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第1話 訂正させてください



 鏡の前でネクタイを締めるという行為に、ここまで腹が立つ日が来るとは思わなかった。


 いや、正確に言えば、私は生前の自分がネクタイを締めた経験を持っていたのかどうかすら覚えていないので、「来るとは思わなかった」という表現には若干の詐称が含まれている。記憶がない人間、もとい見習い天使は、過去の自分が何をしていたかについて語る時、どうしてもふわっとした言い方になりがちなのだ。たとえば「昔から運動は好きだった気がする」とか、「たぶん学校に通っていた」とか、「交通事故で死んだらしい」とか、人生の重要項目に全部ぼかしが入る。自己紹介の時点で信用度が低すぎる。


 けれど、今の私がネクタイに腹を立てていることだけは確実だった。


 ホテルの洗面台の前に立ち、望月町子用に用意された白いシャツの襟元を押さえながら、私は細いネイビーのネクタイを何度も結び直していた。魔法省の備品担当者が「下界社会における清潔感と知性を演出するため」とかいう理由で入れてくれたものらしい。うん、とてもありがたい。感謝の気持ちを込めて、今すぐこの布を窓から放り投げたい。


「なんで大学生が朝からネクタイ締めなきゃいけないの……?」


 鏡の中の望月町子は、きちんとした顔でこちらを見ていた。丸みのあるショートヘア、薄く整った眉、寝不足でも崩れない白い肌、なんとなく育ちが良さそうな目元。中身が私でなければ、授業の前に図書館でレポートをまとめて、教授に「望月さんは真面目ですね」と言われそうな雰囲気がある。


 しかし中身は私である。


 試験に落ち、翼を没収され、下界へ送られ、昨日の夜にホテルの冷蔵庫から高級チョコを三個食べた見習い天使、勅使河原サユリである。


 この外見詐欺はなかなか罪深いと思う。


 レプリカという技術は、聞けば聞くほど感心する。魔法省が用意した偽装肉体と偽装戸籍の組み合わせで、人間社会には最初から望月町子という人物が存在していたように記録が組み上げられている。住民票もあるし、大学の籍もある。銀行口座もあるし、健康保険証だって完備されてる。過去に提出した課題のデータまであるらしいんだけど、そこまでいくとむしろ怖いよ…。そこまでやるなら、私の筆記試験の点数も少し盛ってくれればよかったのに。


 レプリカのすごいところは、単に見た目を変えるだけではないところだ。人間が私を見ると、相手の脳内では「勅使河原サユリ」ではなく「望月町子」という認識が優先される。顔、声、雰囲気、年齢、社会的立場、全部まとめて偽装される。いわば社会ごと着る服みたいなものだ。


 ただし、私本人の感覚はわりとそのままである。


 鏡を見ると違う顔が映るようになってて、声も少しだけ落ち着いて聞こえる。身長や骨格も微妙に違うらしいけれど、内側にある「私」は私のままだ。心の中ではずっと「勅使河原サユリ」と名乗っているし、ネクタイに文句を言う口調も、たぶん私のものだ。


 ようやく結べたネクタイを軽く引き、私は鏡の前で横を向いた。


 うん。


 見た目だけならまとも。


 中身を音声出力しなければ、なんとか社会に潜り込める。


 私はスーツケースを閉じ、部屋に忘れ物がないかを確認した。魔導書、見習い用チャットポッド、身分証一式、財布、課題表、魔法薬、携帯型スキャナー、そして「絶対に無くすな」と赤文字で書かれた下界滞在許可証。どれか一つでも落としたら面倒なことになるのが目に見えている。特に滞在許可証は天界側のゲート認証にも使うため、失くした場合は管制塔で始末書を書き、教育審査局に連絡され、試験官のあの冷たい眼鏡に再び見下ろされる未来が待っている。


 絶対に嫌だ。


 私は許可証を鞄のいちばん奥へ押し込み、さらにハンカチで包み、さらにポーチへ入れた。これでも不安なので、いっそ飲み込んで体内保管したい。天使なら可能なのではと思ったけれど、翼なし見習いが朝から許可証を飲み込んで搬送される展開は、さすがに天界の笑いものになりそうなのでやめた。


 チェックアウトの時間になり、私は部屋を出た。


 高層ホテルの六十階で過ごした一泊は、下界修行の初日としては明らかに贅沢すぎて、これから向かう指定アパートとの落差を考えるとドアノブを握る手に未練がまとわりついた。昨日まで翼も魔法も没収された見習い天使だった私が、夜景の見える部屋で高そうなチョコレートを食べていたのだから、天界教育審査局の予算配分はいよいよ意味がわからない。


 廊下は静かで、足元のふかふかした絨毯が靴音を吸い込み、壁際の間接照明が磨かれた空気に薄い金色の膜を張っているようだった。高級ホテルというのはたぶん空気まで清掃対象に入っている。埃も生活臭も迷い込んだ魂も、発見され次第白手袋のスタッフに丁寧かつ迅速に回収されそうな清潔さがあった。


 エレベーターの前で待っている間、私は壁一面のガラス越しに名古屋の街を見下ろした。朝の光を受けたビルの窓が魚の鱗みたいにきらきら光り、道路には車が血管を流れる赤血球みたいに規則正しく流れ、交差点では信号が変わるたびに小さな人影が一斉に動き出していた。


 天界の空とは違う。


 天界の空は、どこか作り物みたいに美しい。ミストの流れに光が溶けて、雲の海が音もなくゆっくり回転し、上層都市エデンはいつも清らかな輪郭を保ったまま、白い塔と透明な橋を祈りの模型みたいに浮かべている。息をするだけで魂が洗われるような場所、と言えば聞こえはいいけれど、私はあの完璧すぎる景色に、たまに心の置き場所を失うことがあった。


 下界の空はもっと雑だ。


 排気ガスもあるし、電線もあるし、看板もあるし、ビルの屋上には用途のわからないアンテナが妙な自信を持って生えている。工事現場のクレーンが寝起きのキリンみたいに首を伸ばし、道路標識が日光を反射し、どこかの店の換気扇から朝の油っぽい匂いが漂ってくる。きれいなものと汚いもの、うるさいものと懐かしいものが、誰にも整理されないまま同じ画面に無理やり詰め込まれている。


 そういう景色を目の当たりにすると、なぜか私は少しだけ落ち着いた。


 私は、ここに住んでいた。


 そういう最低限の情報だけは、頭の中に残っている。名古屋市中川区烏森町。愛知県立烏森高校。交通事故。勅使河原サユリ。名前と地名と死因だけが、記憶の抜けたアルバムに貼られたラベルみたいに残っていて、肝心の写真は一枚も見えない。


 誰の顔も浮かばないし、誰の声も聞こえない。


 それなのに、街を見下ろしていると胸の奥が少しだけ忙しくなった。知っているはずのない道路に、知っている気がする輪郭が重なり、どこかの角を曲がれば通学路に出るような、あのビルの影に昔の私が立っているような、夢で見たことがある場所を現実で見つけてしまったような、なんとも説明しにくい感覚が静かに広がっていく。


 懐かしい、と思った。


 けれど何が懐かしいのかは、まだわからなかった。


 エレベーターが到着し、私はスーツケースを引いて乗り込んだ。


 静かに左右へ開いた扉の向こうには、鏡みたいに磨かれた金属の内装と、ほのかに甘い高級香水の匂いが漂う空間が広がっている。隅には葉のつやつやした小さな観葉植物まで置かれていた。いや、エレベーターに観葉植物って必要ある? 移動用の箱にまで緑の癒やしを添え始めたら、もうだいぶ「生活に余裕があります」側の世界である。


 しかも床は薄いクリーム色の大理石で、天井には柔らかい間接照明が埋め込まれていて、上へ行くにも下へ行くにも、なんだか高級な場所へ運ばれている気分になる。天界の転送ゲートなんてもっと実務的だ。白い光、無機質な音声案内、霊子安定率の数値表示。「転送中の嘔吐はお控えください」とかいう最悪の注意文まで出る仕様。それとこれを比べると、人間界のホテルは移動ひとつにしても温かい情緒がある。


 扉が閉まり、エレベーターは音もなく下降を始めた。


 ガラス張りの側面から見える吹き抜けロビーは、上から見ると高級ブランドの広告みたいだった。中央には大きなシャンデリアが吊るされ、その下では身なりのいい宿泊客たちが静かに行き交っている。誰も大声を出さないし、走らないし、コンビニ袋をぶら下げていない。昨日の私みたいに「うわ、このチョコめちゃくちゃ高い……」とか言いながら冷蔵庫を漁る人間も、たぶんいない。


 一階へ到着すると、ロビーは朝の宿泊客でほどよく混み合っていた。


 黒いスーツを着た会社員が小走りで時計を確認しながら出口へ向かい、旅行用の大きな鞄を抱えた家族連れが「新幹線間に合うかな」と慌ただしく話し合い、窓際では外国人観光客らしき男性が紙カップのコーヒーを片手にスマホを眺めている。制服姿のホテルスタッフたちはその間を水の流れみたいに滑らかに動き回り、誰かが困るより先に声をかけ、荷物を持ちながらも自然に笑顔を浮かべていた。


 ……すごい。


 接客というより、もはや上級魔法である。


 天界の窓口職員なんて、「次の方どうぞ」の声に感情が入っていないことで有名なのに。昨日の教育審査局の試験官なんて、たぶん笑顔の作り方を制度改正のどさくさで失効している。


 私はスーツケースを引きながらフロントへ向かい、チェックアウトの手続きを済ませた。


 スタッフのお姉さんは、昨日と同じ完璧な笑顔でカードキーを受け取り、「ご宿泊ありがとうございました」とにこやかに頭を下げた。声の高さも柔らかさも絶妙で、たぶん新人研修で角度まで指導されている。…いやもうほんとに、天界の役所にこの人を一人派遣するだけで窓口満足度が三割くらい改善する気がするよ。


「望月様、ご利用ありがとうございました」


「あ、はい。こちらこそ……えっと、ありがとうございました」


 望月様。


 ホテルマンにそう呼ばれて、私は一拍遅れて顔を上げた。


 あ、私か。


 頭では理解しているのに、反応がどうしても遅れてしまう。望月町子。下界用レプリカの名前。二十一歳の大学生。映画鑑賞とカフェ巡りが趣味で、資料整理が得意という、私の中身からすると若干まぶしすぎる設定を背負った女。昨日から鏡の中に映っているのは確かにその人なのに、呼ばれた瞬間、私の魂はいまだに「え、誰の話?」という顔をしてしまう。


 これに慣れるまでは、…たぶんそうとう時間がかかる。


 自分の名前ではない名前に返事をするというのは、思っていた以上に奇妙だった。今後、道端で「望月さーん」と呼ばれても、私は三秒くらい空を見上げ、脳内で「望月……望月……誰だっけ……あ、私だ」と議事録に残す必要のない内部会議を開いてから振り向くと思う。潜入任務としてはなかなか致命的である。


 ホテルマンは当然そんな事情を知らないので、完璧な営業スマイルを崩さないまま、胸元の名札がこちらに見える角度で丁寧に一礼した。


「お忘れ物はございませんでしょうか」


「たぶん大丈夫です」


 たぶん。


 自分で言っておいて、だいぶ頼りない返事だった。荷物は確認した。身分証もある。チャットポッドもある。魔導書もある。課題表も、残念ながらある。けれど忘れ物があるとしたら、財布や充電器ではなく、勅使河原サユリとしての感覚の方かもしれない。


 自動ドアが開き、私はホテルの外へ出た。


 その瞬間、名古屋の朝が真正面からぶつかってきた。


 車の走行音。信号機の電子音。歩道を急ぐ革靴の足音。どこかの店のシャッターがガラガラと上がる音。停車したバスのエアブレーキ。駅へ向かう人の流れ。ホテルの中では均一に磨かれていた空気が、外へ出た途端、温度も匂いも雑多な情報も全部まとめて押し寄せてきた。


 コーヒーの匂いがした。


 その奥から、焼きたてのパンみたいな香りも漂ってくる。


 さらに別方向からは排気ガスとアスファルトと、昨夜の雨がどこかに少しだけ残っているような湿った匂いが混ざっていた。天界の清浄な空気に慣れた魂には少し刺激が強い。けれどその刺激の中には、誰かが確かに今朝を生きているという実感があった。


 雑だ。


 でも、生きている感じがする。


 天界の空気はもっと整っている。清浄で均一で澄んでいて、吸い込むだけで魂の表面をやさしく磨いてくれるような優等生の空気である。対して下界の空気は、いろんな人間の生活がそのまま溶け込んでいる。朝ごはんを作る匂い。通勤前の焦り。コンビニの揚げ物。洗剤。タバコ。眠気。疲労。たぶん怒りとか希望とか、そういう目に見えないものまで遠慮なく混ざっている。


 私は少しだけ目を細めながら、チャットポッドを取り出した。


 見習い用に支給された端末は人間用スマートフォンに偽装されているものの、中身はかなり物騒だった。地図アプリの隣に「霊子濃度観測」「魔族反応ログ」「魂導波形検索」みたいな項目が平然と並んでいる。一般人が拾ったら、都市伝説系動画配信者が「ガチでヤバいスマホ拾った」とかいう釣り気味のタイトルで大喜びしそうな内容である。


 私は指定された住所を表示した。


 名古屋市中川区烏森町二丁目。


 夏木、と書かれた登録家屋。


 担当指導員、夏木リン。


 第八位天使。


 下界常駐歴、二年。


 担当区域、中川区全域。


 補足、生活態度にやや難あり。


「やや難ありって、公式書類に書かれるレベルなら相当じゃない……?」


 思わず声に出た。


 通りすがりのサラリーマンが一瞬だけこちらを見たので、私は慌てて咳払いで誤魔化した。危ない。下界初日で、早くも不審者ポイントを稼ぐところだった。


 しかし、気になるものは気になる。


 魔法省の資料は基本的に遠回しだ。「極めて遺憾」は「かなり怒っている」を意味し、「慎重に対応してください」は「死ぬほど面倒だから近寄りたくない」の婉曲表現である。そう考えると、「生活態度にやや難あり」は、たぶん「かなり問題あり」だ。


 部屋が汚い。


 勤務態度がゆるい。


 書類提出が遅い。


 時々連絡がつかない。


 勝手にパトロールルートを変える。


 上司に怒られても、反省文を絵文字付きで提出する。


 そのあたりの困った要素を天界職員が白い手袋で丁寧に包み、聖なるリボンをかけ、公式文書としてギリギリ許される表現に圧縮した結果が「生活態度にやや難あり」なのではないだろうか。


 教育審査局の職員たちがあの無表情のまま最大限遠慮してこの書き方をしているのだとしたら、現物はなかなかの強敵かもしれない。


 私はチャットポッドの画面を見つめながら、じわじわ嫌な予感がしてきた。


 下界修行というくらいだから、厳格で真面目な先輩天使にしごかれるものだと思っていた。早朝訓練、規律重視、姿勢、礼儀、魔法理論、反省文。そういう方向の地獄を、私はそれなりに覚悟していたのだ。


 なのに配属初日から漂ってくるのが、“だらしない先輩に振り回されるコメディ”の匂いなのはどういうことなのか。


 私は空を見上げ、小さくため息をついた。


 これ、本当に大丈夫なんだろうか。



 私はスーツケースの持ち手を握り直し、駅へ向かって歩き出した。


 名古屋駅周辺は、朝から人が多い。背の高いビルが空を細長く切り取り、ガラス張りの壁面に青空と雲と人の流れが映っている。歩道橋の上を行き交う人たちはそれぞれ別の目的地へ向かっているのに、遠くから見ると一つの大きな流れみたいだった。スーツ姿の人は早足で、学生らしい人は眠そうで、観光客は立ち止まって看板を見上げ、駅前のタクシー乗り場には整列した車が銀色の魚みたいに並んでいる。


 私はそれらを見ながら、少しだけ歩く速度を落とした。


 見覚えがある。


 この大通りの感じ。


 駅の向こうへ吸い込まれていく人の波。


 ビルの隙間から見える空。


 名前を思い出せない店の看板。


 どれもはっきりとは結びつかないのに、頭の奥で小さな鈴みたいに鳴っている。私は昔、ここを歩いたことがあるのだろうか。学校の帰りに寄ったのか、誰かと待ち合わせをしたのか、家族と買い物に来たのか、それとも一人で迷子になったのか。


 考えようとすればするほど、記憶は逃げていく。


 追いかけようとするたびに、深い霧の中へ沈んでいくような。


 こういう時、天界の人たちは「無理に思い出そうとしないでください」と言ってくる。理由は“魂に負担がかかるから”だそうだった。なんとなく言いたいことはわかるけれど、目の前の景色がこちらを知っているような顔をしているのに、私だけが何も知らないというのはなかなか気持ちが悪い…


「まあ、思い出したところでどうなるんだって話だけどね……」


 私は小さく呟き、駅の案内表示に従ってバス乗り場へ向かった。


 公共交通機関を使うのは久しぶり、という感覚があった。


 いや、生前の記憶がほとんど残っていない以上、「久しぶり」という表現はだいぶ雰囲気で言っているのだけれど、それでもバス停の前に立った瞬間、胸の奥に小さな既視感みたいなものが引っかかった。金属製の時刻表、色褪せた路線図、歩道脇に並ぶ植木、遠くから近づいてくるエンジン音。どれも知らないはずなのに、体のどこかが「はいはい、これね」と勝手に理解している感じがする。


 天界では、移動に転送ゲートや簡易転移装置を使うことが多い。


 魔法陣の上に立ち、座標を入力し、霊子を同期させれば一瞬で目的地へ到着する。管制塔から支部へ、支部から監視区域へ、下界への派遣ですら数秒だ。遅延もなければ渋滞もないし、「次の転送は霊子混雑の影響で五分遅れます」という悲しいアナウンスも存在しない。便利で効率的で、いかにも天界らしい合理性に満ちている。


 その反動なのか、下界のバスという乗り物は妙に生々しかった。


 時間通りに来るのか。


 乗り間違えないか。


 料金は前払いなのか後払いなのか。


 整理券というやつは取るべきなのか。


 そもそも私は、どのタイミングで降車ボタンを押せばいいのか知っているのか。


 新米見習い天使、悪魔と戦う前に交通システムで敗北する可能性が出てきた。


 私は少し真顔になりながら、チャットポッドで「名古屋市営バス 初心者 乗り方」と検索しかけて、ぎりぎりでやめた。周囲から見たら完全に社会経験ゼロの大学生である。それはまあ事実なのだけれど、二十一歳設定の望月町子としては、さすがにバスの乗り方を検索するのは危険な気がした。


 バス停には、すでに何人か人が並んでいた。


 スーツ姿の会社員、イヤホンをつけた高校生、買い物袋を抱えたおばあさん、眠そうにスマホを見ている大学生らしき男の子。みんな当たり前みたいな顔で列に並び、当たり前みたいな顔で時間を潰している。


 その光景を見ていると、少し不思議な気持ちになった。


 天界にも列はある。食堂でも窓口でも試験会場でも、みんなちゃんと並ぶ。けれど下界の列には、もっと生活の匂いがあった。寝不足の顔、急ぎ足、コンビニのコーヒーの匂い、シャツについた柔軟剤の香り、朝から機嫌の悪そうな空気。人間たちは、こういう小さな移動を毎日繰り返しながら生きているのだ。


 私は列の最後尾に立ち、チャットポッドで経路を確認した。


 名古屋中心部から中川区方面へ向かい、途中で乗り換え、烏森町の近くまで移動するルート。地図の上では単純に見えるけれど、実際には道路状況や信号や時間帯によって到着時刻が変わるらしい。


 天界の転送ゲートなら一秒で終わる距離だった。


 目的地を入力して、一歩踏み出せば到着。迷う余地もなければ、乗り換え検索アプリと睨み合う必要もない。


 人間の生活は不便だ。


 かなり不便だ。


 けれど、その不便さの中には妙な手触りがあった。


 時間をかけて移動すること。


 同じ景色を何度も通り過ぎること。


 知らない人と同じ乗り物に揺られること。


 そういう無駄みたいな時間の積み重ねで、人間は街に馴染んでいくのかもしれない、と私はぼんやり思った。


 その時、遠くから低いエンジン音が近づいてきた。


 青と白の車体が角を曲がり、バス停の前へゆっくり滑り込んでくる。


 私は無意識に背筋を伸ばした。


 なんだろう。


 ただバスに乗るだけなのに、初任務みたいな緊張感がある。


 バスが来ると、人の列がゆっくり動き出した。


 私は前の人の動きを真似て乗り込み、ICカードをかざした。ピッ、と音が鳴る。成功。天使としての威厳はないけれど、下界初心者としては上出来だ。


 窓際の席に座り、スーツケースを足元に寄せた。バスが発車すると、街の景色が横へ流れていく。大きな交差点、コンビニ、銀行、ビルの一階に入ったカフェ、朝から列のあるパン屋、通学中の高校生、赤信号で止まる自転車。天界の管制塔から見る人間社会は、点と線でできた地図のようだった。ここから見る下界は、もっと散らかっていて、もっと近い。


 高校生の集団が歩道を歩いているのを見て、私はつい目で追った。


 制服。


 鞄。


 笑い声。


 誰かが振り返って、友達に何かを言う。


 その仕草を見た時、胸の奥がほんの少し痛んだ。私は烏森高校に通っていたらしい。どんな制服だったのか、どんな教室だったのか、どの席に座っていたのか、昼休みに何を食べていたのか、何も思い出せない。けれど制服姿の子たちを見ると、空っぽの引き出しの奥に、確かに何かが入っていた気配だけが残る。


「私、友達とかいたのかな……」


 言ってから、自分で変な気持ちになった。


 いたのだろうと思う、…たぶん。人間として十八年くらい生きていたなら、ひとりやふたりはいたはずだ。もしかしたらたくさんいたかもしれないし、全然いなかったかもしれない。魔法省の基礎資料には、必要最低限の個人情報しか載っていなかった。生前の交友関係については、本人の魂が安定するまで不用意に開示しない方針らしい。


 余計なお世話だ。


 いや、開示されたらされたで怖いから、半分くらいはありがたい。


 私は窓に映る望月町子の顔を見ながら、ふっと息を吐いた。


 下界での一年間。


 私は何をするのだろう。


 課題表に書かれた通りなら、ゴミ拾いをし、交通指導をし、大学へ行き、先輩天使にしごかれ、魔法の練習をし、時々悪魔と戦う。平和な烏森町なら大きな事件はないはずだ。真琴先輩から聞いた話では、あの地域は新人に優しいらしい。魔族反応も少ないそうだから、下界修行とはいえ、ちゃんとやれば再試験に向けて勉強する余裕もできそう。


 問題は、担当指導員の生活態度にやや難があること。


 そして、魔法省の「通常は問題ありません」が信用ならないこと。


「頼むから、まともな先輩であってほしい……」


 私は窓の外を見ながら祈った。


 天使が祈る相手とは誰なのか、考え始めると話がややこしいので、この際深く突っ込まない。祈りは気持ちだ。相手が誰でも、願うだけなら無料である。


 バスは街の中心部を抜け、少しずつ住宅地の気配が濃くなる方へ進んでいった。ビルの高さが低くなり、道幅の広い幹線道路の横に、古い商店や新しいマンション、小さな公園、駐車場、ドラッグストアが見え始める。ところどころに川や水路があり、橋の上を通るたびに、朝の光が水面へ細かく散った。


 川。


 その単語に、また胸がざわついた。


 河川敷。


 土手。


 自転車。


 風。


 何かが浮かびそうになり、すぐに消えた。私は手すりを握り、眉間に力を入れる。思い出せそうで思い出せない状態は、歯に挟まったポップコーンの皮くらい気になる。取れそうで取れない。舌で触るたびに存在感だけ主張してくる。


 乗り換えを挟み、私は烏森町に近づいた。


 バス停を降りると、中心部とは空気が違った。車通りはあるけれど、少し奥へ入れば住宅地が広がり、古い家と新しい家が並んでいる。電柱には町内会の掲示板があり、資源ごみの日程、秋祭りの案内、交通安全週間のポスターが貼られていた。小さな水路沿いには草が伸び、ところどころに黄色い花が咲いている。道の端に置かれた植木鉢、錆びた自転車、ランドセルを背負った小学生、犬の散歩をするおじいさん。


 烏森町。


 私の地元。


 その言葉だけが、頭の中で静かに響いた。


 地元と言われても、懐かしさが爆発するわけではなかった。涙が出るわけでもない。道を見ただけで記憶が戻るほど、現実はサービス精神旺盛ではないらしい。ただ、足の裏がこの町の地面を知っているような、曲がり角の先に何があるか少しだけ予想できるような、そんな曖昧な感覚があった。


 私はチャットポッドに表示された地図を頼りに歩き出した。


「えーっと、この信号を渡って、二つ目の角を右。水路を越えて、古い空き地の横……古い空き地って、地図に書く情報として雑じゃない?」


 下界の地図アプリは便利だ。魔法省のルート案内はもっと便利なはずなのに、時々妙に人間臭い説明を混ぜてくる。「昔ながらの駄菓子屋を左折」とか、「苔の生えた石塀が目印」とか、担当者の記憶に頼った案内をしないでほしい。駄菓子屋が閉店していたら終わりだし、苔はどこにでも生える。


 歩いていると、何度も立ち止まりそうになった。


 公園のフェンス。


 古いコンビニ。


 橋の欄干。


 自販機の並び。


 どれも、見たことがある気がする。


 どこかで曲がれば、知らないはずの家に辿り着く気がする。誰かが私を呼ぶ気がする。そんなはずはないのに、背中のあたりがそわそわする。


 私は自分に言い聞かせた。


 今の私は望月町子。


 下界修行中の見習い天使。


 生前の自分には関わらない。


 魔法省の規則を破ると、また試験官の眼鏡が光る。


 あの眼鏡だけは嫌だ。


 眼鏡を想像したら、少し冷静になった。恐怖によるメンタル管理である。ありがとう試験官。あなたの冷たさは今、私の規則遵守に役立っています。かといって、感謝はしないけど。


 指定住所へ近づくにつれて道は細くなっていった。車が一台通るのがやっとの路地。低い塀。瓦屋根。古びた木造家屋。新しい住宅の間に、時代に取り残されたような家が点々と残っている。チャットポッドの地図では、目的地はもうすぐそこだった。


 私は少し期待していた。


 担当指導員の住居と聞いていたから、管制塔の近くにある職員用住宅か、最低でも天界仕様の隠し設備が整ったアパートを想像していた。外観は普通でも、中に入れば魔法陣の床、転送ゲート、訓練室、装備棚、清潔なキッチン、個室、セキュリティ完備。そういうものを期待するのは自然ではないだろうか。


 地図の矢印は、土管のある空き地の横を指していた。


 私は足を止めた。


 そこにあったのは、黒い瓦屋根の古い一軒家だった。


 古い、という表現では少し優しいかもしれない。家全体が「私は昭和から来ました」と全力で自己紹介している。木造の壁は色あせ、ところどころ板が浮いている。玄関前の草は好き放題に伸び、庭先には苔むした石と、底の見えない池。瓦は何枚か欠けていて、雨が降ったら絶対にどこかから水が侵入する顔をしている。縁側らしき場所の向こうには、薄暗い部屋と、奥に置かれた仏壇のようなものがちらっと見えた。


 私は地図を見た。


 目の前の家を見た。


 もう一度地図を見た。


「嘘でしょ」


 地図は嘘をついていなかった。


 目的地、到着。


 チャットポッドが明るくそう表示している。


「いやいやいやいや、到着じゃないから。これはホラー映画の導入だから。見習い天使が下界修行に来たら、まず古い家に案内されて、夜中に井戸から何か出るやつだから」


 私は門の前でしばらく固まった。


 門柱には、古い表札がかかっていた。


 夏木。


 指定住所と一致している。


 逃げ道はない。


 いや、ある。今すぐ駅へ戻って天界に苦情を入れるという手段がある。けれど、その場合「住居環境への不満により初日離脱」と記録される。下界送還経験有りに加えて、初日離脱。配属先の自由どころか、再試験後に魔界第0地区の書類整理係へ飛ばされる可能性すらある。悪魔より書類の山に殺される未来は避けたい。


 私は深呼吸し、門を押した。


 ぎい、と音がした。


 よく鳴る門だ。雰囲気づくりに余念がない。


 玄関までの石畳はところどころ苔で滑りそうになっており、私はスーツケースを引きずりながら慎重に歩いた。庭の池を横目で見ると、水面が緑色に濁っている。虫がいそう。絶対にいる。カエルもいそう。甲殻類はいないと思いたい。もしこの池からザリガニが出てきたら、私は下界修行を辞退するかもしれない。


 玄関の前に立つ。


 古い引き戸。


 すりガラス。


 横に呼び鈴らしきもの。


 魔法省から渡された鍵は鞄の中にある。つまり、この家は私が入っていい家ということになっている。なっているけれど、どう見ても知らない人の家だ。天使として人間社会のマナーを学べと言われた初日に、古民家へ鍵で侵入するのは倫理的にどうなのか。


 私は鍵を取り出し、鍵穴へ近づけた。


 その瞬間という言葉は使いたくないので、こう言う。


 私の指が鍵穴の金属に触れそうになった、まさにその手前で。


 玄関の引き戸が、内側から勢いよく開いた。


「いらっしゃーーーい!」


「ぎゃあああああああッ!」


 悲鳴は私の口から出た。


 天使の悲鳴としてはかなり情けない部類だったと思う。声が裏返り、スーツケースが横へ倒れ、鍵が手から落ち、私は玄関前の石畳で半歩ほど後ずさった。もし翼があったら、間違いなく反射で広げていた。没収されていてよかったのか悪かったのか、判断に困るよマジで…


 玄関の向こうには、ポニーテールの女の子が立っていた。


 年齢は私と同じくらいに見える。袖をまくったシャツ、腰に巻いたパーカー、動きやすそうなパンツ、足元はサンダル。いかにも「今起きたわけではないけど、きちんと身支度をしたわけでもない」感じの格好だった。顔立ちは整っていて目は大きく、笑うと犬みたいに人懐っこい。第一印象だけなら、近所の明るいお姉さんである。


 問題は、知らない家の玄関をいきなり開けて叫んできたことだ。


「びっくりしたぁ。そんな叫ぶ?」


「叫びますよ! 誰ですか!」


「誰って、こっちの台詞でもあるけどね。あんた、勅使河原ちゃんでしょ?」


 名前を呼ばれた。


 勅使河原。


 望月ではなく。


 私は一瞬だけ言葉を失った。


 人間には望月町子に見えるはずだ。この女の子が私を勅使河原と呼んだということは、少なくとも人間ではない。天使か、魔族か、魔法省の関係者か、あるいはこの家に住み着いたやたら情報通の幽霊か。


「……そうですけど」


「やっぱり。写真より目つき悪いね」


「初対面で言うことですか、それ」


「ごめんごめん、褒めてる」


「褒めてないです」


「まあまあ、入って入って」


「いや、入って入ってじゃなくて、どちら様ですか」


 女の子は、あっけらかんと笑った。


「夏木リン。第八位天使。今日からあんたの先生で、ルームメイトで、上司みたいなもんで、ついでにこの家の管理者」


 私は落とした鍵を拾うことも忘れて、その人を見た。


 この人が。


 生活態度にやや難あり。


 担当指導員。


 夏木リン。


 私の下界修行を左右する先輩天使。


 私は玄関の奥を見た。薄暗い廊下。色の剥げた襖。豆電球。畳の匂い。どこかから漂うみかんの皮の香り。さらに奥の居間には、こたつらしきものが見える。


 天使。


 こたつ。


 古民家。


 生活態度にやや難あり。


 情報が一気に揃いすぎて、逆に理解が追いつかない。


「聞いてないんですけど」


「だろうね。魔法省の事務局って、そういうとこあるから」


「そういうとこで済ませていいんですか?」


「済ませないとやってらんないよ。ほら、寒いから入んな。荷物持つ?」


「いえ、自分で持てます」


「遠慮しなくていいのに」


「遠慮じゃなくて警戒です」


「いいねえ、見習いにしては危機意識がある」


 夏木先輩は満足そうに頷き、私のスーツケースを勝手に持ち上げようとした。


「いや、だから自分で持つって言ってるじゃないですか!」


「重そうだから」


「天使の体なので平気です!」


「翼ないのに?」


「今それ言います!?」


 第一印象は、想像していたより最悪ではない。


 最悪ではないけれど、…かなり面倒くさそう。


 私は玄関に足を踏み入れた。


 古い木の床が、ぎし、と鳴った。家の中は外から見た印象通り、年季が入っていた。壁はところどころ黄ばんでいて、天井の隅には小さな蜘蛛の巣がある。廊下の奥からはテレビの音がして、誰かが朝の情報番組で天気予報を読み上げていた。人間の家だ。驚くほど人間の家だ。天界の拠点らしさは、今のところ一ミリも見当たらない。


 先輩は私を居間へ案内した。


 畳の部屋の中央にはこたつがあり、上にはみかんの入った籠、せんべいの袋、開きっぱなしの漫画雑誌、チャットポッドらしき小さな端末、そして湯呑みが置かれている。壁際には古いテレビ。隣の棚には魔導書らしき分厚い本が数冊、なぜか料理本と一緒に並んでいた。


「座って。お茶いる?」


「状況説明が先です」


「真面目だねえ」


「初日なので」


「初日から肩に力入ってると、一年もたないよ」


「一年もつかどうかは先輩次第です」


「お、言うじゃん」


 夏木先輩はこたつに足を入れ、みかんを一つ取った。


 私は座布団に座り、鞄を膝に置いたまま、できるだけ姿勢を正した。真面目な見習い天使として、まずは指導員から任務内容を聞かなければならない。住居が古いとか先輩がこたつに吸収されているとか、みかんの皮を剥く手際が妙に良いとか、気になることは山ほどあるけれど、私は大人なので優先順位をちゃんと守る。


「まず確認したいんですけど、私は今日からここで生活するんですよね?」


「そう」


「魔法省からは、指定住居へ行けとしか聞いてません」


「うん」


「先生がいるとも、ルームメイトがいるとも、築年数が半世紀を超えてそうな家に住むとも聞いてません」


「築五十七年」


「具体的な数字いらないです」


「雨漏りは二箇所だけだから安心して」


「安心要素が見当たらないです」


「慣れる慣れる」


 慣れたくない。


 私は課題表を取り出し、こたつの上へ置いた。


「これに書いてあるスケジュール通りに動けばいいんですか?」


 夏木先輩はみかんを口に入れながら課題表を覗き込んだ。


「あー、それね」


「はい」


「捨てていいよ」


「はい?」


「パンフレットみたいなもんだから」


「パンフレット!? 赤字で『必読』って書いてありますけど!」


「必読って書いてある紙ほど、現場では読まれないんだよ」


「そんな現場で働きたくないんですが!」


「大丈夫大丈夫。あんたは今日から私の管轄。細かいスケジュールはこっちで決める。朝は軽く町を歩いて、昼は家の片付け、夕方に管制塔へ顔出して、夜は魔法の基礎。明日は買い出しとパトロール。大学はそのうち行けばいい」


「そのうちでいいんですか!? 望月町子、大学生なんですよね!?」


「大学って一日二日休んでも消えないでしょ」


「私の偽装身分は消えるかもしれないですよ!」


「魔法省がどうにかするって」


「その魔法省が私をここに投げ込んだんですけど!」


 夏木先輩は、けらけら笑った。


 私は笑えなかった。


 ここまで来る途中、私はこれからの一年を色々想像していた。厳しいけれど頼れる先輩。整った訓練環境。丁寧な説明。実戦に備えた計画的な研修。人間社会への段階的な適応。少なくとも、初日に課題表をパンフレット扱いされる未来は想像していなかった。


 夏木先輩はみかんの白い筋を丁寧に取りながら、急に真面目な声を出した。


「まあ、冗談半分は置いといて。あんたがここに来た理由は、試験に落ちたからだけじゃない」


 私は顔を上げた。


「どういう意味ですか?」


「あんた、生前の記憶が薄いんでしょ」


「……はい」


「烏森町に住んでたことは?」


「それは知ってます。資料にもありましたし、地名はなんとなく覚えてます」


「友達とか家族は?」


「覚えてません」


「自分がどう死んだかは?」


「交通事故、らしいです」


「らしい、ね」


 夏木先輩の目が、ほんの少し細くなった。


 さっきまでのこたつ妖怪みたいな雰囲気が、急に薄れた。第八位天使。下界常駐二年。生活態度にやや難あり。そういう軽い情報の奥に、この人がちゃんと現場の天使なのだと思わせる何かが見えた。


「下界修行は、人間社会を学ぶためでもある。魔法の基礎を叩き込むためでもある。悪魔と戦う現場を知るためでもある。それに加えて、あんたの場合は、自分の魂が何を忘れているのかを見極める意味もある」


「思い出せってことですか?」


「無理に思い出せとは言わない。思い出したくないこともあるだろうしね。ただ、忘れたまま天使になるのは危うい。魂の中に空洞がある状態で魔法を扱うと、どこかで歪む」


 私は何も言えなかった。


 朝の街で感じた胸のざわつき。バスの窓から見た高校生。川の光。烏森町の路地。どれも、自分の内側に空いた穴の周りをなぞるような感覚だった。


 夏木先輩はみかんをもう一房食べ、またいつもの軽い顔に戻った。


「というわけで、まずは荷物を置こうか。あんたの部屋は二階。服はタンスに入ってる。冷蔵庫のものは好きに食べていいけど、私のプリンに名前が書いてあったら食べたら死刑ね」


「天使が死刑とか言わないでください」


「魂刑?」


「もっと嫌です」


「あと、風呂掃除は当番制。今日はあんた」


「初日から!?」


「新人歓迎風呂掃除」


「歓迎の意味を辞書で調べ直してください」


 私はこたつの上の課題表を見た。


 そして夏木先輩を見た。


 この人の下で一年。


 私の下界修行。


 勅使河原サユリでも、望月町子でもありながら、そのどちらにもなりきれない生活。


 窓の外では、烏森町の午前の光が古い庭を照らしていた。苔むした池の水面が鈍く光り、どこかで鳥が鳴いている。見覚えがあるような、ないような町。失った記憶のすぐそばにある場所。


 私は小さく息を吐いた。


「わかりました。とりあえず、よろしくお願いします。夏木先輩」


「うん、よろしく。サユリ」


 その名前で呼ばれた瞬間、胸の奥が少しだけ揺れた。


 望月町子ではなく。


 勅使河原サユリ。


 忘れているはずの自分の名前。


 夏木先輩は気づいているのかいないのか、こたつに肘をつきながらにっこり笑った。


「じゃあ早速だけど、庭の草むしりから始めよっか」


「今、ちょっといい感じに終わりそうだったのに!?」


「下界修行に情緒を求めちゃ駄目だよ」


「最低だこの先輩!」


 こうして、私の下界修行一日目は、感動的な出会いでも、壮大な使命の宣告でも、悪魔との華々しい戦闘でもなく、築五十七年の古民家と、こたつに住み着いたような第八位天使と、庭の草むしりから始まることになった。


 天使とは、死んだあとも働く魂である。


 私は下界に落とされた直後にそう思った。


 訂正したい。


 天使とは、死んだあとも雑用から逃げられない魂である。


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