第52話
ルーカスはトビーの両肩をがっしりと掴み、目線を合わせるようにその場で片膝をついた。まっすぐな視線が、逃げ出そうとするトビーの瞳をしっかりと捉えて離さない。
「自分に自信が持てないなら、それでいい。だがな、お前をここまで信じて、お前の記憶力と丁寧な手に救われてきた俺を信じろ。お前が転びそうになったら俺が支える。俺が道を間違えそうになったらお前が『ルーカスさん、そっちは違う!こっちです!』って教えろ。……それが『相棒』ってやつだろ?」
「ルーカス……さん……」
「お前の手はな、ただの荷物を運ぶ手じゃない。人の想いを繋ぐ手だ。俺は、世界で一番信頼できる商人と組みたいんだよ。……トビー、お前の返事はどうだ?」
ルーカスが懐から取り出し、差し出したのは一本の特注ペンだった。あのとき、小さな手が初めて自分の道具を持った日の思い出のペンが、朝の光を受けて鈍く光る。
トビーの胸のなかで、恐怖の冷たさがドロリとした熱い塊へと変わっていった。自分を信じてくれた人。居場所をくれた人。その大隣に立ちたいという焦がれるような想いが、胸の奥の震えを焼き払っていく。
トビーはあふれる涙を袖口で乱暴に拭い、差し出されたペンを両手でしっかりと、指が白くなるほど強く握りしめた。
「はい……っ!僕、ルーカスさんと一緒に走りたいです……!失敗しても絶対に投げ出さないで、二人でどこまでも行きたいです……!」
「よし、いい返事だ」
羊皮紙に向かい、幼さの残るが力強い筆跡で、トビーは自分の名前を書き込んだ。その文字のすぐ横に、ルーカスが力強く自身のサインを重ねる。
静かな事務所の中で、一枚の契約書が完成する。主従でも師弟でもなく、互いの命と未来を預け合う「対等な相棒」が、確かな体温を持ってここに生まれた。
数日後の早朝。薄桃色の朝焼けが、迷宮都市ヴァルハイトの巨大な石畳の街道を柔らかく染め上げていく。
「循環ルート配送事業」の新たなる挑戦――未知の領地や街道への新ルート開拓へ向けて、ルーカスとトビーの乗る馬車が出発の準備を整えていた。
普段なら静まり返っているはずの早朝の南門前は、まるで祭りでも始まるかのような異様な熱気に包まれていた。二人を見送るために、この街の職人、商人、村人たちが続々と集まってきていたのだ。
「おいおいルーカス!馬車の軸受けはちゃんと油を差したろうな!?道中で焼き付きでも起こしてみろ、俺の作ったパーツの面に泥を塗ることになるんだからな!」
野太い声を張り上げながら人ごみを押し分けて現れたのは、ドワーフの鍛冶職人ガルドだった。口では相変わらず粗野な文句を叩いているが、そのゴツゴツとした両手には、特注の予備車輪用金具と、遠出用の頑丈な研磨油の樽がしっかりと抱えられている。
「ガルドさん、出発前に三度も点検しましたよ」
ルーカスが苦笑しながら応えると、ガルドはフンと鼻を鳴らし、荷台の隙間にドスンと重い油樽を押し込んだ。
「遠くの村へ行こうがどこへ行こうが、俺の道具の手入れは忘れるな。……あと、トビーを死ぬ気で守れ。何かあったらこのガルドがただじゃおかねぇからな!」
「わかってますよ。ガルドさんの新しいノギスも、道中でしっかり宣伝してきますから」
ガルドの背後からは、遠くコモレビ村から駆けつけた村長とおばあちゃんの姿もあった。おばあちゃんは、朝露の残る特製の乾燥薬草と自分で焼いた固いパンが詰まった重い籠を、トビーの手にそっと持たせる。
「トビーちゃん、これ持っていきなさい。遠くの街へ行くんだってねぇ、ちゃんと身体に気を付けて、ご飯を食べるんだよ。あんたたちが届けてくれた日用品や新しい針のおかげで、村の暮らしは本当に温かくなったんだからね……」
「おばあちゃん、ありがとうございます!大切に食べます!」
さらに街道の脇には、長剣を腰に下げたセシル率いる冒険者の一団が、それぞれの武器に触れながら壁にもたれていた。
「ルーカスさん、トビー!万が一にもバロンの残党みたいなゴロツキが道中で出てきたら、遠慮なくギルド経由で指名依頼を出せよ。俺達が街道の果てまでひとっ飛びで駆けつけて、後悔させてやるから」
「セシルさん、心強いですけど相変わらず物騒な言い方ですね……」
トビーが乾いた笑いを浮かべると、その周囲には孤児院の幼い子供たちが群がり。
「トビー兄ちゃん!」
「遠くに行かないで!」
「お土産忘れないで!」
服の裾を引っぱった。かつては孤児院の片隅で言葉を呑み込み、自分の居場所をなくしていた少年を、いまや誰もが頼もしい眼差しで見上げている。
職人の誇り、村人たちの暮らし、冒険者たちの刃、子供たちの憧れ。彼らがこの朝早くに集まっているのは、単なる「荷物を運ぶ業者」を見送るためではない。自分たちの日常を支え、未来への回路を切り拓いてくれた「血の通った仲間」を送り出すためだった。
朝陽が差し込む街道の真ん中で、野太い怒鳴り声と鈴のような子供たちの笑い声が交錯する。かつて裏路地で手押し車を細々と押していた行商人と、自信を失っていた孤児の少年が、泥臭く、しかし真っ直ぐに積み上げてきた「確かな信頼」が、迷宮都市の南門を大きな熱気で満たしていた。
大勢の人々に取り囲まれ、温かい声援と歓声が波のように打ち寄せる南門前の広場。その中央で、ルーカスがトビーの背中をポンと優しく叩き、あごをしゃくって群衆を示した。
「ほらトビー。お前から、みんなに一言挨拶してこい」
「えっ……ぼ、僕がですか!?」
突然の指名にトビーは目を見張り、一瞬だけ呼吸を止めた。集まった頑固な職人たち、村から駆けつけた人々、物騒な笑みを浮かべる冒険者、そして孤児院の小さな弟や妹たち――数十人もの熱を帯びた視線が一斉に自分へ集まるのを感じて、乾いた喉の奥がキュッと引き締まる。かつての自分なら、間違いなく恐怖で足がすくみ、ルーカスの背中にしがみついて震えていたはずの場面だった。
だが、胸のポケットに収められた新調の革カバーと、そこに挟まれたボロボロのメモ帳の確かな感触が、トビーの背筋をまっすぐに支えていた。
トビーは一度、朝の冷えた空気を深く肺の腑まで吸い込む。そして、ルーカスから最初に叩き込まれた教えを思い返した。
――『挨拶と、相手の目を見ること』。
トビーは顔を上げ、集まった一人ひとりの瞳を真っ直ぐに見据えた。腕を組んで不愛想に顎を引くガルドの目、目尻をシワだらけにして優しく微笑むおばあちゃんの目、面白がるように片眉を上げるセシルの目、自分を憧れの眼差しで見上げる子供たちの目。




