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プロローグ


挿絵(By みてみん)




 最初に言っておきたい。


 私は悪くない。


 いや、完全に悪くないと言い切ると、さすがに天界の裁定庁あたりから「虚偽申告ですね」と淡々とした声で訂正印を押されそうだから、そこは少しだけ譲歩する。ほんの少しだけ、爪の先ほど、チョコチップ一粒分くらいは私にも非があったかもしれない。年に一度の筆記試験の前日に、友人の戦場ヶ原アカネが「下界のコンビニスイーツ食べ放題ツアーを開催します」とかいう、天使としての品格を一ミリも感じさせない最低最悪の誘惑を持ちかけてきた時点で、私は全力で断るべきだった。


 断るべきだったのだ。


 それなのに私は、アカネの「期間限定」「もちもち」「濃厚チョコ」「天界では販売未定」という四つの呪文に脳を揺さぶられ、気づいた時には下界のコンビニを三軒はしごし、夜明け前までシュークリームの皮の厚みについて議論していた。


 おかげで試験当日の朝、私の頭の中に入っていた知識は、天界法第十二条でも、魔族分類基準でも、魂案内手順でもなく、「駅前店のプリンはカラメルが深い」「住宅街店のロールケーキはクリームが強い」「深夜二時のカップラーメンは罪の味がする」という、答案用紙に書いたら試験官の眉間へ永久にしわを刻みそうな情報ばかりだった。


 そして私は落ちた。


 見事に落ちた。


 空からではなく、試験に。


 いや、今となっては空からも落ちることになったので、人生というか死後というか、魂生というか、とにかく私の存在は落下に縁がありすぎる。


 試験結果が発表された時、私は掲示板の前でしばらく固まっていた。自分の受験番号がない。何度見てもない。上から見ても、下から見ても、斜めから見ても、薄目で見てもない。番号の並びが急に意地悪な迷路に見えてきて、「もしかして天界式の隠し文字で書かれているのでは?」と一瞬だけ本気で疑ったけれど、隣にいたアカネが「あ、うちら終わったね」と軽く言ったので、私はようやく現実を受け入れた。


 終わった。


 何が終わったかと言えば、私の輝かしい天使ライフである。


 筆記試験に合格すれば、私は正式な第九位天使として登録され、希望部署への推薦枠を取れるはずだった。私が狙っていたのは、愛知県名古屋市中川区、烏森町を含む比較的平和な担当区域で、聞いた話ではここ数年大きな魔族事件もなく、新人天使にとっては「天界職員が選ぶ配属されたい下界支部ランキング」で上位に食い込むレベルの優良物件だった。


 平和な町。


 頼れる先輩。


 ほどほどの仕事量。


 時々パトロール。


 非番の日には喫茶店でパフェ。


 私はそんな未来を思い描いていた。


 天使としての使命感はもちろんあった。人間の魂を導き、下界の平和を守り、魔族の脅威から街を守護する尊い職務に就くのだという誇りも、まあ、あるにはあった。けれど人間だった頃の記憶がほとんど抜け落ちている私にとって、下界という場所はどこか懐かしいのに遠く、天界という場所は美しいのに落ち着かない、なんとも言えない中途半端な居場所だったので、せめて配属先くらいは自分で選びたかった。


 その希望は、試験官の「勅使河原サユリさん、原級留置です」という一言で粉々になった。


 原級留置。


 聞こえは少し格好いい。なんなら古代魔法の名前っぽい。「原級留置、発動!」とか叫べば地面から鎖が出てきそうな響きがある。


 中身は留年である。


 もっと正確に言えば、筆記試験に落ちた見習い天使に下される下界修行命令で、天界での正式登録を一年先送りにされ、地上で人間社会を学びながら、天使としての基礎を叩き直される制度だった。


 私は抗議した。


 それはもう、きっちり抗議した。


「たった一回の筆記試験で人生を左右するのは、教育制度としてどうなんですか。そもそも天使は死後の存在であって、人間界の受験戦争みたいな仕組みを持ち込む必要はないと思います。あと設問三十七番の『魔界第0地区における瘴気濃度の暫定評価式を述べよ』は、どう考えても見習いに出す難易度じゃありません。あれは上級職員向けです。少なくともスイーツを三軒はしごした翌朝の魂に解かせる問題ではありません」


 試験官は眼鏡の位置を一ミリだけ上げ、紙束を整えながら、私の魂に冷水を流し込むような声で言った。


「スイーツをはしごしたのはあなたの私的行動です」


 はい。


 それはそう。


 反論の余地がない。


 私が黙ると、試験官はさらに淡々と続けた。


「天使の職務は、下界の住民を守ることです。魔族への対処、魂の案内、人間社会への潜入、地域治安の維持、緊急時の判断。これらには最低限の知識が必要です。あなたの答案には、魔族の分類を問う設問に『見た目がキモい順に倒す』と書かれていました」


「いや、それは戦術的に正しい場合もあるかなって」


「正しくありません」


「虫っぽい魔族は絶対に早めに倒した方がいいです。精神衛生上」


「精神衛生ではなく、規定分類に従ってください」


 この人、ぜんぜん冗談が通じない。


 天界の教育審査局には、笑顔をどこかのロッカーに置き忘れてきたような職員が多い。しかも誰も取りに戻らない。たぶんロッカーの鍵もなくしている。


 私はまだ食い下がった。


「せめて補習でどうにかなりませんか。追試とか、レポート提出とか、反省文五十枚とか」


「反省文五十枚を提出されても、魔族は待ってくれません」


「じゃあ百枚」


「枚数の問題ではありません」


「土下座は?」


「不要です」


「チョコレート献上は?」


「賄賂です」


 終わった。


 本格的に終わった。


 そうして私は、天界教育審査局の冷たい判子によって、下界修行を命じられたのである。


 ここで、天使というものについて少し説明しておきたい。人間界で天使と聞くと、白い翼があって、頭の上に輪っかがあって、ふわふわ笑いながらハープを弾いている存在を想像する人が多いらしい。実際、天界の観光パンフレットにも似たような絵が載っている。あれはほぼ詐欺だと思う。


 本物の天使は、もっと役所っぽい。


 白い翼はある。魔法も使う。神秘的な雰囲気を出せる人もいる。上位天使になると、それこそ神話から抜け出してきたみたいな迫力がある。けれど現場の天使たちは、意外と普通に働いている。書類を書くし、シフトを組むし、管制塔で待機するし、下界の清掃活動もするし、交通安全の旗を持って横断歩道に立つこともある。


 天使の主な仕事は二つ。


 一つは、死んだ人間の魂を案内すること。


 人間は死ぬと、魂だけの状態になって、天界へ向かう流れに乗る。もちろん全員がすんなり来られるわけではなく、事故で突然死んだ人、強い未練を残した人、自分が死んだことに気づいていない人、家族のそばを離れられない人、怒りや悲しみに引っ張られて道を見失う人もいる。そういう魂に声をかけ、必要なら付き添い、転生するのか、浄化されるのか、天界に残るのか、正しい手続きへ導くのが天使の大事な役目だ。


 私も天界へ来た時、柊真琴先輩という第七位天使に道案内をしてもらった。


 その時の私は、生前の記憶がほとんどなかった。自分の名前も、住んでいた場所も、誰と仲が良かったのかも、うまく思い出せなかった。覚えていたのは烏森町という地名の響きと、烏森高校という名前、それから交通事故で死んだらしいという、どこか他人事みたいな情報だけだった。


 魂案内をする天使は、そういう迷子の魂に寄り添わなければならない。だから優しさがいる。知識もいる。相手の混乱に巻き込まれない冷静さもいる。試験官が私に「最低限の知識を身につけなさい」と言った理由は、まあ、わかる。


 わかるけれど、納得したかは別問題である。


 二つ目の仕事は、下界を魔族から守ること。


 ここから話が少し物騒になる。


 この世界には、下界、天界、魔界という三つの階層がある。下界は人間たちが暮らす地上。天界は死後の魂を管理し、整え、次の生へ送り出す場所。魔界は名前だけ聞くと地獄の親戚みたいで最悪に聞こえるけれど、本来は魂の汚れや滞留した思念を分解するための、世界規模の浄化槽みたいな領域だ。


 魔界には魔族がいる。


 魔族と聞くと、角が生えていて、黒い翼があって、「フハハ、人間どもよ」とか言いながら高笑いしている連中を想像するかもしれない。そういうのもいる。残念ながらいる。しかも声がよく通る。けれど魔族の大半は、魔界の土壌や海や空気の中で、瘴気を分解したり、霊子を循環させたりしている生き物で、必ずしも人間を襲う存在ではない。


 問題は、悪魔と呼ばれる魔族たちである。


 悪魔は、もともと人間だった魂が、強すぎる悪意や未練や憎しみのせいで魔界で浄化されず、怪物みたいな形を得てしまった存在だ。人間の魂を食べる。街に出る。人を襲う。環境を汚す。魂の循環を乱す。天界では特定駆除対象に指定されていて、要するに見つけたら討伐しなければならない。


 もっとも、魔族にも色々いる。


 原生種と呼ばれる微生物みたいなもの、下級魔族、クリーチャーと呼ばれる中級魔族、人間に似た姿と知性を持つソルダード、そして滅多に観測されない特級魔族。全部が全部「うわあ悪い奴!」という単純な話ではない。中には魔界の環境を守っているだけのものもいるし、天使と取引する魔族もいるし、天界よりよほど礼儀正しいやつもいるらしい。


 それでも下界に出てきて人間の魂を食べるやつは駄目だ。


 そこは話し合いとか多様性とかで済ませられない。魂を食べるな。まず食べるな。人間をスナック感覚で扱うな。


 天使はそういう魔族を見つけて、殲滅したり、封印したり、魔界へ送り返したりする。管制塔という高層ビルみたいな拠点が各地域にあって、そこでは二十四時間、魔族反応や魂の乱れを監視している。何かあればチャットポッドに緊急通知が入り、担当チームが現場へ向かう。


 ここだけ聞くとかっこいいよね?


 翼を広げて夜の街を飛び、魔法陣を展開して悪魔を討つ。真琴先輩たちの戦いを見学した時、私は心の底から思った。“天使ってすごい。私もあんなふうになりたい”って。


 だけど悲しいかな、今の私の現実は、試験に落ちて翼を没収された“見習い天使”という立場なのである。


 天使なのに飛べないのである。


 鳥で言うなら、電線に止まろうとして徒歩で電柱に向かうようなものだ。いや、鳥は徒歩でもかわいいかもしれない。しかも下界へ送られている間、魔法だってろくに使えないときた。これでどうやって威厳を保てというのか。


 下界送還の辞令を受け取った翌日、私は事務局へ呼び出され、いくつかの説明を受けた。


 担当職員は天使ではなかった。本人いわく半獣人のアルバイトで、耳が少し尖っていて、書類をめくるたびに尻尾らしきものが椅子の下でふわふわ揺れていた。天界というのは天使だけがいる場所だと思っていたので、最初はかなり驚いた。聞いてみたら、天界には天使以外の種族も普通に働いているらしい。役所の窓口というのは、どの世界でも意外と多国籍ならぬ多種族なのかもしれない。


「こちらが下界滞在用の身分証明一式になります」


 職員さんは、分厚い封筒を机の上へ置いた。


 中にはパスポート、学生証、保険証、銀行カード、住民票の写し、大学の履修表、アパート契約書らしき紙、よくわからない暗証番号の一覧が入っていた。


 名前は、望月町子。


 二十一歳。


 二流大学の学生。


 郊外のアパート住まい。


 趣味は映画鑑賞とカフェ巡り。


 特技は資料整理。


 誰だ。


 私は思わず封筒を閉じた。


「すみません、人違いです」


「人違いではありません。あなたの下界用レプリカです」


「レプリカ?」


「人間社会へ自然に溶け込むための偽装肉体および偽装戸籍です。下界では原則として望月町子として生活してください」


 レプリカ。


 また面倒くさい単語が出てきた。


 天使が下界で活動する時、人間に本来の姿を見られないようにするため、魔法省が用意した偽造の器へ入ることがある。望月町子という人間は、最初から本物として存在していたわけではなく、魔法省が作った身分と肉体と社会的記録を組み合わせたものらしい。人間から見れば普通の大学生で、住民票もあって、銀行口座もあって、大学にも籍がある。


 やってることがだいぶ大掛かりな詐称ではないかと思ったけれど、天界の人たちは「必要な手続きです」と真顔で言う。天使の社会では、スケールの大きい偽装は正義になるらしい。


「なお、レプリカ使用中は、あなたの本来の姿は人間には認識されません」


「つまり私は望月町子に見えるんですね」


「はい。例外的に、霊的感受性が高い人間、魂の結びつきが強い人物、特殊な因子を持つ者には偽装が揺らぐ場合がありますが、通常は問題ありません」


「例外が多そうな言い方ですね」


「通常は問題ありません」


 二回言った。


 これは問題が起きるやつだ。


 私はうっすらそう思ったけれど、抗議する気力はすでに試験官との戦いで使い果たしていた。


 さらに職員さんは、下界での課題表を渡してきた。


 一日一回の地域清掃。


 毎朝の交通指導。


 人間社会におけるマナー観察記録。


 週三回の魔法理論復習。


 週二回のパトロール同行。


 大学授業への出席。


 日報提出。


 月末面談。


 読んでいるうちに、私は魂の奥からじわじわと疲れてきた。


 天使は寿命がない。食事も睡眠も本来は必要ない。体は丈夫で、多少の傷なら勝手に治る。だからといって予定を詰め込んでいいわけではない。人間だった頃の記憶はないけれど、私の魂は確信していた。これは間違いなくブラック寄りであると。


「質問があります」


「どうぞ」


「下界修行という名の雑用では?」


「実地研修です」


「ゴミ拾いも?」


「人間社会の環境維持を学ぶためです」


「交通指導も?」


「人間の生活圏と危険予測を学ぶためです」


「大学に行くのも?」


「偽装身分維持と社会適応訓練です」


「スイーツ巡りは?」


「課題に含まれていません」


「自主学習としては?」


「日報に記載しないでください」


 なかなか厳しい。


 私は課題表を見つめながら、天使という職業が思っていたよりずっと地味で、ずっと現実的で、ずっと書類の匂いがするものなのだと理解し始めていた。


 下界へ行く日、私は転送ゲートの前に立っていた。


 ゲートは管制塔用の大型設備ではなく、見習い天使用の簡易転送装置で、天界の教育審査局に併設された白い部屋の中央に置かれていた。床には魔法陣が描かれ、周囲には青白い光の柱が立ち、壁面の表示盤には行き先や座標や霊子安定率が細かく流れている。


 こういう設備を見ると、少しだけ気分が上がる。


 魔法って感じがする。


 未来技術っぽさもある。


 翼を没収された身としては、せめて転送くらい格好よく決めたいところだった。


「転送先は名古屋市中心部の指定宿泊施設です。本日一泊後、翌朝、担当区域へ移動してください」


「直接担当区域じゃないんですか?」


「下界肉体との同期確認、レプリカ適合率測定、身分証の最終認証を兼ねています」


「ホテルに泊まるんですよね?」


「はい」


「豪華ですか?」


「必要十分です」


 必要十分。


 天界職員が使うこの言葉は信用ならない。以前、必要十分な昼食と言われて出てきたのが、白い栄養ブロック三本と水だった。天界の「必要」は必要最低限を指す。十分とは、死なないという意味である。


 けれど実際に転送されたホテルは、思ったよりずっと豪華だった。


 名古屋の中心部にある高層ホテルの六十階。全面ガラス張りの部屋。大きなベッド。ふかふかのシーツ。夜景の見えるベランダ。冷蔵庫には水と謎に高いチョコレート。私はしばらく部屋の中をうろうろ歩き回り、「これ、ほんとに私が泊まっていいやつ?」と何度も確認した。


 天界からの連絡には、こう書かれていた。


『初日のみ特別宿泊措置。翌日以降は指定住居へ移動。備品破損の場合は給与天引き』


 給与。


 そういえば、天使にも給与がある。


 お金を使わない天界ではポイント制に近いけれど、下界常駐の天使は人間社会で暮らすため、最低限の生活費が支給される。家賃も電気代も水道代も払う。コンビニでプリンを買うにもお金がいる。天使なのにレジに並ぶ。天使なのにポイントカードを作る。天使なのに「袋いりますか?」と聞かれる。


 神秘とは何なのか。


 私はベッドへ倒れ込んで、天井を見上げた。


 明日から下界修行が始まる。


 望月町子として大学へ行き、人間社会を学び、地域清掃をし、交通指導をし、先輩天使のもとでパトロールに参加し、悪魔が出れば戦闘補助に回る。魔法はまだ使えない。正式な天使ではないから属性も付与されていない。体の中に魔力と特性の原型はあるらしいけれど、魔法省に権限を開放されるまでは、目隠しをされたまま手探りで歩くようなものだ。


 使える装備は、見習い用の魔導書、魔法薬、魔法剣。


 名前だけ聞けば、かなりそれっぽい。


 というか魔導書と魔法薬と魔法剣なんて、並びだけなら完全に冒険者セットである。あとは革のポーチとフード付きマントでもあれば、今すぐ酒場で依頼を受けられそうな勢いだ。


 ただし、実物はそんなに夢いっぱいの代物ではなかった。


 魔導書は魔力の流れや詠唱式の構造を学ぶための参考書兼補助具で、ページを開くと文字が淡く浮かび上がり、使用者の魔力に反応して内容が変わるらしい。魔法薬は一時的に体内の魔力回路を補助し、簡単な擬似魔法を使えるようにする薬。魔法剣は高圧縮された魔力物質を刃の形に固定した武器で、見習い用とはいえ、扱いを間違えれば普通に壁くらいは斬れるらしい。


 どれも説明だけ聞けば便利そうなのに、同封されていた注意書きには、「使用方法を誤ると自己損傷、周辺破壊、霊子漏出、意識混濁の恐れがあります」と、やたら淡々と書かれていた。


 怖い。


 天界製品、注意書きがいちいち怖い。


 電子レンジの説明書みたいな顔をしているくせに、書いてある内容が魂に悪い。

 「あたためすぎにご注意ください」くらいのテンションで「霊子漏出」とか書かないでほしい。漏れていいものじゃないでしょ、それ。たぶん。


 私は魔導書の表紙をそっと閉じると、ベッドの上に寝転がり、そのままごろごろ転がりながらふと自分の手を見た。


 “望月町子”というレプリカの手だ。


 本来の私――勅使河原サユリの手がどんな形だったのかは、まだはっきりとは思い出せない。それでもこの手が自分のものではないという感覚だけは、妙にはっきりしていた。肌は少し白く、指は細く、爪の形もきれいに整っている。手の甲には傷跡もなく、ペンだこもなく、生活の癖みたいなものがほとんど見えない。


 鏡の前に立つと、そこには勅使河原サユリではない女の人が映っている。


 丸みのあるショートヘア。やわらかい頬。人当たりの良さそうな目元。真面目そうで成績もそこそこ良くて、教授にも近所のおばあちゃんにも好かれそうな優等生っぽい顔立ち。


 二十一歳の大学生。映画鑑賞とカフェ巡りが趣味。資料整理が得意。


 設定までしっかり作り込まれているのが、逆に怖い。


 私はその顔に向かって、試しに笑ってみた。


 えくぼが出た。


 誰だ本当に。


 自分が自分ではない姿で地上に戻るというのは、思っていた以上に変な感覚だった。生前の記憶が曖昧だから、余計に境目がわからない。私は勅使河原サユリなのか。それとも、今この世界に登録されている望月町子なのか。名前を呼ばれたら返事はできる。でも、その名前に自分の人生がくっついているかと言われると、正直かなり怪しい。


 それでも、勅使河原サユリという名前には胸の奥に小さな引っかかりがある。


 烏森町という地名を聞くと、理由もなくざわつく。


 烏森高校という文字を見ると、喉の奥に何かが詰まったような気がする。


 忘れている。


 私はたぶん、大事なことをたくさん忘れている。


 家族のこと。


 友達のこと。


 好きだった場所。


 嫌いだった人。


 何度も通った道。


 笑ったこと。


 泣いたこと。


 誰かに言えなかったこと。


 そして、死んだ瞬間のこと。


 天界の人たちは、私の記憶について「記憶欠落は珍しくありません」と、やけに落ち着いた口調で説明してくれた。


 事故死や、強い精神的衝撃を伴う死を迎えた場合、生前の記憶が一部曖昧になったり、特定の人物や出来事だけが抜け落ちたりする魂は一定数いるらしい。魂そのものを守るための防御反応だとか、死の瞬間に受けた衝撃で記憶の一部が一時的に剥離した状態だとか、魔法省から渡された資料には、いかにも専門部署の人が真面目な顔で書きました、という感じのもっともらしい説明が並んでいた。


 そういう理屈を聞くと、少しだけ安心する自分がいた。


 ああ、私だけじゃないんだな、と思えるから。


 自分だけが壊れているわけではなくて、ちゃんと名前のついた現象で、対応の仕方も研究されていて、過去にも同じような魂がいたのだとわかるだけで、胸の奥に引っかかっていた不安がほんの少しだけ軽くなる。


 けれど同時に、少し怖くもなる。


 忘れているということは、いつか思い出す可能性があるということだ。


 もし思い出したとき、私は今の私のままでいられるのだろうか。生前の私は、今の私とはまるで違う性格だったのかもしれない。誰かを深く傷つけていたかもしれないし、逆に、誰かをどうしようもなく大切にしていたかもしれない。忘れていることそのものが、私にとって必要な逃げ道だったとしたら。


 そこまで考えて、私はやめた。


 難しいことを考えると、甘いものが欲しくなる。


 冷蔵庫を開けると、奥の方に、明らかに自分で買うには少し躊躇しそうな高級チョコレートの箱が入っていた。私は一瞬だけ良心と相談したあと、無事に良心を黙らせ、包装紙をびりびりと破った。


 口に入れると、ちゃんとおいしかった。


 天界の栄養ブロックとは違う。あれは一応甘いのだけれど、どこか「必要な糖分を効率よく摂取しています」という事務的な味がする。けれどこのチョコレートには、甘さに魂があった。舌の上でゆっくり溶けて、苦味と香りが後から追いかけてきて、脳が一瞬で「これは許されるべき罪です」と判断する味だった。


 これを作った人は偉い。


 天使にしてあげたい。


 いやでも、死んでもらったら困るので、できれば長生きしてほしい。


 私は箱の中のチョコレートを三粒ほど消費したところで、さすがにこのままでは天界どころか現世の血糖値方面からも怒られる気がして、そっとふたを閉じた。


 そして証拠隠滅のため、破った包装紙をできるだけ小さく丸め、ゴミ箱の奥へ押し込む。


 我ながら手慣れている。


 前世の私は、もしかすると盗み食いの常習犯だったのかもしれない。だとしたら、世の中には思い出さない方が平和な記憶というものも確かに存在する。少なくとも今この瞬間の私は、過去に犯したかもしれない重大な罪よりも、冷蔵庫のチョコレートを勝手に食べた罪の方が、よほど現実的に怖かった。


 ベッドに腰かけ、天界から渡された薄い冊子をもう一度開く。


 『地上滞在における注意事項』


 『魔力反応が不安定な場合の対処法』


 『魂と肉体の接続に関するよくある質問』


 どれも大事そうではある。


 大事そうではあるのだが、文字が多い。


 しかも、ところどころに「稀に魂魄振動の逆流が発生し」だの、「精神核の再同期には個人差があり」だの、「外的魔力干渉による接続揺らぎが確認された場合」だの、読むだけで眠気を誘う呪文みたいな単語が並んでいる。


 これはきっと、読む者を試す高度な罠だ。


 少なくとも私の脳は、開始三分で白旗を上げた。


 私は冊子を閉じて、窓の外を見た。


 ガラスの向こうには、夜の名古屋が広がっていた。高い場所から見下ろす街は、知らない星座を地面にこぼしたみたいで、ビルの窓明かりや信号の光、道路を走る車のライトが、細い川のように流れている。


 生きている人たちの光だ、と思った。


 あの光のどこかに、私がいた場所もあるのだろうか。


 私を知っている人も、いるのだろうか。


 胸の奥が、少しだけきゅっとした。


 けれどそれが寂しさなのか、怖さなのか、懐かしさなのかはわからない。わからないことばかり増えていくのは嫌だったので、私はそこで考えるのをやめて、部屋の照明を落とした。


 明日になれば、何かが進む。


 たぶん。


 少なくとも、今日よりは。


 そう自分に言い聞かせて、私はふかふかすぎるベッドにもぐり込んだ。体がゆっくり沈み込むような柔らかさで、これはもう寝具というより、人間を駄目にする白い雲である。天界より天界っぽい。いや、天界の寝床は意外と事務的だったので、もしかするとこちらの方が勝っているかもしれない。


 最後に思い浮かんだのは、冷蔵庫の奥に残したチョコレートだった。


 明日の私が耐えられることを祈ろう。



 ◇



 ――その夜、私は夢を見た。


 空から落ちる夢だった。


 真っ青な空。薄い雲。遠くに曲がる地平線。耳元で風が唸り、セーラー服の袖がばたばた暴れ、体がものすごい速さで下へ引っ張られていく夢。パラシュートはなく、翼もない。手を伸ばしても掴むものは何もない。


 どわああああああああッッ!!と、私は夢の中で叫んでいた。


 自分の声で目が覚めたのはいつぶりだっただろう。


 気がついたらベッドの上だった。


 ふかふかのシーツに、豪華なホテルの部屋。六十階の超高層ビルから見下ろす、朝の光を浴びた名古屋の街。心臓がばくばく鳴っていて、汗は出ていないのに魂が汗だくだった。


 最悪だ。


 最悪の夢を見た。


 …空から落ちる夢とか、翼を奪われた天使に見せる夢としてはあまりにも悪趣味である。夢の担当部署があるなら苦情を入れたい。転送前に不安を煽るな。もっとこう、花畑でプリンを食べる夢とかにしてくれ。


 私はシーツをはねのけて起き上がり、カーテンを開けた。


 窓の向こうには、朝の名古屋が広がっていた。


 高いビル。道路を流れる車。遠くに見える名古屋城。背の高いスカイタワー。人間の街は、天界から見下ろすよりずっと具体的で、窓ガラス越しに見える一つ一つの建物に、人の生活が詰まっているように思えた。誰かが朝ごはんを作り、誰かが遅刻しそうになり、誰かが眠い目をこすり、誰かが昨日の喧嘩を引きずりながら学校へ向かう。


 ここが下界。


 私が守るべき場所。


 私がかつて生きていた場所。


 そう考えると、ほんの少しだけ背筋が伸びた。


 ほんの少しだけ。


 すぐに現実が追いついてきて、私はテーブルに置かれた課題表を見た。


 本日の予定。


 午前八時、指定住居へ移動。


 午前十時、担当指導員と合流。


 午後、生活環境確認。


 夕方、地域巡回。


 夜、基礎魔法理論復習。


 備考、不要な寄り道をしないこと。


 不要な寄り道。


 この一文を見た瞬間、私は昨日食べたチョコレートの包み紙をそっとゴミ箱へ押し込んだ。証拠隠滅である。天界職員はたまに無駄に勘がいい。


 支度を済ませ、望月町子用の服に着替えた。白いブラウス、淡い色のカーディガン、膝丈のスカート。どう見ても真面目な大学生。鏡の前でポーズを取ってみたら、私の中身との不一致が激しくて、少し笑ってしまった。


「よし、行くか」


 声は私のものなのに、鏡の中の顔は望月町子。


 この姿で地上を歩く。人間に紛れて生活する。天使としての修行をする。魔族が出たら逃げずに立ち向かう。過去の自分には触れない。生前の知人がいても、自分から関わらない。魔法省の規則ではそうなっている。


 守れる気がしない。


 いや、守るつもりはある。


 あるけれど、私の人生、もとい死後は、すでに試験前日のコンビニスイーツで大きく予定を外れている。こういう時って、だいたい何か起きるのが相場だ。資料には「通常は問題ありません」と書いてあったけど、こういう言葉が本当に問題なかった試しを、私はまだ知らない。


 ホテルを出ると、朝の空気は少し冷たかった。


 翼はない。


 魔法も使えない。


 正式な天使でもない。


 持っているのは、借り物のチャットポッド、見習い用の魔導書、下界用の身分証、そしてやたら分厚い課題表。


 それでも私は、下界へ戻ってきた。


 勅使河原サユリとしてではなく、望月町子として。


 人間だった頃の記憶を失ったまま、天使になり損ねた見習いとして、悪魔が潜むかもしれない街へ向かうことになった。


 言いたいことは山ほどある。


 試験官にはまだ文句を言い足りないし、アカネにはコンビニスイーツ代の半分を請求したいし、魔法省には下界修行のスケジュールをもう少し人道的にしてほしいし、翼を返してほしいし、ついでに昨日の夢を見せた誰かには正式に謝罪してほしい。


 けれど、まあ。


 せっかく戻ってきたのだ。


 この街が私の地元だったのなら、もしかしたら何かを思い出せるかもしれない。思い出したくないこともあるかもしれない。面倒な先輩にこき使われるかもしれない。悪魔に襲われるかもしれない。ゴミ拾いで腰を痛めるかもしれない。大学の授業で寝るかもしれない。


 それでも、やるしかない。


 天使とは、死んだあとも働く魂である。


 悪魔とは、死んだあとも迷惑をかける魂である。


 私はそのどちらにもなりきれていない、中途半端な見習い天使である。


 そして今日から一年間、下界修行。


 最悪だ。


 ほんとに最悪だ。


 そう呟きながら、私は名古屋の朝の中へ歩き出した。



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