第53話
「み、みなさんっ……!今日は、僕たちの見送りに来てくれて……ほんっとうに、ありがとうございます!」
トビーの声が、朝の静かな街道口にどこまでも伸びやかに響き渡った。
「僕、最初は文字も全然書けなくて……計算も遅くて、孤児院でもノロマだって言われて……自分には何もない、ダメな人間だと思ってました。でも……ルーカスさんと出会って、街の職人さんや村のみんなと出会って……『トビー、助かったよ』って言ってもらえるたび、僕……生きてて初めて、自分の手とこの頭が誰かの役に立ったんだって……すごく、嬉しかったんです……!」
胸の奥の澱みが溶け出し、言葉に熱を帯びた力がこもっていく。
「僕たちが運んでいるのは、ただの鉄のパーツや乾いた薬草じゃありません!ガルドさんが汗を流して叩いた道具や、村のみんなが命がけで繋いだ暮らしの……そこに込められた『想い』です!だから、どんな遠い街に行っても、絶対にお預かりした荷物を傷つけず、完璧に届けます!それが……ルーカスさんと僕の、商人の仕事だからですっ!!」
そこまでは、完璧だった。群衆の誰もが息を呑み、その真摯な響きに聞き惚れるほどに見事な挨拶だった。
しかし。高鳴る胸の熱さに感極まったトビーの大きな目から、大粒の涙がドッと溢れ出し、あろうことか鼻の奥がツンと音を立てて詰まった。
「ふびっ……!だから……み、みなさんっ、いってぎます!!あ……あでで?噛んだ……『いってきます』じゃなくて……いってきまひゅ!!……ううっ、噛んじゃったぁぁっ!!」
せっかくの気高い決意の着地点で盛大に舌を噛み、慌てて袖口で鼻を覆いながら顔を真っ赤にしてパニックを起こすトビー。張り詰めていた早朝の空気が一瞬でほどけ、広場に奇妙な静けさが落ちた。
次の瞬間――
「「「がはははははははっ……!!」」」
たまらずといった様子で、周囲から爆発的な大笑いが巻き起こった。
「おいおいトビー!最後の最後で盛大に噛むんじゃねぇよ!」
「カッコつかねぇなぁ、トビーちゃん!だが、最高にいい顔だぜ!」
「いってらっしゃーい!気をつけてね、トビー兄ちゃん!」
ガルドが腹を抱えて豪快に笑い、セシルが爆笑しながらトビーの肩をガシガシと乱暴に叩く。村人たちも、孤児院の子供たちも、誰もが目尻に涙を浮かべながら、たまらんとばかりに温かい拍手と歓声を浴びせかけた。
カッコつけきれぬ幼さと、隠しきれない照れくささ。だが、その未熟な言葉の端々に滲み出る熱意と誠実さは、その場にいたすべての者の胸に、どんな流暢な演説よりも深く、確かな温度を持って刻み込まれていた。
「ふふ、お前らしいな、トビー」
隣でその小さな背中を見守っていたルーカスも、こらえきれずに小さく吹き出しながら、愛おしそうにトビーのボサボサの頭を力強く撫で回した。
トビーは顔を真っ赤に染め上げながらも、手の甲で必死に涙を拭い、照れくさそうに、しかしこの上なく晴れやかな笑顔を弾けさせる。
車輪が音を立てて回り出し、新しい旅の空気が動き出す。トビーたちの乗った馬車は、たくさんの温もりを背中に受けながら、まっすぐに新しい朝へと走り出した。
トビーの愛おしくも温かい挨拶と、広場を揺らした爆笑の余韻がまだ朝の冷気の中に漂う中、街道口の手前で静かに控えていたもう一台の馬車が、音もなく前へと滑り出してきた。
レオンとカイの乗る「第二商隊」の馬車だ。
二週間前の泥まみれだった消耗が嘘のように、車体は細部まで磨き上げられ、車軸に塗り直されたばかりの新しい油が朝陽を受けて鈍く光っている。荷台には、今朝早くから二人が手分けして集荷した、ヴァルハイトの職人たちの手によるコモレビ村・レム村行きの第一便が、美しく積載されていた。
カイが御者台の上で革の手綱をギュッと握り締め、その隣でレオンが真新しい帳簿を膝の上に広げている。
「よしっ!ルーカスさん、兄貴!俺たち、一足先に『第一便』の配送に出発するぜ!」
カイがよく通る声を張り上げると、レオンは銀縁の丸眼鏡を指先でクイと押し上げ、どこか誇らしげな笑みを頬に浮かべた。
「ヴァルハイト市内の集配、およびコモレビ村、レム村、そしてシーガルへの定期循環ルートの運行スケジュールはすでに完璧に算出してあります。僕とカイがいれば、この街の物流が滞ることはありません。ルーカスさんたちは、心置きなく新しい領地への新ルートを開拓してきてください」
初対面の頃に漂っていた、触れれば切れそうなトゲトゲしい空気は微塵もない。理屈ばかりが先走っていた知識人と、直感だけで動いていた野性児。泥沼という極限の試練を身体ごとぶつかり合って乗り越えた二人は、いまや互いの輪郭を補い合う最高のパートナーとして、堂々と御者台に並んでいた。
「頼んだぞ、レオン、カイ。この街の『循環』はお前たちに預けた」
ルーカスが力強く頷き、二人の瞳をまっすぐに見据える。トビーも馬車の脇へ駆け寄り、カイの腰元を指さした。
「カイ!メモ帳、ちゃんと持ってる?」
カイはニシシと白い歯を剥き出しにして笑い、自分の胸ポケットをポンと軽く叩いた。そこには、トビーから受け継いだ、幾重もの折り目とインクの染みが染み込んだあのメモ帳が、しっかりと収まっている。
「忘れるわけねぇだろ!このメモ帳とメガネの小言があれば、俺たちの荷積みは無敵だ。職人さんたちの想い、いっちばん丁寧なやり方で届けてくるよ!」
「うん!気をつけていってらっしゃい、ふたりとも!」
カイが手綱を大きく振ると、乾いた破裂音が朝の静けさを切り裂き、馬が力強く前へ踏み出した。ガラガラと重い車輪が石畳を噛み、第二商隊の馬車がコモレビ村へと続く長い街道へ向かって走り出す。
沿道に集まっていた職人や村人たちから野太い声が飛ぶ
「頼んだぞ、若造ども!」
「荷物を濡らすなよ!」
「任せとけって!」
カイがと大きく手を振り返した。レオンも少しだけ照れくさそうな顔を隠すように、しかし毅然とした仕草で帽子に手を当てて一礼してみせる。
その頼もしい背中を見送りながら、ルーカスは胸の奥の深い場所がじんわりと熱くなるのを感じていた。
かつて、たった一人で手押し車を引き、泥にまみれながら裏路地を這うように歩いていたしがない行商。それがトビーという相棒を得て循環の道となり、いまやレオンとカイという新しい世代の手によって、自分がこの街を留守にしても自走し続ける「本物のインフラ」として根付いている。




