第2章 最弱職、最強の騎士を論破する
処刑が中止されてから、三十分後。
俺は牢屋にいた。
「……おかしくないか?」
鉄格子の向こうに向かって言った。
「処刑が中止されたんだぞ。普通、釈放だろ」
「普通の人間は、判決書を光らせたりしない」
返事をしたのは、向かいの壁にもたれている男だった。
年齢は四十代くらい。無精ひげに、くたびれた革鎧。手には木製のコップを持っている。
俺と同じ囚人らしい。
「それに、ここは王都の地下牢だ。処刑が中止された罪人は、原因が分かるまでここで保管される」
「保管って、荷物じゃないんだから」
「荷物なら、もっと丁寧に扱われるさ」
男は笑った。
どうやら、この世界にもブラック企業のような場所があるらしい。
いや、会社よりひどいかもしれない。
会社なら、少なくとも就業規則がある。
ここでは、神様の気分一つで人生が決まるのだ。
俺は壁に背中を預けた。
頭の中では、さっき起きたことが何度も繰り返されていた。
判決書に触れたわけでもない。
呪文を唱えたわけでもない。
ただ、矛盾に気づいただけだ。
俺がこの世界に来たのは春の五日目。判決書の発行日は春の三日目。
その矛盾が、あの文字を書き換えた。
ならば。
記録の矛盾を見つければ、ほかのことも変えられるのだろうか。
「おい、若いの」
「何です?」
「お前、職業鑑定は受けたか?」
「職業?」
「この世界じゃ、生まれたときか、成人したときに神殿で職業が決まる。剣士、魔術師、商人、騎士。職業によって、人生のほとんどが決まるんだ」
男は指を折った。
「騎士なら騎士団に入れる。魔術師なら魔術学院に入れる。商人なら商会に所属できる。職業に合った道を歩めば、神様が人生を保証してくれるってわけだ」
「ずいぶん便利ですね」
「便利だから、みんな信じている」
男はコップの中身を飲み干した。
「問題は、職業がない人間だ」
「……ない?」
「無職。神様から何の役割も与えられなかった人間。国の記録では、存在価値が低いとされる」
嫌な予感がした。
俺は自分の手を見た。
そういえば、異世界に来てから一度も自分の職業を確認していない。
というか、確認する余裕がなかった。
転移した直後に兵士に捕まり、気づけば処刑台の上だったのだ。
「俺の職業って、どうやって確認するんです?」
「神殿の鑑定石に触れるだけだ。まあ、こんなところに放り込まれたお前なら、だいたい想像はつくがな」
「無職?」
「たぶんな」
男は悪びれずに言った。
「気にするな。俺も無職だ」
仲間だった。
いや、喜んでいいのかは分からない。
「ところで、あなたは何をしたんです?」
「パンを盗んだ」
「……それだけ?」
「腹が減っていたんだ。だが、店主が俺を訴えた。店の記録には、俺が金貨を十枚盗んだと書かれていた」
「実際は?」
「パン一個だ」
男は肩をすくめた。
「この国では、記録のほうが人間より信用される」
その言葉は、妙に胸に引っかかった。
俺は会社員だった頃、何度も似たようなことを経験している。
実際に何をしたかより、誰が報告書を書いたか。
どれだけ努力したかより、評価シートに何と書かれたか。
現実を生きている人間より、書類のほうが偉い。
異世界に来ても、結局は同じらしい。
「……なあ、おじさん」
「ダリオだ」
「ダリオさん。記録を変えたら、現実も変わると思いますか?」
ダリオは笑うのをやめた。
「何だって?」
「例えば、盗んだ金額が十枚じゃなくて一枚だったと記録を書き換えたら、罪は軽くなるんですか?」
「理屈ではな」
「理屈では?」
「そんなことができる人間はいない。記録は神殿が管理している。王家ですら勝手には変えられない」
なるほど。
少なくとも、俺以外には。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
複数人。
規則正しい靴音。
兵士ではない。
もっと重く、もっと威圧的な足音だった。
鉄格子の前で足音が止まった。
「被告人を連れてこい」
女の声だった。
低く、よく通る声。
看守が慌てて鍵を取り出した。
「はっ、聖堂騎士団副団長、セラフィーナ様!」
鉄格子が開く。
そこに立っていたのは、銀色の髪を持つ女騎士だった。
年齢は二十代前半くらい。
白銀の甲冑には一切の傷がなく、腰の剣は装飾こそ控えめだが、柄に刻まれた魔法陣が淡く光っている。
美しい。
そう思ったのは事実だ。
ただし、目が笑っていない。
彼女は俺を見るなり、冷たく言い放った。
「あなたが、判決記録を改変した異邦人ね」
「改変したというか、勝手に光り始めたというか」
「言い訳は不要です」
「いや、説明を聞いてから判断してくれません?」
「あなたには、その権利がありません」
出た。
異世界版、問答無用。
セラフィーナは看守に命じた。
「彼を第一演武場へ」
「演武場?」
「あなたが本当に危険な存在なのか、私が直接確かめます」
彼女は剣の柄に手を置いた。
「もし神の記録に干渉する力を持つなら、ここで拘束する。抵抗するなら、斬ります」
俺はため息をついた。
どうやら、第二の人生も楽にはいかないらしい。
*
王都第一演武場。
そこは、東京ドームほどの広さを持つ石造りの闘技場だった。
観客席には騎士や兵士が集まり、中央の舞台を見下ろしている。
俺は簡素な服のまま、舞台の中央に立たされていた。
対するセラフィーナは、完全武装だった。
「勝負は一度です」
彼女が言う。
「私があなたを戦闘不能にすれば、拘束。あなたが私に有効打を与えれば、質問に答える機会を与えます」
「ちょっと待ってください」
「何です?」
「俺、剣なんて握ったことないんですけど」
「なら、すぐに終わります」
彼女は本気だった。
周囲から笑い声が上がる。
「無職が副団長に勝てるわけがない!」
「神に見放された人間だぞ!」
「さっさと終わらせろ!」
なるほど。
この世界では、職業がないというだけで、ここまで見下されるらしい。
俺は観客席を見渡した。
そして、セラフィーナの背後にある掲示板に目を留めた。
騎士団の規則が刻まれた石板だ。
その表面に、見覚えのある文字が浮かんでいた。
――聖堂騎士団演武規則、第七条。
――副団長以上の者が公開演武を行う場合、挑戦者には武器の選択権を認める。
俺は思わず笑った。
「セラフィーナさん」
「何です」
「一つ、確認していいですか?」
「手短に」
「この演武、公開演武ですよね?」
「そうです」
「騎士団の規則では、挑戦者に武器の選択権がある。違いますか?」
彼女の眉がわずかに動いた。
「……そのとおりです」
「じゃあ、武器を選ばせてもらいます」
俺は舞台の端に置かれた武器台を指さした。
「紙とペンをください」
一瞬、静寂が訪れた。
次の瞬間、観客席が爆笑に包まれた。
「紙だと?」
「何を書くつもりだ!」
「遺書でも書くのか!」
セラフィーナは笑わなかった。
彼女は俺をじっと見つめ、やがて看守に命じた。
「用意しなさい」
紙とペンが運ばれてくる。
俺は紙を受け取った。
そして、騎士団の規則が刻まれた石板を見た。
文字の奥に、もう一つの文章が透けている。
――公開演武における武器選択権は、挑戦者の生存を保証しない。
その下に、さらに小さな文字。
――ただし、双方が規則に従っている場合、審判は演武の中断を命じることができる。
見つけた。
俺は紙に一文を書いた。
――本演武は、騎士団演武規則第七条に基づき実施される。
それから、石板に記された規則と、紙の文章を見比べた。
足りない。
もう一つ、必要だ。
俺はセラフィーナに尋ねた。
「あなたは騎士団の規則を守りますか?」
「当然です」
「例外なく?」
「当然です」
「たとえ、相手が無職でも?」
彼女は一瞬だけ黙った。
「……規則に例外はありません」
「よかった」
俺は紙を掲げた。
「じゃあ、これを記録に認めさせます」
頭の中に、あの無機質な声が響いた。
『記録への干渉を検知しました』
『改変対象を指定してください』
俺は心の中で答えた。
騎士団演武規則。
『対象を確認』
『改変には根拠となる証拠が必要です』
当然だろう。
何でも書けば通るわけではないらしい。
俺は石板を指さした。
「証拠なら、そこにあります」
観客席がざわめく。
俺は続けた。
「規則第七条。挑戦者には武器の選択権がある。そして、審判は規則違反を認めた場合、演武を中断できる」
セラフィーナが目を細めた。
「それが、どうしたというのです?」
「俺は今、紙とペンを武器として選びました」
「……は?」
「あなたはそれを認めた。つまり、あなた自身が、俺の武器選択を有効と判断したわけです」
俺は紙を見下ろした。
「だから、俺の武器はこの紙です」
頭の中で、声が響いた。
『改変案を審査します』
『既存規則との矛盾を検出』
『裁定者の承認を確認』
『限定的な記録改変を許可します』
紙が淡く光った。
俺は最後の一文を書き加えた。
――本演武において、挑戦者の武器は、騎士団規則そのものとする。
次の瞬間。
演武場に、鐘の音が鳴り響いた。
――規則違反を検出。
――演武を中断します。
セラフィーナの剣が、彼女の手の中で止まった。
正確には、剣を振り下ろそうとした瞬間、空中に透明な壁が現れたのだ。
彼女の動きが封じられている。
「何を……!」
観客席が騒然となった。
俺は紙を持ち上げた。
「あなた、俺を戦闘不能にするって言いましたよね」
「それが何だというのです!」
「でも、演武は中断された。規則に従うなら、ここで攻撃を続けることはできない」
俺は笑った。
「つまり、俺の勝ちじゃないですか?」
沈黙。
セラフィーナの顔が、初めて大きく変わった。
驚き。
困惑。
そして、ほんのわずかな怒り。
「……あなたは」
「はい?」
「卑怯者ですね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めていません!」
彼女の声が演武場に響き渡った。
俺は肩をすくめた。
勝った。
だが、完全な勝利ではない。
紙に書いた文字は、すでに薄くなり始めていた。
どうやら、この改変は長く続かないらしい。
そして、頭の奥に鈍い痛みが走った。
「っ……!」
視界が揺れる。
膝が崩れそうになった。
紙に書かれた文字が、一つだけ消えていた。
――俺の名前。
この世界に来てから、誰かに名前を呼ばれた記憶がある。
だが、その名前が、思い出せない。
俺は自分の手を握り締めた。
そんな馬鹿な。
名前くらい、忘れるはずがない。
なのに。
頭の中には、空白しかなかった。
セラフィーナが俺を見つめていた。
「……あなた、何を失ったのです?」
俺は答えられなかった。
自分でも分からなかったからだ。
ただ一つ、確かなことがあった。
この力には、代償がある。
記録を書き換えるたびに、何かが失われる。
その何かが何なのか。
そして、どこまで失われるのか。
今はまだ、分からない。
*
演武場の出口で、セラフィーナが俺を呼び止めた。
「待ちなさい」
「今度は何です?」
「あなたの力について、話を聞きたい」
「さっきまで、俺を斬る気満々だったじゃないですか」
「必要なら、今でも斬ります」
「物騒だなあ」
「ただし」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
「あなたの力が本物なら、王都にとって重大な問題です。私の監督下に置きます」
「それって、要するに監視ですよね?」
「保護です」
「監視ですよね?」
「……両方です」
正直な人だ。
俺はため息をついた。
「分かりました。ただし、条件があります」
「条件?」
「俺を無職扱いしないこと。それから、俺が調べたいことを調べさせてください」
「何を調べるつもりですか?」
俺は王城の塔を見上げた。
あそこにいた人影は、もう見えなかった。
「この世界の記録です」
セラフィーナの表情が、わずかに硬くなった。
「……その言葉を、二度と軽々しく口にしないことです」
「どうして?」
「記録は神聖なものだからです」
彼女は静かに告げた。
「この世界では、記録を疑うことは、神を疑うことと同じなのです」
そのとき。
演武場の鐘が、再び鳴った。
俺の目の前に、誰にも見えない文字が浮かんだ。
――第一試験:生存。
――達成。
――第二試験を開始します。
その下に、さらに一文。
――次の課題:王都に存在しない少女を見つけよ。
俺は顔をしかめた。
「……存在しない少女?」
セラフィーナが振り返る。
「何か言いましたか?」
「いや。何でもないです」
俺は文字を見つめた。
存在しない人間を見つけろ。
無茶振りにもほどがある。
だが。
俺は、ほんの少しだけ笑った。
ようやく、この世界でやるべきことが見えてきた気がしたからだ。
まずは、神様の不正を暴く。
それから、俺の人生を取り戻す。
そして、可能なら。
この世界の連中にも教えてやる。
記録に書かれていることが、必ずしも真実とは限らない。
人間は、書類のために生きているわけじゃないのだから。




