第50話
朝靄の薄いヴェールが剥がれ、日が照らす迷宮都市ヴァルハイトの南門。敷き詰められた石畳の隙間から、冷えた朝の匂いが消えた時刻。遠くの街道の先から、激しい車輪の回転が二重の地響きとなって響いてきた。
「おい、見ろよ!ルーカスとトビーの馬車だ……いや、今日は二台だぞ!?」
「第二商隊が無事に帰ってきたんだ!おい、道を開けろいつも通り飛び込んでくるぞ」
格子門の脇に溜まっていた門番や荷物の検分を待つ商人たちが、それぞれに声を弾ませる。その喧騒を割るように、二台の馬車が力強く石畳を噛み鳴らしながら、並び立つ形で南門をくぐり抜けた。先頭を行くのは、港町シーガルでの緊急配送を終えたルーカスとトビーの御者台。そしてそのすぐ後ろ、車間を保ってピタリと追従していたのが、レム村経由の過酷な泥道を抜けてきたレオンとカイの二台目の馬車、朝露草を積んで目指すは錬金術師ギルド。
二台目の荷台や車輪のスポークには、山道の赤泥と鍛冶工房特有の煤が幾重にもこびりつき、乾燥して白くひび割れている。道中の尋常ではない消耗を無言で物語るその車体の上で、御者台の二人の肩は、馬車を疾走させる緊張感とこれまでの疲れで、強張りわずかに落ちていた。
「おい、朝露草持ってきたぞ!」
錬金術ギルドの前に二台の馬車が滑り込み、ルーカスが声を張る
若い錬金術師や職員が中から飛び出し、荷台から早朝に採取され魔力のたっぷり残った、朝露草が次々と運び出される。中からヴァルターの怒鳴り声が聞こえる。
「すぐに処理を開始しろ!時間との勝負だぞ!荷受なんぞ後回しだ!お前らも待ってないで、取りに行け!」
無事に荷受けを終わらせて、広場の端に二台の馬車が並んで停止する。カイが弾かれたように御者台から飛び降り、カサカサに乾いた泥のついた手のひらで、自分の鼻の下を乱暴にこすった。
「ヘッ!無事にヴァルハイトまで帰ってきたぞー!」
一足遅れて馬車から降りたレオンは、指先で銀縁の丸眼鏡のブリッジを押し上げる。
「コモレビ村への定期便、およびレム村経由での仕入れ、シーガルでの合流、そしてこのヴァルハイトへの帰還まで……すべて予定通り完了しました。途中の悪路で計算外の遅延は生じましたが、荷物は一箱たりとも濡らさず、破損なしです。我々『第二商隊』の初陣としては、完璧な成果と言えます」
言葉遣いこそ相変わらず気取った私塾出の知識人そのものだったが、きれいに整えられていたはずの前髪の先には、乾いた赤泥の粒が固まっている。かつて都市の上流階級を思わせた上質な上着はあちこちが裂け、袖口は無様にまくり上げられていた。
その横で、カイが白い歯を剥き出しにして笑う。
「ヘッ、気取るなよメガネ!『計算通り』なんて言ってるけどよ、コモレビに向かう途中の泥沼にハマった時は『もうダメだ、僕の人生がここで終わる』とか言って半泣きで泥に飛び込んでただろうが!」「は、半泣きなどしていない!僕はただ、現場の状況に合わせて最適な方法を試みただけだ!泥に塗れたのは不可抗力であり、君のガサツな誘導のせいでもある!」
「あんだと!?誰のおかげで荷崩れせずにあの難所を抜け出せたと思ってんだ!俺の指示通りに荷物を組み直さなきゃ、今頃お前の自慢の高級上着と一緒に精密パーツも木っ端微塵だったろ!」
「くっ……それは、まあ……君の荷積みにおける重心移動の直感と、現場での機転だけは……少々評価してやらんでもないが……」
言い返しつつも、レオンは微かに視線を宙に泳がせ、胸のポケットから小さく折りたたまれたものを取り出した。それは、泥水を被って台無しになり、レオンが野営の夜に自らの手で丁寧に洗い流して乾かしたカイの作業用の布切れだった。それを無言で、しかし雑にカイの胸元へと突き返す。
「ほら、返しておく。泥だらけにしてすまなかった」
「……ふん。分かればいいんだよ、メガネ」
カイはニッと口の端を吊り上げると、受け取った布切れを頭に巻き直し、結び目をきつく引っ張った。
出発前は、互いを「非効率な記号使いの野性児」「頭でっかちの気取り屋メガネ」と鋭く牽制し合っていた二人。しかし、豪雨と泥沼という最悪のコンディションを身体ごとぶつかり合って突破し、このヴァルハイトまで二台体制で走り抜いてきた今、その間に刺々しい気配は微塵も残っていない。互いの手の届かない部分を補い合い、その技量を認め合った者同士特有の、湿度の低い軽口の応酬だけがそこにあった。
そのやり取りを馬車の車軸にもたれかかりながら見つめていたルーカスが、二人の背中に歩み寄り、それぞれの肩を軽く叩いた。
「二人とも、よくやったな。計算だけじゃ運べないものがある。度胸だけじゃ届かない場所がある。……お前たち、最高のコンビになったな」
「へへっ、ルーカスさんに褒められた!」
カイが喉の奥で笑い声を鳴らして胸を張り、レオンは照れくさそうに眼鏡のフレームに触れながら、わずかに鼻を鳴らした。
昇った朝陽が、ヴァルハイトの広場に並ぶ二台の馬車の車体をまっすぐに照らし出す。ルーカスとトビーが切り拓いた「循環する物流の道」は、いまや若い二人の身体と確かな手応えによって、この街の生活を支えるため揺るぎなく根を張っていた。
朝陽が裏路地の古い石畳を照らし染め上げていく。無事にヴァルハイトへ帰還した二台の馬車は、事務所を兼ねたトビーたちの倉庫前へと横付けされていた。
馬車から荷物を降ろし、車体を拭う手筈を整え終え。
「ふぅーっ」
カイが背骨を伸ばしながら荷台の木製踏み台にどっかりと腰を下ろす。泥と汗でパリパリに乾いた顔を乱暴に拭い、まだ脈打つような興奮の残る瞳で、自分たちが駆け抜けてきた南の空を見上げていた。
「カイ」
背後から掛けられた、柔らかくも芯の通った声に、カイは肩をビクリと揺らせて振り返る。そこに立っていたトビーの手には、一冊の小さな冊子が握られていた。
それは上質な革で装丁された真新しい帳面などではない。表紙の角は幾度もの摩擦でボロボロに擦り切れ、ページは折り重なり、無数の手垢とインクの染みが幾重にも重なった、年季の入った羊皮紙のメモ帳だった。ページの隙間からは、潮風や赤泥の粒子がのぞいている。
「これ、カイにあげるよ」
トビーは両手で大切にその冊子を包み込むようにして、カイの目の前へそっと差し出した。
「え……?これって、兄貴がずっと使ってた『記号のメモ帳』……だろ?」
カイは息を呑み、差し出された年季の入った表紙とトビーの瞳を交互に見つめた。それは、トビーがルーカスと最初に行商へ出た日から肌身離さず持ち歩き、文字の読めなかった日々から独自の記号と絵を描き溜めてきた、トビーにとっての「命の次に大切な相棒」だった。それを誰よりも近くで見てきたカイには、その重みが痛いほど分かっていた。
「いいのかよ……これ、兄貴の宝物だろ……っ」




