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第3話 天使って何だっけ



 この家、住めば住むほど何か出てきそうだな、と私は本気で思った。


 いや、比喩ではなく。


 実際まだ見えていないだけで、床下とか押し入れとか天井裏とかそのへんに「説明を受けていない何か」が普通に潜んでいそうな気配があるのだ。この家には、そういう“長年積み重なった生活と謎”みたいな空気が隅々まで染みついていた。


 私は改めて居間を見回した。


 年季の入った木の柱には、何かをぶつけたような細かい傷が無数についていて、天井は微妙に歪んでいる。いや、微妙にというより、よく見ると「これ本当に水平?」と不安になる程度には傾いている気がする。襖の端には原因不明の茶色いシミがあり、棚の上には用途不明の小さな魔具が無造作に置かれていた。丸い球体に金属の輪が刺さっているものとか、時々ぴかっと光る立方体とか、絶対説明なしで触っちゃいけないタイプのやつである。


 その横ではチャットポッドが充電コードに繋がれたまま放置されていて、畳の上には、おそらく昨日食べたのであろう煎餅の欠片まで落ちていた。


 生活感がすごい。


 しかも妙にリアルな方向で。


 ……天使ってもっとこう、清らかな泉のほとりで静かに祈りを捧げたり、白亜の塔の中で巨大な魔法陣を研究していたり、雲海を眺めながら魂の調和について哲学的な会話を交わしたりする存在じゃなかったの?


 少なくとも私は、そんな感じの幻想を抱いていた。


 なのに目の前の第八位天使は、こたつに半分沈みながら、テレビに映った回転寿司特集を見て、「いいなー、今日の晩飯、寿司にしようかな」とか呟いている。


 天使観が崩れる。


 しかも静かにではない。


 ガラガラと音を立てながら、かなり勢いよく崩れている。


 真琴先輩から聞いていた話と、あまりにも違いすぎた。


 真琴先輩は第七位天使で、私が天界へ召されたばかりの頃に、施設案内や手続きの説明を担当してくれた人だった。長い黒髪が似合う綺麗な人で、物腰は柔らかいのに仕事は完璧で、何を聞いても嫌な顔ひとつせず丁寧に教えてくれる、まさに“理想の先輩”みたいな存在だった。


 彼女のチームは、いつも管制塔内のトレーニングルーム周辺にいて、魔族反応が出ればすぐ出動できるよう待機していたし、パトロールも基本的に複数人で行っていた。装備管理も任務報告も徹底されていて、全体的にかなり組織立っていた印象がある。


 だから私は、下界勤務というものも当然その延長線上にあるのだと思っていたのだ。


 下界の天使は、各地域ごとに設置された“管制塔”を拠点に活動している。


 管制塔は、人間には高層ビルや展望タワーのように認識されることが多い。外見は地域によって違うが、中には天界と下界を繋ぐ転送装置、魔族反応を監視する観測室、訓練施設、装備保管庫、医療室、仮眠室、会議室なんかが揃っていて、簡単に言えば、天使専用の空港兼警察署兼職場みたいな場所だった。


 魔族が出現すると、管制塔へ警報が入り、担当チームが現場へ向かう。天使たちは普段から街を巡回し、報告書を書き、魔力異常を監視し、人間社会の安全を維持している。必要があれば戦闘も行うし、長期任務が終われば天界へ帰還して休暇を取ることもある。


 ちなみに天界へ入るにはパスポートが必要で、ゲート通過時には認証も行われる。


 そこだけ妙に現代社会っぽい。


 初めて聞いた時、「天界にも入国審査あるんだ……」と地味に衝撃を受けた記憶がある。


 私は以前真琴先輩に連れられて、天界の中心都市にも行ったことがあった。


 天界は地上から見える雲の上に単純に浮かんでいるわけじゃない。地上と宇宙空間の狭間には、“ミスト”と呼ばれる巨大な雲の流動層が存在していて、天界はその中心をゆっくり回転しながら漂っている。都市全体が強力な魔法障壁に包まれており、特別なゲートを通らなければ侵入することはできない。


 下界から行く場合、最も一般的なのは管制塔に設置されたトランスポート装置を利用する方法だ。光の輪みたいなゲートをくぐると、一瞬で空気が変わる。


 天界は、とにかく綺麗だった。


 空気は澄みきっていて、街そのものが淡く発光しているみたいに白く輝いていて、建物同士を渡る光の回廊は風が吹くたびに楽器みたいな音を鳴らしていた。街全体が巨大な聖堂であり、巨大な楽器でもあるような不思議な場所だった。


 真琴先輩の家にも行った。


 高層区画の眺めのいい場所で、窓の外には雲の河がゆっくり流れ、建物の壁には淡い光の紋様が浮かび上がっていた。床は磨かれた白い石で、室内には静かな音楽が流れていて、置かれている家具ひとつひとつまで上品だった。


 ――あれを見たあとに。


 この、築年数不明の古民家へ連れてこられると。


 落差で魂が耳キーンってなる。


「物好きな天使は森の中に拠点作ったり、ネカフェで延々くつろいでたりするって聞いてましたけど……本当に管制塔の外で生活してるんですね」


 私が半分呆れながらそう言うと、夏木先輩は「いるいる」と軽い調子で頷き、みかんの皮を丸めながら笑った。


「管制塔って便利なんだけどさ、息苦しいんだよね。四六時中誰かいるし、報告だの点呼だのあるし。なんかずっと“見られてる感”あるじゃん?」


「見られてた方が安全じゃないですか?」


 私は反射的にそう返した。


 だって管制塔は、下界勤務の天使にとってほぼ生命線みたいな場所なのだ。観測室には常時魔族反応が表示されているし、医療班もいる。装備も揃っているし、緊急時には即応チームも動ける。何かあった時、一番安全なのはどう考えてもあそこだ。


 しかし夏木先輩は、そんな理屈をあっさり切り捨てた。


「安全と快適は別物」


 妙に説得力のある言い方だった。


 いや、言いたいことはわかる。


 わかるけど。


 だからって、この古民家を選ぶ理由になる?


「この家は快適なんですか?」


「コタツあるし」


「評価基準が低い」


 思わず真顔で返してしまった。


 しかし夏木先輩はまったく悪びれない。


 むしろ「何言ってんの?」くらいの顔をしている。


 どうやらこの人の中では、コタツの存在価値がかなり大きいらしかった。もしかすると、下界勤務天使の福利厚生ランキングとかあったら、上位に“冬場のコタツ完備”とか入っているのかもしれない。


 私はひとまずコタツの向かい側へ座った。


 というか、自然と正座になった。


 別に礼儀正しくしたかったわけではない。ただ、この状況で姿勢まで崩したら、自分の中の常識が完全に流されそうな気がしたのだ。


 夏木先輩はこたつに半分沈みながらあぐらをかいている。


 私は背筋を伸ばして正座している。


 見た目だけなら、どちらが先生でどちらが見習いなのか逆に見えるかもしれない。


「あの、部署とかは?」


「部署? 私のこと?」


「そうです」


 夏木先輩は少し考えるように視線を上へ向け、それから、やたら軽い口調で答えた。


「所属してるのはしてるけど、最近はあんま絡んでないなぁ」


 ……テキトーすぎん?


 私は思わず眉をひそめた。


 天使はチームプレーが基本だと教わった。


 単独行動は危険。


 魔族との戦闘では、索敵、結界維持、前衛戦闘、後方支援、魂保護、周辺住民への認識阻害、避難誘導――そういった役割を複数人で分担するのが基本中の基本だ。特に下界では、人間を巻き込む危険がある以上、勝手な判断や単独行動は厳しく制限されている。


 真琴先輩のチームは、そのへんを本当に徹底していた。


 出動前には必ず作戦確認があり、巡回ルートも共有され、帰還後には報告書提出と魔力チェックまで行われる。規律は厳しかったけれど、そのぶん安心感があった。


 だから私は、「現場の天使」という存在に対して、それなりに組織的で統率されたイメージを持っていたのである。


 なのに目の前の第八位天使は、「所属してるけど最近はあんま絡んでない」と言った。


 その言い方、完全に部活に幽霊部員として籍だけ置いてる人のやつでは?


 天使の職務を、サークル活動か何かと勘違いしてない?


「ハハ。まこっちのチームにおったんか、あんた」


 不意にそんな言葉が飛んできて、私は思わず顔を上げた。


「真琴先輩を知ってるんですか!?」


「そりゃ知ってるよ。この町の管制塔じゃ、いちばん実績残してるチームだし。嫌でも耳に入ってくるって」


 夏木先輩はそう言いながら、みかんの皮を器用に一本につなげて剥いていた。


 ほえー。


 そうだったんだ。


 いや、確かに頼もしい先輩方だとは思っていたけれど、そんな有名チームだったとは。


 真琴先輩のチームは、烏森町周辺の管制塔でもかなり評価が高いらしい。第七位天使である真琴先輩を中心に、炎属性、結界補助、索敵、回復支援と各役割のバランスが良く、出動速度も早い。現場での対応も丁寧で、人間社会への影響被害も少なく、教育審査局からの評価も毎期トップクラスだとか。


 報告書まで綺麗らしい。


 そこ褒められるんだ、天使って。


 いやでも、真琴先輩ならわかる。あの人、字まで綺麗そうだし。


 ちなみに、その超優秀チームの名前は『情熱チキン』である。


 そこだけは、本当にどうかと思う。


 真琴先輩が命名したらしいのだけれど、私はまだ由来を聞いていない。というか、なんとなく聞いたら負けな気がしている。


 あんなに綺麗で落ち着いていて、仕事も完璧で、後輩への気遣いまでできる理想の先輩が、なぜ自分のチームに“情熱チキン”などという居酒屋の期間限定メニューみたいな名前を付けたのか、私はまだその真実を受け止める心の準備ができていなかった。


「カッチリやるチームだって聞いてるよ、あそこは」


「カッチリ?」


「真面目ってこと」


「ああ、なるほど……」


 確かに、真琴先輩たちは常にきっちりしていた。


 訓練時間も分刻みで管理されていたし、装備確認も二重チェックが基本だった。任務前には必ずミーティングがあって、パトロール後には報告会。誰かが遅刻したところなんて一度も見たことがない。


 だから私は、下界勤務の天使というのは、基本的にああいう感じなのだと思っていたのである。


 しかし夏木先輩は、そんな私の認識をあっさり壊した。


「ウチのチームは実績とか気にしてないから、基本テキトーだよ」


「テキトーって言い切りましたね今」


「だってさぁ」


 夏木先輩はこたつにさらに深く沈み込みながら、心底だるそうな顔で天井を見上げた。


「こんな平和な街で毎日カリカリしながらパトロールしてても疲れるだけじゃん? だったら寿司でも食って霊気養った方が健康的だって」


「その理論、教育審査局が聞いたら泣くと思います」


「天使は羽を休めてる時がいちばん幸せなんだから」


 なんだその反面教師みたいな発言は。


 というか、天使から羽取ったら何が残るんだ。


 ……いや。


 今の私には、そのツッコミがちょっと笑えなかった。


 私は無意識に、自分の背中へ意識を向けた。


 そこには何もない。


 見習い天使として天界にいた頃は、まだ未成熟だったとはいえ、背中には淡い光の輪郭みたいな翼があった。完全な羽根ではなく、光が羽の形を真似しているような不安定なものだったけれど、それでも確かに“天使になった”実感があった。


 飛行訓練も少しだけ受けた。


 最初は怖かった。地面から足が離れる感覚も、風が身体を押し上げる感覚も、全部不安定で、自分がどこへ飛んでいくのかわからなくて怖かった。


 でも、慣れてくると楽しかったのだ。


 空気を掴む感覚とか、重力がふっと軽くなる瞬間とか、雲の上を滑るように進む浮遊感とか。あれは人間だった頃には絶対に味わえない感覚だった。


 なのに今は、何もない。


 翼は没収された。


 飛ぶこともできない。


 地上を歩くしかない。


 バスを待つしかない。


 信号が青になるのをぼんやり眺めるしかない。


 ……天使って、何だっけ。


「夏木先輩のチーム名は何ですか?」


 私がそう尋ねると、夏木先輩は煎餅の袋をがさがさ漁りながら、特に隠す様子もなく答えた。


「ストークス」


「ストークス?」


「うん。鳥のコウノトリの英語。たぶん」


「たぶんなんですか」


 チーム名なのに、そこ曖昧なの?


 私は思わず聞き返したけど、夏木先輩はまったく気にした様子もなく煎餅を一枚取り出してぽりっと齧った。


「私がつけたわけじゃないから」


「所属してるチームですよね?」


「そうだよ」


「なのに由来知らないんですか?」


「名前なんて飾りだよ。大事なのは働きすぎないこと」


「絶対違う」


 即答だった。


 というか、真琴先輩のチームと思想が真逆すぎる。


 あっちは“責任感と規律”で動いている感じだったのに、こっちは“なるべく疲れない範囲で生きよう”みたいな空気を感じる。もちろん後者の気持ちがわからないわけではない。わからないわけではないのだけれど、仮にも天使の組織でそのスタンスが許されているのはどうなんだろう。


 本当にこの人、先生で大丈夫なのか。


 私はじわじわ不安になりながら、膝の横に置いていたチャットポッドを手に取った。


 画面を確認する。


 通知はなし。


 真琴先輩からの連絡も来ていなかった。


 少しだけ期待していたのだ。


 「ちゃんと着いた?」とか、「夏木先輩、変わった人だけど悪い人じゃないからね」とか、そういうフォローのメッセージが来ているんじゃないかと。


 しかし現実は無慈悲である。


 たぶん今頃、真琴先輩はパトロール中なのだろう。あるいは管制塔で報告書を書いているのかもしれない。


 助けてほしい。


 いや、別に命の危険があるわけではないのだ。


 危険というより、常識の足場がぐらぐらしている。


 私の中にあった“天使とはこういうもの”というイメージが、今日だけでかなりの勢いで崩壊していた。


 そんな私をよそに、夏木先輩はみかんを食べ終え、今度はこたつの上に置かれていた煎餅の袋を開け始めた。


 袋のデザインがやたら渋い。


 絶対スーパーの特売コーナーに積まれているタイプのやつだ。


「食べる?」


「さっきから勧めてくるもの全部、おばあちゃん家なんですよ」


「うまいよ、これ。近所のスーパーで安売りしてた」


「いただきます」


 ……もらうんかい、と自分で思った。


 いや、でも仕方ない。


 朝から移動続きだったし、なんだかんだで少しお腹が空いていたのだ。


 天使は別に、人間みたいに毎日三食きっちり食べなくても活動できる。魔力と魂の循環だけでも最低限は保てるらしい。


 ただ、食事をした方が精神は安定する。


 特に下界の食べ物は、人間だった頃の感覚を自然に呼び起こすため、見習い天使には推奨されているのだと真琴先輩が言っていた。


『無理に断食するより、好きなもの食べた方が魔力の流れも整うよ』


 優しい声でそう言っていた真琴先輩の姿を思い出しながら、私は煎餅を一枚受け取った。


 ぱり、と軽い音が鳴る。


 醤油の香ばしい匂いが広がる。


 普通に、おいしかった。


 悔しい。


 この家の住環境はだいぶ怪しいのに、食べ物のセンスだけは妙に信用できる。


「で、勅使河原ちゃん」


「はい」


「あんた、生前の記憶はどのくらい残ってる?」


 急に話題が変わった。


 あまりにも自然な流れで聞かれたせいで、一瞬何を言われたのかわからず、私は煎餅を持ったまま動きを止めた。


 ぱき、と小さく欠けた煎餅の音だけが、やけに部屋に響く。


 生前の記憶。


 天界に来てから、何度も繰り返し聞かれてきた質問だった。


 戸籍管理局でも聞かれた。魂案内局でも聞かれた。教育審査局でも、研修担当でも、真琴先輩にさえ確認された。記憶の残存率は、天使としての適性や下界任務の安定性に関わる重要項目らしい。


 曰く、生前への執着が強すぎる魂は不安定になりやすい。


 逆に、記憶が欠けすぎている魂は人格形成にズレが出ることがある。


 つまり私は、そのどちらにもなり得る“微妙なライン”らしかった。


「最低限のことは覚えてます」


 私はゆっくり答えた。


「名前とか、烏森町に住んでたこととか、烏森高校に通ってたこととか……交通事故で死んだ、らしいこととか」


「らしい?」


「……自分では覚えてないので」


 事故の瞬間の記憶はない。


 気づいた時には、もう天界の案内室にいた。


 だから私は、自分がどう死んだのかを“知識”として知っているだけで、“記憶”としては持っていない。


 その感覚は、時々すごく変だった。


 自分の死なのに、他人の事故報告書を読んでいるみたいなのだ。


「家族とか友達は?」


「覚えてません」


「自分がどんな人間だったかも?」


「……それも、あまり」


 答えながら、胸の奥が少しだけ重くなる。


 私は人間だった。


 それは確かに理解している。


 けれどその“人間だった頃の私”は、今の私にとって妙に遠い存在だった。


 記録上は同じ人間だ。


 名前も同じ。


 魂も同じ。


 けれど、その間にあるはずの感情や記憶の繋がりが、ところどころ途切れている。


 勅使河原サユリ。


 十八歳。


 愛知県立烏森高校在籍。


 烏森町在住。


 交通事故により死亡。


 そこまではわかる。


 でも、それ以上がひどく曖昧だった。


 誰と仲が良かったのか。


 どんな教室で過ごしていたのか。


 何が好きで、何が嫌いで、どんな顔で笑っていたのか。


 朝はちゃんと起きるタイプだったのか、それともギリギリまで寝ていたのか。


 休み時間は誰といたのか。


 好きな人はいたのか。


 家に帰ったあと、何を考えていたのか。


 そういう“その人を形作っていたはずのもの”が、まるごと霧の中へ落ちている。


 もちろん、断片的に残っている感覚はある。


 甘いものが好き。


 チョコレートとかアイスとかを見るとテンションが上がる。


 運動は嫌いじゃない。


 たぶんじっとしているより、動いていた方が楽しいタイプだった。


 でも、それだって確信ではない。


 今の自分の感覚から、「きっと昔もそうだったんだろうな」と推測しているだけだ。


 自分のことなのに、推測でしか語れない。


 それが時々、ひどく不安になる。


 夏木先輩はそんな私を見ながら、ぼりぼりと煎餅をかじっていた。


 さっきまでのこたつでだらけているだけの空気とは少し違う。


 妙に静かで、妙に落ち着いた目だった。


 その視線だけで、この人はちゃんと“そういう話”を何度も聞いてきた側なのだとなんとなくわかってしまった。


「事故死の記憶が飛ぶのは、まあ、あるにはある」


「珍しいんですか?」


「珍しいと言えば珍しいし、珍しくないと言えば珍しくないかな。死に方にもよるし、そのとき魂がどれだけ衝撃を受けたかにもよるし、天界へ来る途中で、余計な荷物みたいに記憶の一部がぽろっと剥がれることもある。自分が死んだ瞬間をまともに抱えたままじゃ、次に進めない魂って、思ってるより多いんだよ」


「……そうなんですね」


 私は膝の上で指を組みながら、曖昧に頷いた。


 死んだ。


 その言葉自体はもう何度も聞いたはずなのに、改めて会話の中に出てくると、胸の奥に小さな石を落とされたみたいにじんわり重さが広がっていく。


「だから、無理に思い出そうとしなくていいよ」


「……え?」


 思わず顔を上げた。


 意外だった。


 夏木先輩ならもっと雑に、「まあ、そのうち思い出すでしょ」とか「忘れてるなら今はラッキーってことで」とか、そういう軽いノリで流すと思っていたのだ。


 けれど彼女は、こたつに頬杖をついたままテレビのリモコンを手に取り、流れていたバラエティ番組の音量を少しだけ下げた。


「記憶ってさ、便利だけど、けっこう重いんだよ。持ってる方が前に進める記憶もあれば、今は持たない方が呼吸しやすい記憶もある。あんたが忘れてるってことは、魂が『今はまだ開けるな』って、内側から鍵をかけてるのかもしれない」


「……先輩、急に先生っぽいこと言いますね」


「先生だからね」


「みかん食べながら?」


「みかんは魂にいい」


「本当ですか?」


「今考えた」


「返してください感動」


 せっかく少しだけ見直しかけたのに。


 夏木リンという天使、本当に油断ならない。


 真面目なことを言うときは、ちゃんとこちらの胸に届くくらい真面目なのに、その直後に自分の手で台無しにしてくる。情緒の扱いが雑。高級なケーキを出しておいて、最後に上から煎餅の粉を振りかけてくるような雑さである。


 私はこたつの上に置かれていた煎餅を一枚取り、ぱり、と小さくかじってから、改めて居間を見回した。


 見れば見るほどボロい。


 暗い。


 古い。


 畳はところどころ沈んでいるし、襖の取っ手は少し傾いているし、壁際に置かれた古い棚の上には、用途のわからない小物が妙に整列している。


 でも、こたつはある。


 みかんもある。


 煎餅もある。


 先生はだらしない。


 そして不思議なことに、さっきより少しだけこの家が怖くなくなっていた。


 家の中に入ったときは正直、妖怪屋敷に放り込まれたような気分だった。今だって油断すれば天井裏から何かがずるりと顔を出しそうな気はするし、庭の池の主という単語は普通に怖い。


 それでもこの家には“誰かがちゃんと暮らしている空気”があった。


 夏木先輩がここでテレビを見ながらみかんを食べ、煎餅をこぼし、電気代の請求書を後回しにして、ゴミの日をギリギリで思い出して、古い畳の沈む場所を自然に避けながら生活してきた、そんな積み重ねの空気だ。


 天界の白くて無機質だった空間より、ずっと生活の温度がある。


 ずっと、人間っぽい。


 私はそれが、少しだけ不思議だった。


「先輩は、なんで管制塔じゃなくてここに住んでるんですか?」


「んー、色々」


「色々って便利な言葉ですよね」


「便利だから使うんだよ」


「答える気あります?」


「そのうちね」


 そのうち。


 また出た、曖昧な言葉。


 便利でやさしくて、でも聞く側からすると一番もやもやが残るタイプの言葉である。


 けれど、今ここで「そのうちっていつですか」「具体的には何日後ですか」「できればスケジュール表にして提出してください」なんて詰め寄ったところで、夏木先輩はきっと答えてくれないだろう。たぶん「天界時間でそのうち」とか「魂の準備ができたら」とか、それっぽいけれど結局何もわからない返答をして、最後にはみかんをもう一房口に放り込むに違いない。


 夏木先輩は、ぱっと見はかなり軽い。


 こたつに潜ってテレビを見ているし、みかんは食べるし、煎餅のかけらはこぼすし、話の途中で急に適当なことも言う。第一印象だけなら、天使というより休日を全力で無駄遣いしている近所のお姉さんである。


 けれど、たぶん軽いだけではない。


 三十年も天使をやっているような古参ほどではないとしても、彼女は第八位として下界に常駐し、この古い家を借り、人間社会の中で普通の顔をして生活している。ゴミの日を覚え、電気代を払い、近所の人に挨拶をし、たぶん自治会にもそれなりに顔を出しながら、同時に天使としての仕事もしているのだ。


 何もないはずがない。


 ただだらしないだけの人が、そんな生活を何年も続けられるわけがない。


 ……いや、だらしないのはたぶん本当だけど。


 テレビでは、名古屋市内の天気予報が流れていた。


 今日の最高気温。降水確率。洗濯指数。お出かけ日和。画面の中の気象予報士が、にこやかな顔で「午後からは雲が広がりやすいでしょう」と説明している。


 それをぼんやり眺めながら、私はここでの生活を想像した。


 朝、この古い家で目を覚ます。


 いや、天使は寝なくてもいいらしいけれど、たぶん私は寝る。絶対に寝る。寝なくても平気な体になったとしても、布団に入って現実逃避する時間は人間だった頃からの大切な習慣なので、そこだけは魂になっても譲れない。


 起きたら、沈む畳を避けながら洗面所へ向かい、庭の池の主とやらに遭遇しないよう細心の注意を払いながら洗濯物を干す。


 地域清掃へ行く。


 交通指導をする。


 大学へ行く。


 望月町子として授業を受ける。


 夏木先輩と下界のパトロールに出る。


 魔族が出たら逃げずに対応する。


 夜は魔法理論の勉強をして、たぶん途中で眠くなって、夏木先輩に「そこ寝ると首痛めるよ」と言われながらこたつで沈没する。


 そして時々、ふとした拍子に、思い出せない自分の過去に触れるのだろう。


 嫌だな。


 めんどくさいな。


 怖いな。


 そう思う。


 ものすごく思う。


 できることなら天界の白い施設に戻って、清潔な部屋と清潔な廊下と清潔な空気の中で、用意されたカリキュラムだけを淡々とこなしていたい。少なくとも床が沈む心配をしながら暮らす必要はないし、天井の隅に蜘蛛の巣を見つけて魂ごと緊張する必要もない。


 けれど、その一方で。


 胸の奥が、少しだけざわついていた。


 烏森町。


 ここは、私の地元。


 今の私にはほとんど実感がない。懐かしい、と胸を張って言えるほど記憶が残っているわけでもない。


 バスの窓から見えた河川敷も、古びた商店街も、狭い路地の向こうに並ぶ住宅の屋根も、もしかしたら私はどこかで見たことがあるのかもしれない。


 玄関の向こうの通り。


 角の錆びたカーブミラー。


 遠くから聞こえる踏切の音。


 夕方になればたぶん、どこかの家から夕飯の匂いが流れてくるであろうこの町の空気。


 それら全部が私の知らない顔をして、でも本当は私を知っているみたいにそこにある。


 自分が何者だったのか。


 知りたいような。


 知りたくないような。


 思い出したら、戻れなくなる気もする。


 でも思い出せないままここで暮らすのも、それはそれで足元がずっとふわふわしているみたいで落ち着かない。


「まあ、まずは荷物置いてきなよ」


 そんな私の思考を断ち切るように、夏木先輩がのそりと立ち上がった。


 立ち上がった、というか、正確にはこたつ布団から抜け出すのに少し苦戦していた。


 片足を出そうとして引っかかり、もう片方を動かそうとしてさらに布団が絡まり、「よいしょ」と小さく呟いているその姿からは、天使としての威厳が一ミリも感じられない。


 天使の威厳、完全にこたつ布団に絡め取られている。


「二階、案内するから。あんたの部屋、いちおう掃除はしてあるし」


「いちおう、なんですね」


「人が住める程度には」


「その基準、ものすごく不安なんですけど」


「大丈夫大丈夫。窓は開くし、天井も落ちてこないし」


「安心材料のレベルが低い」


 夏木先輩は気にした様子もなく、居間の襖を開けて廊下へ出た。


「階段、三段目が少し鳴るけど気にしないで」


「鳴るだけですか?」


「たまに沈む」


「また沈む!」


「古い家だからねぇ」


「古いで済ませていい範囲を、明らかに超えてません?」


「大丈夫。床が抜けても天使なら死なない」


「もうその理屈やめません?」


 天使なら死なない。


 さっきからこの人、その便利ワードであらゆる住宅の欠陥を押し切ろうとしている気がする。


 死ななければいいという問題ではない。落ちたら痛いだろうし、怖いだろうし、そもそも床が抜ける家に住んでいる時点で生活の安心感が行方不明なのだ。


 私はスーツケースを持って立ち上がった。


 荷物と呼べるものはまだ少ない。天界で支給された最低限の衣類と、身分証明に関する書類、それから魔法理論の初級教材。あとは望月町子として用意された大学関連の資料が数冊。


 私の人生、というにはあまりにも薄い荷物だった。


 それが少しだけ心細くて、私はケースの持ち手をぎゅっと握り直した。


 すると、廊下へ向かいかけていた夏木先輩が、ふと思い出したようにこちらを振り返った。


「あ、そうだ。勅使河原ちゃん」


「はい?」


「冷蔵庫のものは好きに食べていいけど、私のプリンに名前が書いてあったら食べたら死刑ね」


「天使が死刑とか言わないでください」


「じゃあ魂刑?」


「もっと嫌です」


「魂に直接くるタイプのやつ」


「説明しなくていいです。怖いので」


「あと、風呂掃除は当番制。今日はあんた」


「初日から!?」


「新人歓迎風呂掃除」


「歓迎の意味を辞書で調べ直してください」


 夏木先輩はけらけらと楽しそうに笑った。


 どうやら本気で言っているのか冗談なのか、判断しづらいタイプの人らしい。いや、たぶん半分くらいは本気だ。プリンに関しては目が笑っていなかった気がする。


 私は返事に困りながら、その背中を追った。


 暗い廊下に足を踏み入れる。


 天井の隅に張った蜘蛛の巣を視界の端に入れないようにしながら、ぎしりと鳴る床板の上を慎重に進む。廊下の壁には古い家族写真でも飾ってありそうな跡だけが残っていて、柱には誰かが昔つけたのか、子どもの身長を測ったような細い傷がいくつも刻まれていた。


 この家は古い。


 古くて、暗くて、たぶんいろいろ壊れかけている。


 けれど、完全に空っぽではない。


 誰かがここで暮らしてきた跡があって、今も夏木先輩がここで暮らしていて、そして今日から私もその中に混ざることになる。


 二階へ続く階段は、廊下の奥にあった。


 木製の手すりは手のひらに少しざらつく感触があり、踏み板は中央だけがわずかにへこんでいる。見るからに年季が入っていて、私は思わず一段目の前で足を止めた。


「……本当に大丈夫なんですよね?」


「大丈夫大丈夫。落ちても下は廊下だから」


「大丈夫の方向性が違うんですよ」


 夏木先輩は軽い足取りで先に上がっていく。


 私はその後ろを、できるだけ体重を分散させるような気持ちで追いかけた。


 この家が、今日から私の家。


 このだらしない第八位天使が、今日から私の先生。


 この町が、私の修行場所。


 そして私は、見習い天使として一年間、ここで暮らす。


 不安しかない。


 いや、本当に不安しかない。


 衛生面も建物の耐久性も、夏木先輩の指導方針も、全部まとめて不安要素の詰め合わせである。


 …だけどほんの少しだけ、面白そうだと思ってしまった自分もいた。


 真っ白で何もかも整った天界より、この古くて軋んで、生活感だらけで、どこか不完全な家の方が、なぜだか息がしやすい気がしたのだ。


 階段の三段目に足を乗せた瞬間。


 ギシィッ、と想像以上に派手な音が鳴った。


「うわっ!」


 思わず手すりを掴む。


 しかも今、鳴っただけではなかった。


 ほんの少し、確実に沈んだ。


 足裏に伝わる不穏な沈み込み。木材が「これ以上はやめてください」と訴えているような、あの嫌な感触。


「ね? 鳴るでしょ」


「ね? じゃないです! 今ちょっと沈みましたよ!?」


「慣れれば楽しいよ」


「楽しくないです!」


「踏む角度を覚えると鳴らさずに上がれるようになるから。ちょっとした修行だね」


「下界修行ってそういう意味でしたっけ!?」


 夏木先輩は笑いながら、さらに上の段へ進んでいく。


 私は三段目をできるだけ早く通過し、心の中でこの階段を危険箇所として登録した。畳の沈む場所、蜘蛛の巣の位置、プリンの所有権、そして階段三段目。初日から覚えることが多すぎる。


 こうして私の下界修行初日。


 指定住居に到着してからわずか十分ほどで、私は天界の教育審査局よりも、この家の床の方が信用できないという重大な事実を学んだ。


 たぶん、課題書には載っていない。


 魔法理論の初級教材にも、人間社会適応マニュアルにも、古民家の沈む階段への対処法なんて項目はなかった。


 でもきっと、これも下界修行の一部なのだろう。


 人間社会のマナー。


 魔法理論。


 魔族対策。


 大学生活。


 地域清掃。


 先生のプリンを勝手に食べないこと。


 古民家の沈む畳と危険な階段の見分け方。


 全部まとめて、私の一年が始まってしまった。


 始まってしまった、という言い方が一番しっくりくるくらいには、まだ覚悟なんて全然できていない。


 けれど、階段の上から「早くおいでー」と気の抜けた声で呼ぶ夏木先輩を見上げたとき、私は小さく息を吐いて、もう一度鞄を握り直した。


 怖い。


 不安。


 めんどくさい。


 でも、少しだけ知りたい。


 この町のことも。


 この家のことも。


 夏木先輩のことも。


 そして、私自身のことも。


 そう思ってしまった時点で、たぶん私はもう、この奇妙な下界修行から逃げられないのだろう。


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