玄関の引き戸に手をかけた。天使見習いの初外出にしては、あまりにも生活感が強すぎる出発だった。




