第5話 業務上必要な支出
玄関を出ると、昼前の烏森町は、拍子抜けするくらい穏やかだった。
さっきまでいた古びた家の中が、コタツと煎餅と説明不足の天使で構成された特殊空間だったせいか、外に出た瞬間に広がる普通の住宅街の景色がやけにまぶしく見える。細い道の両側には、年季の入った木造の家や少しだけ新しい二階建ての住宅が肩を寄せ合うように並んでいて、塀の上では丸々とした三毛猫が、こちらの事情なんて知ったことではないと言わんばかりに昼の日差しを浴びながら気持ちよさそうに寝ていた。
少し先では自転車に乗ったおばあちゃんが、前かごにネギの飛び出した買い物袋を入れてゆっくりと通り過ぎていく。遠くからはガタンゴトンと電車の走る音が聞こえてきて、どこかの家の台所からは醤油と出汁が混ざったような煮物の匂いがふわりと漂ってきた。
……普通だ。
びっくりするくらい普通の、どこにでもありそうな町。
けれどその普通さが妙に胸の奥をくすぐるというか、懐かしいような落ち着かないような、なんとも説明しづらい感覚を連れてくる。
私はメモ帳を片手に持ち、もう片方の手でチャットポッドを操作しながら歩き出した。画面には烏森町周辺の地図が表示されていて、目的地のスーパーまでは徒歩十分と出ている。天界製の魔法具なのに表示されるルートがあまりにも普通の地図アプリっぽいせいで、ありがたみが薄い。いや、便利ではある。便利ではあるんだけど、せっかく魔法具ならもう少しこう光の矢印が宙に浮かぶとか、妖精が道案内してくれるとか、そういうファンタジー感があってもよくない?
まあ、今の私が妖精に道案内されたところで、たぶん普通にビビるだけだけど。
スーパーまでは古い住宅街の中を抜けていくらしい。初めて歩くはずの道なのに、不思議と足取りに迷いはなかった。チャットポッドの地図を見ているから、というだけではない。角を曲がるタイミングも、坂の緩さも、道路の端に少しだけ盛り上がったアスファルトの段差も、どこかで知っているような気がする。
小さな神社の前を通り過ぎた。赤い鳥居は少し色あせていて、境内の奥には古い賽銭箱と、誰が手入れしているのかわからないけれど綺麗に掃かれた砂利道が見える。通学路の途中にありそうな、何でもない神社。けれど私はその前で、ほんの少しだけ足を緩めてしまった。
知ってる。
そんな気がした。
夏祭りの夜、誰かとここで待ち合わせをしたような。ランドセルを背負って、友達と石段を駆け上がったような。…いや、違う。そんな記憶がすぐそばにあるわけじゃない。あるわけじゃないのに、見えない指先で胸の内側をそっと撫でられたみたいに、何かが引っかかってしまう。
思い出そうとすると、すぐにぼやけた。
映像のピントが合わないような。遠くで誰かが笑っている気配だけが残って、顔も声も輪郭も、霧の向こうに沈んでしまうような感じというか。
「……気のせい、気のせい」
私は自分に言い聞かせるように小さく呟き、足を止めずに進んだ。今は買い物だ。肉と野菜と米と卵と牛乳とみかんと煎餅と焼肉のタレとトイレットペーパー。あと、カップラーメン。夏木先輩が「好きなの」とか言っていたやつ。最後のやつは完全に私用じゃない?と思わなくもないけれど、居候の身で最初から文句を言うほど私も強くない。
水路にかかる低い橋を渡ると、古い喫茶店が見えてきた。茶色い日よけは少し破れていて、窓には手書きのメニューが貼られている。ナポリタン、ホットケーキ、ブレンドコーヒー。絵に描いたような昭和レトロ感である。こういう店は入ったら絶対に常連のおじいちゃんが新聞を読んでいるし、マスターは無口だけど優しいタイプだろう。勝手な偏見だけど、たぶん当たっていると思う。
その隣にはシャッターの閉まった駄菓子屋があった。看板の文字は薄くなっていて、ガラス戸の奥は暗い。もう営業していないのか、今日はたまたま休みなのかはわからない。けれどその前を通った瞬間、胸の奥でまた何かが揺れた。
小銭を握りしめて、誰かと一緒に駄菓子を選んだような感覚。赤い紐のついた当たりくじ。小さな袋に入ったスナック菓子。棒アイスの冷たさ。隣で誰かが「それ買うの?」と笑った気配。
でも、やっぱり顔は思い出せない。
私はわざと視線を外し、道端の花壇に目を向けた。黄色い花と紫の花が、細い風に揺れている。誰かが毎日水をあげているのだろう。古い町なのに、不思議と荒れている感じはしない。近くで見れば見るほど、人の手がちゃんと残っている町だった。
やがて、地図が示していた目的地に到着した。
そこにあったのは地元密着型の、けれど思っていたよりも大きなスーパーだった。入り口の前には自転車がずらりと並び、買い物袋を提げた人たちがひっきりなしに出入りしている。店内からは軽快な音楽と、「本日、卵お一人様一点限りで大変お買い得となっておりまーす」という店内放送が聞こえてきた。自動ドアが開くと、冷房の効いた空気と一緒に、惣菜コーナーの揚げ物の匂いが一気に流れ出してくる。
その瞬間、私は思わず立ち止まった。
…懐かしい。
なぜか、強くそう思った。
人間だった頃、私はここに来たことがあるのだろうか。制服のまま学校帰りに寄って、友達とお菓子を買ったのかもしれない。夕飯の買い物を頼まれて、面倒くさいと思いながらレジに並んだのかもしれない。部活帰りにアイスを買って、店の外で食べたのかもしれない。
何も思い出せない。
それでも、胸の奥がふわっと温かくなった。
「……変なの」
私は小さく息を吐き、入り口横のカゴを手に取った。普通のスーパー。野菜コーナーがあって、鮮魚コーナーがあって、精肉コーナーがあって、牛乳や卵が並んでいて、奥にはお菓子と日用品の棚がある。どこにでもありそうな場所なのに、私にとっては少しだけ特別な場所に感じられた。
メモ帳を開く。
「えーっと、肉、野菜、米、卵、牛乳、みかん、煎餅、焼肉のタレ、トイレットペーパー……」
改めて見ると、買うものが多い。
初めてのおつかいにしては荷物が重すぎない?しかも米がある。米。五キロとか十キロとか、あの人は私に何を持たせるつもりなのか。いや、天使見習いならそのくらい持てということ?魔力もまともに使えない初心者に、いきなり筋力イベントを発生させないでほしいんだけど。
とりあえず私は、まず野菜コーナーへ向かった。
キャベツ、玉ねぎ、にんじん、ピーマン。冷蔵棚の上には水滴をまとった野菜たちが並んでいて、どれもいかにも新鮮そうに見える。正直、私は野菜の良し悪しを見分ける能力にそこまで自信がない。人間だった頃に一人暮らしをしていた記憶もあるようなないようなかなり曖昧な状態なので、ここはもう見た目で選ぶしかなかった。
丸くて重そうなキャベツを手に取り、次に玉ねぎを三つ、にんじんを一本、ピーマンを一袋カゴに入れる。
先輩は何を作るつもりなんだろうか。
肉と野菜と焼肉のタレということは、焼肉か野菜炒めか、あるいは焼肉のタレで全部味をまとめる雑な炒め物か。あの人の雰囲気からして、たぶん三番目だ。いや、もしかしたら料理だけは妙に上手い可能性もある。三十年も天使をやっているなら、人間社会での生活経験も長いはずだし、自炊スキルの一つや二つ持っていてもおかしくない。
……でも、あのコタツ周りの煎餅の散らばりを見ると、期待しすぎないほうがいい気もする。
次に精肉コーナーへ向かった。
冷蔵棚には、牛肉、豚肉、鶏肉が当たり前のようにずらりと並んでいる。薄切り、切り落とし、こま切れ、ひき肉、鶏もも、鶏むね、手羽元、さらには味付け済みの焼くだけシリーズまであって、選択肢が多すぎる。いや、多いのはありがたい。ありがたいのだけれど、メモにはただ一言、肉、としか書かれていない。
肉。
範囲が広すぎる。
これでは人間社会に溶け込むための訓練というより、夏木リンという存在が発する雑な指示を、どこまで正確に解読できるかを試されている気分だった。
私はカゴを腕に引っかけたまま、棚の前で真剣に腕を組む。焼肉のタレを買うなら、やっぱり牛肉だろうか。けれど値札を見ると普通に高い。生活費は有限である。天界支給とはいえ、月末になればしんどくなるらしい。天使にも月末がある。なんだその急に現実的な制度は。
ならば、ここは堅実に豚こまか。焼肉のタレで炒めれば、まず間違いなくおいしい。安いし、量もあるし、野菜と一緒に炒めれば立派なおかずになる。けれど、下界修行初日の夕飯がいきなり節約全振りというのも、なんとなく寂しい気がする。
鶏もも肉なら安くておいしいし、焼いても煮ても強い。あの食材としての安定感はもはや頼れる先輩枠である。ただ、焼肉のタレとの相性となるとうーん…って感じかな。別に悪くはないけれど、焼肉というより照り焼き寄りになりそうな気がしないでもないし。いや、それはそれでおいしいか…。でも今、私が求めている魂の方向性とは少し違う気がする。
そんなふうに冷蔵棚の前で一人会議を開催していた、そのときだった。
視界の端に、きらりと光るパックが映った。
塩タン。
その三文字を見た瞬間、私の中の何かが静かに反応した。
塩タン。
なんていい響きなのだろう。
言葉の時点でもうおいしい。薄く切られた牛タンが整然と並び、端には小さなレモン果汁の小袋まで添えられている。焼いて、軽く焦げ目がついたところにレモンを絞って食べる。想像しただけで魂に効きそうだった。
「えーーっと、塩タン、塩タン……っと」
私は棚を端から端まで眺めながら目当てのパックを探し、それを見つけた瞬間に吸い寄せられるように手を伸ばしてしまった。
薄く切られた牛タンが綺麗に並んでいる。
ほどよく脂が乗っていて、パックの端には申し訳程度にレモン果汁の小袋まで付いている。
絶対おいしいやつだ。
焼き網の上でじゅうっと音を立てながら焼かれて、片面だけ軽く火を通して、レモンを絞って食べる。
想像しただけで口の中に唾液が湧いてくる。
私は迷いなくパックを持ち上げ――値札を見て固まった。
「…………」
高い。
普通に高い。
思わずもう一度値札を確認する。
見間違いではない。
やっぱり高い。
なんなら隣に並んでいる豚こま肉なら三パックくらい買えそうな値段だった。
いや、牛タンなんだから高いのは知っている。
知っているけれど、人は欲望が先に走ると現実を忘れる生き物なのだ。
私はパックを持ったまま真顔になる。
初日から天使の生活費で塩タンを購入する。
それは果たして許される行為なのだろうか。
まだ生活費の感覚もわからない。
今月いくら使えて、どのくらい節約するべきなのかも知らない。
ここで勢いだけで塩タンを買ってしまい、月末に「あと三百円しかない……」とか言いながら煎餅生活を送る未来も十分あり得る。
そして何より、夏木先輩に見つかったときの反応が怖い。
『買ってきました!』
『え、初手で塩タン?』
絶対言われる。
あの人なら言う。
しかも笑いながら言う。
なんなら「見習いのくせに生意気だねぇ」とか余計なことまで言いそうである。
でも。
食べたい。
ものすごく食べたい。
私の理性と食欲が現在進行形で激しい会議を行っていた。
焼肉は魂に効く。
これは間違いない。
根拠はないけれど間違いない。
疲れた日に焼肉を食べると元気になるし、嬉しい日に焼肉を食べるとさらに嬉しくなるし、嫌なことがあった日に焼肉を食べると少し許せる気持ちになる。
つまり焼肉は精神面への効果が高い。
精神面への効果が高いということは、魂にも良い。
魂に良いということは、天使的にもきっと正しい。
たぶん。
いや、かなり。
ほら、夏木先輩も言っていたではないか。
霊気を養うことが大事だと。
だったら塩タンは実質的に霊気回復アイテムなのではないだろうか。
煎餅を食べながらコタツでだらけている人間――いや天使――よりも、タンパク質をしっかり摂取している私の方が健康的な気がする。
うん。
そう考えると塩タンは贅沢品ではない。
必要経費だ。
研修に必要な投資。
心身の健康を維持するための福利厚生。
つまりこれは自分へのご褒美などではなく、業務上必要な支出なのである。
「……よし」
私は誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。
ここまで来ると、もはや自分を説得しているのか誤魔化しているのかわからない。
けれど人間――元人間は、案外そうやって生きているものだ。
必要な理由を後付けして、欲しいものを買う。
大人とはそういう生き物である。
たぶん。
私は改めて塩タンのパックを見つめた。
綺麗に並んだ薄切り肉が、まるで「買うよね?」と語りかけてくるように見える。
買うか。
買わないか。
天使として慎ましく生きるべきか。
それとも焼肉の誘惑に身を委ねるべきか。
もしかしたら今考えるべきは、さっき感じた妙な違和感の方なのかもしれない。
この町に漂う、説明できない引っかかり。
隣町で起きている失踪事件。
自分が死んだ町で暮らし始めたという現実。
本来なら、そちらに意識を向けるべきなのだろう。
けれど今この瞬間、私の目の前には塩タンがある。
怖いことは怖い。
気になることは気になる。
でも空腹と生活は待ってくれない。
人間という生き物は、どれだけ深刻な問題を抱えていても、結局は夕飯を食べるのだ。
だったら今は夕飯を優先してもいいだろう。
私は数秒だけ迷ったあと、そっと塩タンをカゴへ入れた。
決着である。
未来の私が苦しむことになったら、そのとき考えよう。
未来の私には申し訳ないけれど、現在の私は塩タンを選ぶ。
見習い天使にも、心の栄養は必要なのだから。
たぶん。
きっと。
いや、絶対に必要だ。少なくとも今の私はそう信じている。
そのあと私は、メモ帳と売り場案内を何度も見比べながら、残っている商品を順番にカゴへ入れていった。豚こま肉を選び、キャベツを一玉抱え、玉ねぎの袋を取り、特売になっていた卵を確保し、さらに牛乳とみかん、夏木先輩に頼まれていた煎餅と焼肉のタレ、それからトイレットペーパーまで回収したところで、最初は軽々と持てていたはずの買い物カゴがいつの間にか腕にずっしりと食い込む重量へと進化していた。
…いや、重い。
別に持ち上がらないほどではないし、今すぐ床に置いてしまいたくなるほどでもない。けれど牛乳の重量とキャベツの存在感、それに卵を絶対に割ってはいけないという謎の使命感が組み合わさった結果、腕への負担がじわじわ蓄積されていくのである。人間だった頃も買い物くらいしたことはあったはずなのに、どうして私は毎回「これくらい余裕でしょ」と思ってから後悔するのだろうか。途中からは何を買うか考えることよりも、どうやってカゴを持てば少しでも楽になるかを考えるほうに意識が向いていて、もはや買い物というより軽めの筋力トレーニングだった。
そんな状態で米売り場へ到着した私は、棚に積み上げられた米袋を見た瞬間、思わず足を止めた。
五キロ。
十キロ。
五キロ。
十キロ。
当たり前なのだが、どれもこれも米である。
そして当然ながら重そうだった。
私はしばらく無言で五キロの米袋を見つめる。持てなくはない。たぶん持てる。けれど今のカゴの重量にさらに五キロ追加して住宅街を歩いて帰る未来を想像したところで、私の脳内に浮かんだのは「頑張ろう」ではなく「無理では?」の一言だった。
そもそも私は天使見習いである。
異世界の魔物と戦う訓練ならまだわかる。
悪魔を追跡する訓練もわかる。
でも初日の任務が米袋を抱えて帰宅することなのは、どう考えても違う気がする。
きっと違う。
たぶん違う。
私は数秒ほど真剣に悩んだあと、そっと視線を逸らした。
うん。
米はあとでいい。
夏木先輩に相談しよう。
あの人は指導役なのだから、弟子が米の重量に敗北しそうになっていたら助ける義務があるはずだ。少なくとも私はそういう解釈を採用することにした。
自分に都合のいい理論で問題を先送りにした私は、そのまま売り場を離れ、最後の目的地であるカップラーメンコーナーへ足を向ける。
そして私は、そこで思わず感動した。
楽園だった。
棚一面に並ぶ色鮮やかなパッケージ。醤油、味噌、塩、豚骨、担々麺、濃厚魚介、背脂系、激辛系、さらには有名店監修や期間限定商品まで所狭しと並んでいて、その光景はもはや食品売り場というより欲望の展示会である。
どの商品も自信満々だった。
私を選べと言っている。
絶対にうまいぞと言っている。
深夜二時のお前を救うのは私だと言っている。
いや、最後は完全に私の妄想なのだけれど、それでもカップラーメン売り場というのは不思議な魅力がある。特に一人暮らし経験者には刺さる。疲れて帰った日、何もしたくない日、冷蔵庫に何もない日、人生が少し嫌になった日。そんな様々な危機を乗り越えるため、人類はカップラーメンという偉大な文明を生み出したのだ。
私は真剣な顔で棚を見渡した。
魂に優しそうな味噌。
元気が出そうな濃厚豚骨。
絶対に裏切らない王道の醤油。
それぞれに魅力がある。
けれど人生には冒険も必要だ。
安全な選択ばかりしていては成長できない。
天使もたぶん同じである。
結果として私が選んだのは、王道の醤油ラーメンと濃厚豚骨ラーメン、それから期間限定の背脂魚介ラーメンだった。
三つ。
冷静に考えると少し多い気がする。
でも必要経費だ。
下界修行は長い。
備蓄は重要。
それに夏木先輩が勝手に食べる可能性もある。
あの人なら「一個もらったー」と言いながら当然のように消費していても全く驚かないので、むしろ予備まで含めて考えるべきだろう。
満足した私はカゴを持ち直し、そのままレジへ向かおうとして、ふと通路の先にある掲示板へ目を向けた。
地域のお知らせが貼られている、ごく普通の掲示板だった。
町内会からのお知らせ。
防犯パトロール強化中。
迷い猫を探しています。
夏祭りボランティア募集。
子ども会イベント開催のお知らせ。
どれも地域密着型スーパーらしい生活感に満ちた内容ばかりで、そこには平和な町の日常がそのまま並べられているようだった。
けれど、その中に一枚だけ妙に目を引く紙があった。
私は自然と足を止める。
白い紙に黒い文字で印刷されたその内容は、ほかのお知らせと同じように簡素だった。
『八田町周辺で不審者情報』
その文字を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
八田町。
夏木先輩が言っていた町だ。
ついさっき耳にしたばかりの名前だったからだろうか。白い紙に印刷されたその三文字だけが、ほかの文字よりも妙にはっきり浮かび上がって見えた。私は買い物カゴを腕に提げたまま、しばらくその紙を見つめていた。スーパーの中では相変わらず明るいBGMが流れていて、惣菜コーナーからは揚げたての唐揚げやコロッケの香ばしい匂いが漂ってくる。レジの方からは袋を開くカサカサという音や、「今日はカレーにする?」「また?」なんていう親子の会話が聞こえてきて、店内はあまりにも普通の日常で満ちていた。
誰かが夕飯の献立に悩み、誰かが割引シールを貼られる瞬間をさりげなく待ち、誰かがみかんの袋を持ち上げて重さを確かめている。牛乳の賞味期限を見比べる人がいて、卵のパックを慎重にカゴへ入れる人がいて、焼くだけで済む味付き肉の前で真剣に立ち止まっている人がいる。そういうどこにでもある生活の景色の中に、不審者情報の紙が、ごく当たり前みたいな顔をして貼られていた。
日常の中に、不穏なものが混じっている。
しかもそれは、誰かが悲鳴を上げるような形ではなく、町内会のお知らせや迷い猫のチラシと同じ掲示板に、同じ画鋲で留められている。怖いことも危ないことも生活の端っこに紛れ込むと、こんなにも静かな顔をするのかと思った。
人間ってすごいな、と少し思った。
怖いことがあっても買い物をする。明日の朝に飲む牛乳を買う。夕飯に何を作るか考える。トイレットペーパーが切れないように補充する。失踪だの不審者だのという言葉が近くにあっても、お腹は空くし洗濯物は溜まるし、冷蔵庫の中身は減っていく。だから人は生活を続ける。怖がりながらでも、気にしないふりをしながらでも、明日のために必要なものを買って帰る。
たぶん天使は、そういう生活を守るためにいるのだろう。
まだ見習いの私が言うには、だいぶ大きすぎる話だけれど。
私は紙から目を離し、レジへ向かった。会計を済ませ、袋詰め台で商品を詰めていくと、買ったものは予想以上に多く、そして重かった。トイレットペーパーは軽いくせにやたらとかさばるし、肉と野菜とみかんは地味に腕へ負担をかけてくる。牛乳も一本なら大したことはないはずなのに、ほかの荷物と合わさった途端、急に存在感を主張してくるのが納得いかない。カップラーメン三つは軽いので許す。塩タンは尊いので全面的に許す。というか、これは荷物ではなく心の栄養なので、実質ノーカウントである。
ようやく袋詰めを終えて店を出ると、昼の日差しが少し眩しかった。冷房の効いた店内にいたせいか、外の空気はほんのり温かく、道路の向こうでは自転車に乗った人がゆっくり通り過ぎていく。私は両手に荷物を提げながら来た道を戻ろうとして、ふともう一度だけスーパーを振り返った。
やっぱりこの場所にも、私は来たことがあるのだろうか。
そんなことを考えた瞬間、自動ドアのガラスに自分の姿が映った。
いや、自分の姿ではない。
そこに映っていたのは、望月町子だった。
丸みのあるショートヘア。白い肌。どこか優等生っぽく整った顔立ち。派手ではないけれど、きちんとした印象のある女の子。少なくとも、私が知っている勅使河原サユリの顔ではない。
それなのに、その奥にいる魂は私だ。
たぶん。
きっと。
そう思いたい。
まだうまく言葉にはできないけれど、鏡やガラスに映るたびに、ほんの一瞬だけ自分と他人の境目が曖昧になる。身体は望月町子で、記憶もこの町に反応しているのに、考えている私は勅使河原サユリで、でもその勅使河原サユリという存在さえ、本当に全部残っているのかと聞かれると自信がない。
考え始めると、たぶんよくない方向に沈む。
だから私は、小さく息を吐いた。
「……帰るか」
荷物を持ち直し、烏森町の住宅街へ向かって歩き出す。真琴先輩にはあとで無事を報告しよう。部屋の畳には気をつけよう。チャットポッドの操作も、もう少し慣れておいた方がいい。八田町の不審者情報については、なるべく気にしすぎないようにしよう。
……無理だな。
絶対に気になる。
あの紙を見なかったことになんてできるわけがない。夏木先輩が口にした町の名前と、スーパーの掲示板に貼られていた不穏なお知らせ。偶然と言われればそれまでだけれど、私の胸の奥にはさっきから小さな棘みたいな違和感が引っかかっていた。
こうして下界修行初日、私は肉と野菜とみかんとトイレットペーパーと、それから説明のつかない不安を両手に抱えて、古い住宅街の道を歩いて帰ることになった。
そしてこのときの私は、まだ知らなかった。
このスーパーで感じた小さな違和感が、後になって思った以上に面倒な出来事の入口だったのだと。
……いや、こういう言い方をすると少し格好いいけれど、正直この時点で私が一番気にしていたのは、買って帰った塩タンを無事に焼いて食べられるかどうかだった。塩タンは尊い。失踪事件も不審者情報も気になるけれど、目の前の夕飯だって同じくらい大事なのである。




