第54話
自分たちが切り拓いてきた道は、もう決して途切れることはない。遠ざかっていく二台目の馬車が残した轍を見つめながら、ルーカスは確かな手応えを胸の奥に深く刻み込んだ。
レオンとカイの乗る二台目の馬車が、沿道からの歓声と波打つ拍手に包まれながら、やがて視界の向こうへと小さく溶けて消えていく。その残像をしっかりと見届けてから、ルーカスとトビーはゆっくりと自分たちの馬車へと向き直った。
見慣れた、使い込まれた木製の馬車。だが、その佇まいは一年前のそれとは似ても似つかない。ドワーフのガルドが炉の炎で鍛え上げた頑丈な鉄パーツが車軸を補強し、コモレビ村の職人が手作業で編み上げた防水の幌が風を弾き、港町シーガルの荒い潮風を耐え抜いた硬質なフレームが微かに鈍い光を放っている。数々の旅と試練をともにくぐり抜けてきた車体の傷一つひとつが、誇り高い勲章のようにそのボディを彩っていた。
「よし……俺たちも行くか、トビー」
ルーカスが低く、しかしよく通る声で告げると、トビーは一点の迷いもなく
「はいっ!」
力強く頷いた。
トビーは一度、自分の両手のひらをじっと見つめた。かつては孤児院の薄暗い隅で、おどおどと指先を縮こまらせ、「ノロマ」「役立たず」と浴びせられた言葉に肩を震わせていたあの手。しかし、今のその手のひらには、泥とインクの染みが深く染み込み、幾重もの荷縄をしごき、職人たちの命である精密パーツやガラスの薬瓶をただの一度も落とすことなく大切に積み込んできた、商人としての確かな「タコ」と誇りが刻まれていた。
トビーは軽やかな身のこなしで馬車のステップに足をかけ、ドンと床板を踏み鳴らして飛び乗った。
かつての定位置は、御者台の片隅で身体を小さく丸め、ルーカスの背中にすっぽりと隠れるようにして座る「助手の席」だった。言われた指示を書き留め、ルーカスの横顔の隙間から前方の様子を伺うだけの場所。
だが、今のトビーに怯えの迷いはない。
ルーカスのすぐ隣。手綱を握るその肩と寸分違わぬ高さを共有し、広い街道の先へと伸びる水平線を同じ目線ですべて見渡すことができる場所――そこは正しく「相棒の席」だった。
ドスンと重みをもって腰を下ろし、ピンと背筋を伸ばす。背中に当たる幌のざらついた感触、引かれた手綱を伝って伝わる馬の脈打つ体温と鼻息、そして隣に座るルーカスの肌を温めるような圧倒的な存在感。
トビーがしっかりと隣に収まったのを横目で確かめ、ルーカスはふっと口元に緩やかな笑みを浮かべた。そこにあったのは、頼りない少年を文字通り庇い守っていた「保護者」の顔ではない。過酷な未知の街道へと共に踏み出す、たった一人の対等なビジネスパートナーを迎えた男の、気負いのない、しかし勝気な誇らしさだった。
「収まりがいいな」
「え?」
「いや……様になったと思ってな。相棒」
ルーカスの何気ない、しかし深く染み入るような言葉に、トビーの胸の奥が一気に熱く跳ね上がる。トビーは急にこみ上げてきた照れくささを隠すように、胸元に新調された革のカバーをそっと触れ、それから前方の道へ向かって深く、力強く頷いてみせた。
誰かの背中を追いかけ、怯えながら走る季節は終わった。これからは、同じ風を真正面から受け止め、同じ景色を見つめ合い、互いの足りない部分を補いながら、二人だけの新しい道を幾重にも切り拓いていくのだ。
昇りきった朝陽が、迷宮都市ヴァルハイトの巨大な街道の石畳を眩い黄金色の光で満たしていく。相棒の席に真っ直ぐに座るトビーの横顔に、かつての怯えや迷いの影は微塵もなかった。そこに映っていたのは、広大に広がる世界へと今まさに踏み出していく一人の商人の、凛とした覚悟と希望に満ちた輝きだけだった。
御者台の「相棒の席」に腰を下ろしたトビーは、胸元に手を差し入れ、静かにその指先を滑らせた。
指に触れたのは、ルーカスから手渡されたあの小さな革のメモカバーだった。幾度もの旅の中で風雨に晒され、手の油を吸い込みながら、今やしっとりと深い琥珀色に色づいた革の肌触りが、トビーの掌へ確かな安心感を伝えてくる。
トビーは愛おしそうにそれを取り出すと、冷えた朝の空気の中でひざの上へと丁寧に開いた。
差し込む朝陽が、古びた羊皮紙のページを黄金色のベールで包み込む。そこに広がっていたのは、トビーが歩んできた足跡そのものだった。文字を満足に書けず、悔し涙でインクをにじませていたかつての少年が、生きるために絞り出した独自の「記号」の数々。ドワーフのガルドの工房を示す『金槌』、コモレビ村の青々とした生薬草を示す『双葉』、急ぎの荷を意味する『羽』、そして人々とのやり取りを刻んだ無数の丸や波線――。不器用ではあるが、一筆一筆に命が宿ったようなその記号たちが、ページの上で誇らしく躍っている。
そして、その最新のページ。数日前に交わした【共同経営者契約】の写しと、新ルートの最初の配送計画が記された余白。トビーの瞳が、ふとその一角に引き寄せられた。
そこには、ルーカスの流麗で整った綺麗な文字で『港湾都市シーガル経由・新領地行き』という目的地の文字が走り、そのすぐ隣に、トビーの手によって引かれた『錨』と『重なる二本の車輪』の記号が、まったく同じインクの濃さで、力強く並んで刻まれていた。
ルーカスの文字と、トビーの記号。
かつては「文字の読めない劣等感」と「完璧な商人の背中」という、決して越えられない壁のように感じられたふたつの筆跡。だが今、このメモ帳の紙面の上で、文字と記号は何の隔たりもなく、ただ完璧な調和をもって寄り添っていた。言葉にしなくても、それが二人の間に結ばれた「対等な絆」の証明であることは一目瞭然だった。
「……ふふっ」
トビーの喉の奥から、自然と小さな笑い声が零れ落ちる。
「どうしたんだ、トビー」
前方の街道を見据えながら手綱を軽く握り直したルーカスが、ふと横に視線を走らせて声をかけてきた。
「ううん、なんでもないです!」
トビーは首を横に振ると、愛おしそうにメモ帳を一度だけ両手でキュッと包み込んだ。この革のカバーの中に詰まっているのは、ただの記録ではない。自分とルーカスが泥にまみれ、迷いながらも積み上げてきた『記憶』と『信頼』のすべてだ。この重みがある限り、未知のどんな険しい道が待ち受けていようとも、自分は決して道に迷うことはない。
トビーは特注の木製ペンをホルダーへしっかりと差し込み、パタンと革の表紙を閉じた。




