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第3章 王都に存在しない少女

人間を一人、探すだけ。

 言葉にすれば簡単だ。

 ただし、今回の依頼には一つだけ問題があった。

 その人間は、存在しない。

「……いや、意味が分からないんですが」

 俺は、王都の中央図書館で向かい合っている女性司書に言った。

 司書は眼鏡の位置を直し、淡々と答えた。

「何度も申し上げています。王都の住民記録に、該当する人物は存在しません」

「名前は?」

「不明です」

「年齢は?」

「不明です」

「性別だけでも?」

「記録がありません」

「じゃあ、どうやって探せと?」

「それは、こちらが伺いたいくらいです」

 正論だった。

 正論なのだが、依頼を出したのは俺ではない。

 俺の視界の隅に、あの不愉快な文字が浮かんでいる。

 ――第二試験。

 ――王都に存在しない少女を見つけよ。

 期限は、日没まで。

 失敗した場合の罰則は書かれていない。

 書かれていないこと自体が、すでに嫌な予感しかしなかった。

「せめて、手掛かりを一つくらいください」

 俺が頼むと、司書は少し考えた。

「そうですね……。今朝から、図書館の貸出記録に奇妙な現象が起きています」

「奇妙な現象?」

「返却された本の記録が、貸し出された記録ごと消えているのです」

「本が消えたんですか?」

「いいえ。本はあります。借りた人間の記録だけがありません」

 俺は黙った。

 嫌な一致だった。

 記録がない。

 存在しない。

 それでも、何かがそこにある。

「その本を見せてもらえますか?」

 司書は一瞬ためらったあと、奥の書庫へ向かった。

 しばらくして戻ってきた彼女の手には、一冊の古びた本があった。

 表紙には題名がない。

 革は擦り切れ、背表紙には黒い染みが広がっている。

「こちらです」

 俺は本を受け取った。

 表紙に触れた瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。

 文字が見える。

 紙の上に書かれた文字ではない。

 この本にまつわる記録そのものが、俺の目の前に浮かび上がっていた。

 ――王都中央図書館、蔵書番号一七〇四。

 ――貸出日:神暦四百十二年、春の七日目。

 ――借受人:記録なし。

 ――返却日:神暦四百十二年、春の七日目。

 ――備考:借受人の存在を確認できず。

 俺は眉をひそめた。

 貸出日と返却日が同じ。

 借りた人間はいない。

 それなのに、本は貸し出され、返却されている。

 しかも、今日の日付だ。

「司書さん。この本、今朝からここにあったんですか?」

「ええ。朝の開館時には、すでに返却棚に置かれていました」

「誰かが返したところを見た人は?」

「いません」

 俺は本を開いた。

 最初のページは真っ白だった。

 二ページ目も。

 三ページ目も。

 十ページ目まで、何も書かれていない。

 ところが、十一ページ目だけは違った。

 そこには、子供のような丸い文字で、一文が書かれていた。

 ――わたしを、わすれないで。

 息が止まった。

 その文字を見た瞬間、胸の奥に、理由の分からない痛みが走った。

 知らない文字だ。

 知らない文章だ。

 それなのに、まるでずっと昔から知っていた言葉のように思えた。

「……この字、誰が書いたか分かりますか?」

「分かりません。今朝は、何も書かれていなかったはずなのですが」

 司書の声が遠くなる。

 俺は、もう一度その文字を見た。

 すると、ページの下端に、極めて小さな文字が浮かんだ。

 ――記録削除処理、進行中。

 ――対象:個体識別番号〇〇〇〇。

 ――削除理由:管理者命令。

 ――削除完了予定:本日、日没。

 俺は本を閉じた。

 なるほど。

 ようやく分かった。

 俺が探すべき少女は、単に住民記録に載っていない人間ではない。

 誰かが意図的に、この世界から消そうとしている人間だ。

 しかも、日没までに。

「セラフィーナさんを呼んでください」

 俺は司書に言った。

「今すぐです」

 司書は不安そうに頷いた。

 その背中を見送りながら、俺は本を握り締めた。

 記録を書き換える能力。

 世界から消される人間。

 そして、俺だけに見える管理者の命令。

 偶然だとは思えなかった。

 問題は、なぜ神様が一人の少女を消そうとしているのか。

 そして。

 どうして俺に、その少女を見つけさせようとしているのか。

 俺は、白紙のページをもう一度開いた。

 そこには、先ほどまでなかった文章が増えていた。

 ――あなたが見つけてくれるって、信じてる。

 俺は思わず周囲を見回した。

 誰もいない。

 窓の外では、王都の鐘楼が正午を告げていた。

 少女は、どこかにいる。

 そして彼女は、俺が来ることを知っている。

「……まったく」

 俺は苦笑した。

「異世界生活って、もっとこう、冒険者ギルドで薬草採取とかするものじゃないのか?」

 返事はなかった。

 ただ、本のページが一枚、音もなくめくれた。

 新しい文字が浮かぶ。

 ――東区、旧孤児院。

 ――ただし、そこへ向かう者は、彼女の存在を忘れる。

 俺は本を閉じた。

「上等だ」

 忘れるなら、忘れない方法を考えればいい。

 記録に存在しないなら、記録以外のものを頼りにすればいい。

 俺は司書が戻るのを待たず、図書館を飛び出した。

 日没まで、あと六時間。

 今度こそ、神様の無茶振りに付き合ってやる。

 ただし。

 結果が気に入らなかったら、今度は俺が神様の記録を書き換えてやる。

     *

 東区は、王都の中でも古い地区だった。

 石畳はところどころ割れ、建物の壁には雨染みが残っている。中心街の華やかな商店街とは違い、道を歩く人間も少ない。

 俺は道端のパン屋に駆け寄った。

「すみません。旧孤児院って、どこにありますか?」

 店番の老婆は、俺を怪訝そうに見た。

「孤児院?」

「ええ。昔からある建物らしいんですが」

「さあねえ。この辺りに孤児院なんてあったかねえ」

 予想どおりだった。

 少女の記録が消されているなら、彼女に関係する場所も人々の記憶から消えている可能性がある。

「この辺りに、最近使われなくなった建物はありませんか? 窓が割れているとか、庭が荒れているとか」

「それなら、そこの角を曲がったところに……」

 老婆は指を差しかけて、突然、首をかしげた。

「いや、何の話だったかね」

 その目から、俺を見ていた意識がすっと抜け落ちた。

「お客さん、パンを買うのかい?」

「……いえ」

 俺は礼を言って、その場を離れた。

 なるほど。

 場所を探そうとするだけで、人間の記憶が途切れる。

 これは厄介だ。

 地図を買おうにも、地図に載っていない可能性がある。住民に聞いても、途中で忘れられる。

 ならば、記録にも記憶にも頼らずに探すしかない。

 俺は道の端にしゃがみ込み、石畳を観察した。

 古い街並みには不自然な部分があった。

 建物と建物の間に、妙な隙間がある。

 壁の一部だけ、石の色が違う。

 そして、通りの端にある街灯が、一本だけ不自然に新しい。

 まるで、誰かがそこにあったものを消し、周囲だけを取り繕ったようだった。

 俺は新しい街灯の根元を調べた。

 石畳の隙間に、小さな金属片が落ちている。

 拾い上げると、銀色の円盤だった。

 表面には、見覚えのある紋章が刻まれている。

 聖堂騎士団の紋章だ。

「……おいおい」

 記録を管理している神殿と、騎士団。

 この二つが関わっているのか?

 俺は円盤をポケットにしまい、路地の奥へ進んだ。

 その先に、古い石壁があった。

 壁には、扉の形をした跡が残っている。

 だが、扉はない。

 窓もない。

 壁の向こうに空間があるのかどうかさえ、分からなかった。

 俺は壁に手を触れた。

 視界が反転した。

 ――対象領域:記録欠損。

 ――閲覧権限なし。

 ――管理者による封鎖を確認。

 なるほど。

 ここだ。

 俺は壁の表面をなぞった。

 記録が欠損しているなら、無理やり書き換えることはできないかもしれない。

 さっきの演武では、実際に存在する規則と、相手の承認が根拠になった。

 今回は違う。

 何を根拠にすればいい?

 俺はポケットから、図書館の本を取り出した。

 そして、十一ページ目を開いた。

 ――わたしを、わすれないで。

「……それだけで十分だ」

 俺は呟いた。

 少なくとも、誰かがここにいた。

 その痕跡が、紙の上に残っている。

 記録が消されても、消しきれなかったものがある。

 それを根拠にする。

 俺は壁に向かって、はっきりと告げた。

「ここには、誰かがいた」

 何も起きない。

「誰かが暮らしていた。誰かが食事をして、眠って、笑っていた」

 石壁が微かに震えた。

「そして、その人間がいたことを、誰かが覚えている」

 俺は本を掲げた。

「少なくとも、俺はこの言葉を読んだ。だから、完全な不存在ではない」

 頭の中に、声が響いた。

『記録への干渉を検知しました』

『根拠を提示してください』

「これだ」

 俺は十一ページ目を開いたまま、壁に押し当てた。

『記録の真正性を確認できません』

「そりゃそうだろうな」

 俺は笑った。

「でも、あんたたちが消したのは、記録だ。そこにいた人間じゃない」

 沈黙。

 初めて、あの声が返事をしなかった。

 俺は続けた。

「記録がないことは、存在しなかった証拠にはならない。記録が消されたこと自体が、誰かが存在した可能性を示している」

 壁に亀裂が走った。

 小さな音がした。

 石の隙間から、淡い光が漏れ出す。

『……矛盾を検出』

『記録欠損の原因を照合します』

『管理者権限による削除命令を確認』

 俺の背筋が冷えた。

 やはり、神の命令だった。

『警告。対象への接触は推奨されません』

「誰に推奨されていないんだ?」

 返答はなかった。

 代わりに、壁が音を立てて開いた。

 そこには、狭い階段が続いていた。

 階段の下から、かすかな歌声が聞こえる。

 子守歌のような、ゆっくりとした旋律だった。

 俺は一段ずつ降りていった。

 地下には、小さな部屋があった。

 木製の机。

 壊れた椅子。

 壁に並んだ、子供たちの絵。

 そして、部屋の隅に置かれたベッド。

 その上に、一人の少女が座っていた。

 年齢は十六、七歳くらいだろうか。

 淡い金色の髪が肩まで伸び、白いワンピースの裾が、古びたベッドの上に広がっている。

 少女は歌うのをやめた。

 そして、俺を見た。

「……本当に、来てくれたんだ」

 その声は、驚くほど普通だった。

 まるで、俺がここに来ることが当たり前だったかのように。

「君が、俺を呼んだのか?」

「うん」

「どうして?」

 少女は少し考えた。

「だって、あなたは、まだ私のことを知らないから」

「……それは、どういう意味だ?」

「あなたは、私を忘れたことがないもの」

 意味が分からなかった。

 俺は彼女に会ったことがない。

 名前も知らない。

 なのに、少女はまるで昔から俺を知っているかのように微笑んでいた。

「名前は?」

 俺が尋ねると、少女は俯いた。

「……ないの」

「名前がない?」

「名前も、家族も、誕生日も。全部、なくなっちゃった」

 少女は自分の手を見つめた。

「みんな、私のことを忘れちゃうの。最初は少しだけだった。お母さんが私の好きな食べ物を忘れて、お父さんが私の誕生日を忘れて……」

 彼女の声が、わずかに震えた。

「それから、私がいること自体を忘れちゃった」

 俺は何も言えなかった。

「この建物も、私の家だったの。でも、ある日、誰もいなくなった。私がここにいることを、誰も覚えていなくなった」

「……いつから?」

「分からない」

 少女は笑った。

 悲しそうな笑顔だった。

「時間も、少しずつ分からなくなっていくの」

 俺はポケットから図書館の本を取り出した。

「この本に、君が書いたのか?」

 少女は頷いた。

「わたしを、わすれないで」

「そう」

 彼女は、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

「誰かが読んでくれたんだね」

 その一言が、胸に刺さった。

 この少女は、誰かに助けてほしかったのだ。

 それだけだった。

 神に選ばれたいわけでも、世界を救いたいわけでもない。

 ただ、自分が存在していることを、誰かに覚えていてほしかった。

 俺は少女の前にしゃがみ込んだ。

「俺は、君を忘れない」

 少女の目が大きく開いた。

「……本当?」

「ああ。ただし、俺もまだ自分の能力がよく分かっていない。君を元どおりにできるかは、約束できない」

「ううん」

 少女は首を振った。

「それでも、いい」

 その瞬間。

 頭の中に、あの声が響いた。

『第二試験、達成』

『対象個体との接触を確認』

『第三試験への移行を開始します』

 俺は眉をひそめた。

「第三試験?」

 少女が顔を上げた。

「……聞こえたの?」

「何が?」

 彼女は答えなかった。

 代わりに、俺の手をそっと握った。

「ねえ。あなたに、一つだけお願いがあるの」

「何だ?」

「私を、助けてほしい」

 その声は、静かだった。

「でも、私を助けたら、あなたはきっと、たくさんの人に嫌われる」

「……どうして?」

 少女は俺を見つめた。

 その瞳の奥に、淡い光が揺れていた。

「だって、私がいなくなったら、この世界は終わっちゃうから」

 俺は息を呑んだ。

 その瞬間、地下室の壁一面に、黒い文字が浮かび上がった。

 ――対象個体:世界の初期設計者。

 ――存在抹消処理:最終段階。

 ――処理期限:本日、日没。

 そして、最後の一文。

 ――対象を保護する者は、世界の敵と認定される。

 俺は少女の手を握り返した。

「……なるほど」

 ようやく、神様の試験の意味が分かった。

 少女を見つけるだけではない。

 この世界が正しいと信じられている仕組みに従うのか。

 それとも、その仕組みそのものに逆らうのか。

 俺に選ばせようとしているのだ。

「ねえ」

 少女が尋ねた。

「あなたは、私を助けてくれる?」

 俺は笑った。

 この世界に来てから、何度も理不尽な目に遭った。

 職業がないと見下され、罪を着せられ、殺されかけた。

 それでも、まだ分からないことだらけだ。

 神様が何を考えているのか。

 この世界がどういう仕組みなのか。

 少女が何者なのか。

 何一つ、分かっていない。

 だが、一つだけ分かることがある。

 目の前の少女は、助けを求めている。

 それだけで、十分だった。

「助けるよ」

 俺は答えた。

「君が世界を終わらせる存在だとしても、君自身の話を聞くまでは、誰にも消させない」

 少女は、初めて泣いた。

 声を上げず、ただ静かに。

 まるで、泣くことさえ忘れかけていたかのように。

 そして、その涙が床に落ちた瞬間。

 世界中の鐘が鳴り始めた。

 王都の鐘楼。

 神殿の鐘。

 遠く離れた町の鐘。

 すべてが、同じ時刻に鳴っている。

 少女が顔を上げた。

「……始まっちゃった」

「何が?」

「私を消すための、最後の命令」

 地下室の壁に、巨大な文字が浮かんだ。

 ――緊急告知。

 ――王都に、世界を滅ぼす異端者が出現した。

 ――その名は、記録改変者。

 俺は思わず苦笑した。

「……仕事が早いな、神様」

 まだ何もしていない。

 ただ、一人の少女を助けると約束しただけだ。

 それなのに、俺はもう世界の敵らしい。

 少女が俺の手を握り締めた。

「ごめんなさい」

「謝らなくていい」

「でも、あなたの人生まで……」

「気にするな」

 俺は立ち上がった。

「どうせ、最初からまともな人生じゃなかったんだ」

 少女は泣きながら、少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、俺は思った。

 この世界の記録が、どれだけ正しいと主張しようとも。

 この少女が、どれだけ危険な存在だと書かれていようとも。

 それだけで、彼女を見捨てる理由にはならない。

 俺は地下室の出口へ向かった。

「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」

 振り返って尋ねる。

「君の名前は?」

 少女は困ったように笑った。

「忘れちゃった」

「そっか」

 俺は少し考えた。

「じゃあ、名前が見つかるまで、仮の名前をつけてもいいか?」

「うん」

「リゼ。どうだ?」

 少女は目を瞬かせた。

「リゼ……」

「ああ。嫌なら、別の名前を考えるけど」

「ううん」

 彼女は首を振った。

「好き。ありがとう」

 その瞬間、俺の視界の隅に、小さな文字が浮かんだ。

 ――未登録個体に仮称が付与されました。

 ――個体識別:リゼ。

 ――記録の完全削除に失敗。

 俺は足を止めた。

 失敗?

 神様の命令が、失敗したのか?

 リゼは、俺の手を握ったまま立ち上がった。

「行こう」

「どこへ?」

「あなたが、私を忘れない場所へ」

 その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。

 ただ、彼女の手の温かさだけは、確かに覚えていた。

 そして、俺はこのとき、まだ知らなかった。

 この少女こそが。

 いつか俺自身の存在を、世界から消すことになる人間だということを。

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