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第2話 コタツとみかんと第八位天使



 家の中は、外から見た印象をまったく裏切らなかった。


 いや、正確に言うなら、外観から漂っていた「たぶん古いんだろうな」という予感を忠実に再現したうえで、「ついでに生活するうえで不安になる要素も足しておきました」と言わんばかりに、細部までしっかり年季が入っていた。


 玄関を一歩入った瞬間にまず鼻に届いたのは、古い木材が湿気を吸い込んだような匂いと、長年干されていない畳の青臭さが少し変質したような匂い、それからどこか懐かしいようでいて、実際にここで暮らせと言われたら全力で首を横に振りたくなる類の、なんとも言えない生活感だった。


 靴箱は昔ながらの木製で、表面のニスはところどころ剥がれ、角には細かい傷がいくつも走っている。壁にはいつ誰が選んだのかわからない薄茶けた花柄の壁紙が残っていて、その端がぺろんとめくれ上がっている様子は、もはや「この家は長年メンテナンスされていません」と無言で自己紹介しているようにしか見えなかった。


 そして廊下は、薄暗い。


 昼間なのに薄暗い。


 というかこの家そのものが、外から差し込む光に対して「結構です」と丁寧にお断りしているみたいだった。


 天井からぶら下がっている豆電球は、つけたところで劇的な改善は見込めなさそうな頼りない存在感で、奥へ続く廊下の先には、色の剥げた襖、ささくれだった柱、紙の端が波打った障子が並んでいる。畳は一歩踏むたびにぎしりと鳴り、足の裏に細かい繊維が刺さりそうな感触がして、私は自然と歩幅を小さくした。


 あと、蜘蛛の巣もあった。


 あった、というか。


 普通に、いくつもあった。


 天井の隅。欄間の上。電球の傘のまわり。廊下の奥の、できれば視界に入れたくない暗がり。


 それを見た瞬間、私の魂は反射的に警戒態勢へ移行した。


 虫は無理。


 本当に無理。


 天使になったからといって、苦手なものが急に克服されるわけではないらしい。むしろ肉体を失っても嫌なものは嫌なのだと知ってしまい、絶望が一段深くなった気さえする。神聖な存在になったところで、蜘蛛の巣を見て「まあ、自然が生み出した繊細な芸術ですね」なんて感想は出てこない。出てこないものは出てこない。


 私は靴を脱ぎながら、心の中で魔法省に対して静かに抗議した。


 これが指定住居?


 これが人間社会への適応訓練?


 いや、適応する前に、まず衛生環境でふるいにかけられている気がするんですけど。


 レプリカ技術に莫大な予算をかける余裕があるなら、せめて畳の張り替えくらいしてくれてもよかったのではないだろうか。世界に「望月町子は昔から存在していました」と錯覚させられるだけの技術力があるなら、「この家は最低限リフォーム済みです」と現実を少しだけ騙すくらい、わりと簡単なんじゃないの?


 そんな私の不満を知ってか知らずか、玄関を開けた張本人であるポニーテールの女の子は、こちらを振り返ることもなく、薄暗い廊下を迷いのない足取りでずんずん進んでいった。


「足元、気をつけてね。そこの畳、たまに沈むから」


「たまに畳が沈む家に人を住まわせるんですか!?」


「大丈夫大丈夫。慣れれば、沈む場所なんとなく避けられるようになるよ」


「避ける前提なんですね!?」


 まさか案内開始から十秒で、家の魅力ではなく危険箇所を紹介されるとは思わなかった。


 いや、そもそもこれは案内なのか。事故物件の内覧なのか。天界式のサバイバル研修なのか。


 前を歩く彼女の背中はあまりにも無防備だった。


 天使というより、やっぱり完全に近所の姉ちゃんである。


 シャツの袖は左右で微妙に高さが違うまくり方をされているし、腰にはくたびれたパーカーを雑に巻いているし、歩き方にも「神聖な任務中です」みたいな緊張感は一切ない。天界教育審査局で見かけた職員たちのような書類と規則にまみれた空気もなければ、真琴先輩たちのような現場職特有の鋭さも薄い。


 代わりに漂っているのは、コタツとみかんと、休日の昼に流れている再放送番組みたいな、妙にゆるい生活感だった。


 そして通された居間には、本当にコタツがあった。


「お茶とか飲む?」


「状況説明が先です」


「真面目だねえ」


「初日なので」


「初日から肩に力入ってると、一年もたないよ」


「一年もつかどうかは先輩次第です」


「お、言うじゃん」


 夏木先輩はこたつに足を入れ、みかんを一つ取った。


 私は座布団に座り、鞄を膝に置いたまま、できるだけ姿勢を正した。古い木造家屋の薄暗い和室の真ん中に、赤茶色の布団をかけられた四角いコタツが、まるでこの家の主ですと言わんばかりに堂々と鎮座している。その横には、少しへこんだみかんがいくつも入った籠。テレビ台の上には、型落ち感のある液晶テレビ。壁際の本棚には、漫画、魔法理論の参考書、古いゲームソフト、地域の防災マップ、それから賞味期限を確認するのが少し怖いお菓子の箱まで、分類という概念をどこかに置き忘れたような並びで詰め込まれていた。


 生活感がすごい。


 天使の拠点というより、冬休みに親戚の家へ連れてこられたときの、あの妙に落ち着くけれど自分の居場所ではない感じに近い。


 彼女は床に転がっていたテレビのリモコンを拾い上げると、何の迷いもなく電源を入れた。画面には朝の情報番組らしきものが映り、アナウンサーがやけに爽やかな笑顔で今日の天気を伝えている。その横で、ポニーテールの女の子は座布団にどーんと腰を下ろし、当然のようにあぐらをかき、籠からみかんを一つ取ると、親指を皮に差し込んでむき始めた。


 自由すぎる。


 ここまで自由だと、むしろこちらが緊張しているのが間違いなのではないかという気さえしてくる。


「で、今日からここに住むことになるわけだけど、何をするかは聞いてる?」


 いや、聞きたいのはこちらの方である。


 真面目な見習い天使として、まずは指導員から任務内容を聞かなければならない。


 先輩がこたつに吸収されているとか、みかんの皮を剥く手際が妙に良いとか。この家はなぜここまで年季が入っているんですか。蜘蛛は退治済みですか。畳は沈むんですか沈まないんですか。沈むなら修理はしないんですか。天界の住宅基準はどうなっているんですか。


 聞きたいことは山ほどあるのに、彼女は剥いたみかんを半分に割ると、まるで何事もなかったかのようにこちらへ差し出してきた。


「いる?」


「いりません」


「甘いよ?」


「説明が先です」


「そっか」


 ――そっか、じゃないんだよ。


 私が心の中で即座にツッコミを入れている間にも、彼女――いや、この時点ではまだ“謎のぐうたら天使”としか認識できていなかったその人は、指先で器用にみかんを割り、薄い皮ごとぱくっと口の中へ放り込んだ。


 もぐもぐと咀嚼しながら、「あー、ごめんごめん」と片手をひらひら振る姿には緊張感の欠片もない。なんなら休日のお父さんのほうがまだシャキッとしているまである。


「私のことはリンって呼べばいーよ」


「……はぁ」


 返事が微妙に間延びしたのは許してほしい。


 情報の処理が追いついていないのだ。


 知らない家。知らない先輩。勝手に進む会話。そしてコタツ。


 いや、コタツは別に悪くない。悪くないけれど、この状況であまりにも馴染みすぎているのが問題なのである。


「ただし」


 夏木先輩――と呼ぶべきなのかまだ迷っていたその人は、みかんの房をもう一つ口へ放り込みながら、急に人差し指を立てた。


「あんたの“先生”でもあるから、最低限の礼儀だけは持つようにな?」


「……先生!?」


 思わず声が裏返った。


 いや、だって。


 先生?


 この、こたつに半分沈みながら、テレビのリモコンを足で引き寄せて、さっきから完全に自宅モードへ移行している人が?


 私の視線の先では、夏木先輩が何事もない顔でテレビの音量を上げていた。流れているのは夕方のローカル番組らしきグルメ特集で、画面の向こうでは湯気の立つラーメンがやたら美味しそうに映されている。


「あ、この店うまそー」


 完全にくつろいでいる。


 緊張感が床に落ちていたとしても、この人は絶対拾わないタイプだ。


 いや、もちろん知識としては知っている。


 天使は見た目と年齢と能力が一致しない。


 小学生みたいな外見で何百年も現場を回している上位天使もいるし、逆に仙人みたいな見た目をしていて実は新人、なんて話も普通にある。だから外見で判断するな、というのは養成所でも散々聞かされてきた。


 聞かされてきたのだけれど。


 第一印象というものは、そう簡単には覆らないのである。


 だって先生だ。


 先生という単語には、もっとこう、威厳とか、知性とか、自然と背筋が伸びる感じとか、黒板の前に立った瞬間に空気が引き締まるような雰囲気が含まれているはずなのだ。


 少なくとも、コタツに肘をつきながら「このチャーシュー絶対うまいやつじゃん」と呟いている人へ向ける肩書きではない。


 私はしばらく黙ったまま夏木先輩を見つめた。


 夏木先輩はそんな私の視線に気づいているのかいないのか、みかんを食べ終えると満足そうに息をつき、そのまま当たり前みたいに言った。


「なにその顔。ちゃんと仕事はできるから安心して」


「そのセリフ、自分で言う人初めて見ました」


「大丈夫大丈夫。慣れるって」


「何にですか」


「私に」


 嫌な予感しかしなかった。


「…あの、今日からここで生活するってことですか…?」


「そう」


「魔法省からは、指定住居へ行けとしか聞いてません」


「うん」


「先生がいるとも、ルームメイトがいるとも、築年数が半世紀を超えてそうな家に住むとも聞いてません」


「築五十七年」


「具体的な数字いらないです」


「雨漏りは二箇所だけだから安心して」


「安心要素が見当たらないです」


「慣れる慣れる」


 慣れたくない。


「まさか、一人暮らしでもすると思った?」


「すると思ってました」


 即答した。


 いや、本当に、心の底からそう思っていたのだ。


 私が事前に受けていた説明では、下界送還中の見習い天使は、指定された住居に滞在し、教育審査局から渡された課題をこなしながら、人間社会への適応訓練を行う、という話だった。前期と後期に分かれた二クール制で、期間は合計一年間。定期報告は月末ごと。管理部の担当者が必要に応じて様子を見に来るため、家に到着したら備え付けの固定電話から連絡を入れるように、とも言われていた。


 つまり私の頭の中では、古いながらも一人用の家に住み、決められた課題を地道に進め、時々やってくる管理部の人に「ちゃんとやってますか」と確認されながら、なんとか一年を乗り切る、という極めて地味で事務的な生活が始まる予定だったのである。


 先輩天使と同居するなんて、一言も聞いていない。


 しかも先生。


 しかもこの家。


 聞いていた話と違うにもほどがあるし、違い方にももう少し段階というものがあってほしかった。


「電話なんてしなくていいよ。私が連絡しとくから」


「……えっと、ちょっと待ってください。まだ状況が全然整理できてないんですが、先生というのは?」


「文字通りの意味でしょ」


「文字通り!?」


「うん。あんたに下界の歩き方とか、魔法の基礎とか、パトロールの仕方とか、人間社会で変に目立たない方法とか、そのへんを教える担当」


「そんなこと、課題書には一言も書いてませんでしたけど」


 私は慌てて鞄を開け、教育審査局でもらった分厚い課題書を取り出した。


 無駄にしっかりした表紙。無駄に細かい目次。無駄に堅苦しい注意事項。読んでいるだけで肩が凝るうえに、ところどころに赤字で「必須」「減点対象」「期限厳守」と書かれている、精神にあまり優しくない書類の束である。昨夜、ホテルのベッドの上でこれを読んでいた私は、途中で三回くらい魂が遠くへ行きかけたんだ。


「これに書いてあるスケジュール通りに動けばいいんですよね?」


 夏木先輩はみかんを口に入れながら課題表を覗き込んだ。


「あー、それね」


「はい」


「捨てていいよ」


「はい?」


「パンフレットみたいなもんだから」


「パンフレット!? 赤字で『必読』って書いてありますけど!」


「必読って書いてある紙ほど、現場では読まれないんだよ」


「そんな現場で働きたくないんですが!」


「大丈夫大丈夫。あんたは今日から私の管轄。細かいスケジュールはこっちで決める。朝は軽く町を歩いて、昼は家の片付け、夕方に管制塔へ顔出して、夜は魔法の基礎。大学はそのうち行けばいい」


「そのうちでいいんですか!? 望月町子、大学生なんですよね!?」


「大学って一日二日休んでも消えないでしょ」


「私の偽装身分は消えるかもしれないですよ!」


「魔法省がどうにかするって」


「その魔法省が私をここに投げ込んだんですけど!」


 夏木先輩は、けらけら笑った。


 私は、まったく笑えなかった。


 ここまで来る途中、私はこれから始まる一年について、それなりに色々と想像していた。厳しいけれど面倒見はいい先輩がいて、最低限整った訓練環境が用意されていて、初日はまず丁寧なオリエンテーションがあって、実戦に備えた研修計画とか、人間社会へ段階的に慣れていくためのカリキュラムとか、そういう、いかにも公的機関らしい何かが待っているのだと。


 少なくとも、初日早々、課題表を「まあパンフレットみたいなものだから」と雑に流される未来までは想像していなかった。


 何そのパンフレット。


 人生どころか天使人生を左右するやつじゃないの、それ。


「『未達成の場合は評価減点』とか『月末提出必須』とか、かなり恐ろしいことが書いてありますけど!?」


 課題書のページをめくるたびに出てくる物騒な文言を指差しながら訴えると、夏木先輩はそんなこちらの必死さなどどこ吹く風といった様子で、こたつの上のみかんをころころ転がしながら肩をすくめた。


「まあ、そういうこと書いとかないと新人がサボるからね」


「サボる前提なんですか?」


「サボるよ。天使だって」


 あまりにも迷いなく返されたせいで、一瞬こちらが間違ったことを言ったのかと思った。


 いや、でも。


 もっとこう、「天使たるもの勤勉で清廉であるべきです」とかないの?


 神聖な存在としての矜持とか。


 模範的精神とか。


 そういうの。


 私が微妙な顔で固まっていると、夏木先輩は気にした様子もなく、こたつ布団へ足を突っ込み直しながら、二個目のみかんへ手を伸ばした。動きに一切の迷いがない。完全に冬を極めた生き物の動作だった。


「あんたはこの半年間、私が担当してる地域のパトロールに参加してもらうことになってる。さっきも言ったけど、どこ回るかとかそういう細かいのは全部こっちで決めるからさ。おk?」


「おkじゃないです」


 私は思わず身を乗り出した。


「現場は現場のやり方があるの」


「なんか今、すごく危ない言葉を聞いた気がします」


 その台詞、だいたい後から問題になるタイプのやつでは?


 現場判断とか独自ルールとか、そういう単語って基本的にトラブルの匂いしかしないんですけど。


「大丈夫大丈夫。死にはしないから」


「もう死んでるんですけど」


「じゃあ、なおさら大丈夫じゃん」


「雑!」


 扱いが雑すぎる。


 私の下界修行、本当にこの人に預けて大丈夫なの?


 というか、天界そのものは大丈夫なの?


 人員不足なの?


 いや、たぶん人員不足なんだろうな。


 試験に落ちた見習いを古民家へ送り込み、その担当を、こたつでみかんを食べながら「まあ何とかなるでしょ」みたいな顔をしている第八位天使に任せている時点で、組織としてかなり追い込まれている気がする。


 そんな私の内心を知ってか知らずか、夏木先輩は何事もない顔で、完全に「新しい同居人への生活説明」みたいなテンションになりながら話を続けた。


「あんたの部屋は二階ね。階段ちょっと軋むけど気にしなくていいから。着替えの服はタンスに入ってるし、生活用品もだいたい揃ってる。あと冷蔵庫の中の物は適当に食べていいよ。名前書いてないやつは共有だから」


「急に生活感が強い」


「風呂は古いけどちゃんと使える。ただ、お湯出るまでちょっと時間かかるから先に蛇口ひねっといた方がいい。あとトイレはたまに水流弱いから、流れ切らなかったら横のバケツ使って」


「情報が完全に古民家サバイバルなんですけど」


「洗濯機は外。雨の日は縁側に干す。ゴミの日は火曜と金曜。燃えないゴミは月一だから忘れないように。あと、庭の池には近づかない方がいい」


「なんでですか」


「主がいる」


「主!?」


 何その田舎の伝承みたいなワード。


「まあ、鯉みたいなもん」


「鯉みたいなもんって何ですか。鯉じゃないんですか」


「見ればわかる」


「見たくないです」



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