第51話
「うん。カイにあげたいんだ」
トビーは揺るぎない力強さを込めて頷いた。
「僕も最初は、文字なんて全然書けなくてさ。ルーカスさんの言う数字のスピードにもついていけなくて、インクをこぼしてばかりだったんだ。『ノロマ』だって言われるのが怖くて、僕なんか何をやってもダメなんだって、喉の奥がずっと詰まったみたいになってさ」
トビーはその時を思い出すように一度視線を外し、それからまっすぐにカイの目を捉えた。
「でもね、ルーカスさんが教えてくれたんだ。『書き方なんて自分で作ればいい』って。僕のやり方を信じてくれたんだよ。……今回の街道で、カイがレオンと一緒に現場の工夫で荷物を守り切ったって聞いた時、すごく嬉しかった。カイはもう、立派な商人だよ」
トビーはカイの強張った手を取り、その手のひらの上にずっしりと重みのあるメモ帳を載せた。革と紙の擦れる乾いた匂いが、朝の冷気の中にふわりと広がる。
「だから、今度はカイがこれを使って。……大丈夫、最初は上手くいかなくても、失敗しても絶対に大丈夫だから。僕も、ルーカスさんも、レオンさんも……みんながついているからね」
ほんの少しだけ胸を張り、先輩風を吹かせるようにフフンと唇を尖らせるトビー。かつて自信なさげに肩を小さくすぼめていた孤児の少年はそこにはなく、背中を預けられる「先輩商人」の顔がしっかりと刻まれていた。
カイは受け取ったメモ帳の質感を確かめるように、指先で荒れた表紙をなぞる。恐る恐る開いたページには、トビーが描き殴った「金槌」「双葉」「羽」といった独自の記号が、びっしりと並んでいた。そのインクの滲み一つひとつに、ルーカスとトビーが踏みしめてきた泥と汗の歴史が焼き付いている。
「兄貴……っ!」
カイの大きな目に溜まっていた熱が溢れ出し、ポロポロと雫が落ちて、泥まみれの頬に白い筋を描いていく。カイは慌てたように袖口でガシガシと乱暴に目を擦り、それからメモ帳を自分の胸元へ強く引き寄せた。
「っ……ありがとう!俺、絶対大事にする!このメモ帳で、兄貴みたいにみんなの想いを運べる凄い商人になってみせるからさ!」
「うん!期待してるよ、カイ!」
昇り切った朝陽が、照れくさそうに笑い合う二人の若者の影を長く引き延ばしていく。不器用で、泥に塗れ、傷つきながら繋いできた手から手へ。街道を駆け抜けた記憶と、荷物を届ける誇りが、確かな体温を持って次の世代へと受け継がれていった。
朝の静けさが消えた事務所。窓の隙間から差し込む光が、頑丈な木製デスクの木目を温かく照らしている。
外では、レオンの鋭い声とカイの負けじと張り上げる声が重なっていた。
「おい、その積載じゃ軸がブレるぞ!」
「うるせぇメガネ、俺を信じろよ!」
賑やかな荷降ろしの気配を遠くに聞きながら、ルーカスはデスクに向かい、一筋の上質な羊皮紙に丁寧にインクを走らせていた。
「トビー、ちょっとこっちへ来い」
「はいっ」
荷物の片付けに動いていたトビーが素直に頷き、床を踏み鳴らして歩み寄ってくる。ルーカスは書き終えたばかりの羊皮紙を持ち上げ、インクを乾かすように軽く煽ると、トビーの目の前にそっと広げた。
そこに並んでいたのは、流麗なインクの文字。そして一番下の署名欄の上に記された一文だった。
【商業ギルド認定循環ルート配送事業:共同経営者】
代表:ルーカス
代表:トビー
「……え?」
トビーの瞳がみるみるうちに丸くなる。震える指先で「共同経営者」という文字を幾度もなぞり、その真横に添えられた自分の名前を凝視した。呼吸が止まり、頭のなかが真っ白に染まっていくのがわかる。
「ルーカスさん……これ、なんですか……?共同経営者って……僕が……?」
「文字通りの意味だよ」
ルーカスは羽ペンをインク壺のへりに置き、椅子に深く背中を預けながら、柔らかく目を細めた。
「レオンとカイが第二商隊を任せられるまでに育った。この街の物流は、もう俺ひとりじゃ回らない。そして何より……俺とお前が一から作ってきたこの『循環ルート』を、次の街や領地へ広げていく時期が来たんだ。俺は、お前を単なる『助手』や『弟子』として連れて行くつもりはない。対等な相棒……共同経営者として、俺と一緒に背負ってほしい」
言葉が、トビーの胸のなかに重く、熱く沈み込んでいく。嬉しいはずだった。喉の奥がキュッと締め付けられるような、夢にまで見た言葉だった。だが、それと同時に波のように押し寄せてきたのは、かつて孤児院の薄暗い隅でずっと自分を縛りつけていた冷たい恐怖だった。
「む、無理です……っ!僕なんかじゃ、絶対に無理ですよ……!」
トビーの声がかすかに上擦り、思わず一歩、足が後ろへ退がる。両手を固く握りしめ、胸の底から湧き上がる気まずさと恐れを振り払うように首を激しく振った。
「僕は、まだ子供です……!文字だってやっと人並みに書けるようになったばかりで、レオンさんみたいに完璧な計算もできない。もし僕が判断を間違えて、大事な荷物を無くしたり、職人さんたちや村のみんなに大損害を出させちゃったら……どうするんですか!?共同経営者なんて、そんな重い責任、僕には背負いきれません……っ!」
溢れ出した涙が、トビーの大きな目からポロポロとこぼれ落ち、埃の混じった頬に白い筋を描いていく。成長したとはいえ、彼はまだ十代の半ばにも届かない少年だ。これまでルーカスという揺るぎない背中の後ろにいたからこそ走ってこられた。その看板を「半分背負え」と言われた途端、足元が崩れ落ちるようなめまいがした。
「失敗したらどうするんだ、って……?」
静かな、しかし少しも揺るぎない声だった。ルーカスは椅子からゆっくりと立ち上がると、デスクの端を回ってトビーの目の前へと歩み寄った。そして――
ぽこんっ。
「痛っ……!?」
トビーが片手で額を押さえ、目を丸くして見上げる。ルーカスは、手加減のないげんこつをトビーの頭に落としていた。
「バカ野郎」
ルーカスは厳しく、だがこの上なく温かい光を宿した瞳でトビーを見下ろし、ボサボサの頭をガシガシと乱暴に撫で回した。
「失敗しない人間なんて、この世に一人もいねぇよ。俺だってな、お前と出会う前は何度も仕入れで騙され、泥水をすすり、夜の路地裏で一人頭を抱えてたんだ」
「ルーカスさんが……?」
「そうだ。一人で背負うから重すぎるんだ。だから人は、一人で抱えきれねぇ責任を背負うために『二人』になるんだろ」




