第49話
御者台と荷台から降り立ってきた二人を見て、村人たちは息をのんだ。そこにいたのは、髪から足の先まで黒い泥に塗れ、もはや誰だか判別がつかないほどの姿になった二人の青年だった。
一人は仕立ての良さそうだった高級な上着を失い、泥だらけのシャツ一枚で、擦り切れた銀縁メガネを大切そうに胸元へ差し込んでいる青年、レオン。
もう一人は、つぎはぎの服を泥と汗で重く湿らせながらも、疲労困憊の顔に満足げな不敵な笑みを浮かべている少年、カイ。
「みんな、待たせたな!」
カイがガラガラ声で叫び、二人はすぐさま荷台の縄を解き始めた。
村の鍛冶師や、病人を抱える診療所の助手たちが固唾をのんで見守る中、荷台の奥から木箱がひとつ、またひとつと運び出されていく。
「ガルド工房の特注農機具、破損なし。……そしてイザック先生の調合薬、および精密測定工具」
レオンが泥に塗れた手で、自身の上着で重厚に包まれていた箱を慎重に解いた。
中から現れたのは、水滴ひとつ付着していない完全に無傷なガラス瓶と、一すじの狂いもなく光を反射する精密な工具類だった。
「おおお……!薬が、薬が濡れていない!工具も無事だ!」
「あの激しい大雨の中を抜けてきたというのに、荷物が一滴も濡れておらず、箱の角すら潰れていないなんて……!」
村人たちから割れんばかりの拍手と歓声が上がった。職人たちの情熱と、待っていた人々の願い。その「信用」の全てを、二人は過酷な泥沼の中から一枚も損なうことなく、完璧に届けて見せたのだ。
納品完了のサインを村長にもらい受け、レオンは大きく、深く、溜め込んでいた息を吐き出した。緊張の糸が切れ、急激な疲労が膝を襲う。
「ふぅ……ふふっ、やりましたね、カイ」
レオンは泥のついた顔で、不器用にかすかな笑みを浮かべた。
「おうよ!見たかメガネ!俺たちの勝ちだ!」
カイがニシシと八重歯を見せて破顔すると、泥だらけの右手を力強く突き出した。
レオンは一瞬、自分の泥に汚れた手を見て躊躇したが、すぐにメガネの奥の瞳を誇らしげに輝かせると、躊躇なくその手を振り上げた。
バチンッッ!!
静かな村の広場に、弾けるような高い音が響き渡った。
泥と汗に塗れた二人の手が、強く、深く打ち合わされる。
「理論」と「現場」。「秀才」と「野性児」。
決して噛み合うはずのなかった正反対の二つの歯車が、極限の泥沼の中で互いを認め合い、ひとつの完璧な『新コンビ』として覚醒した瞬間だった。
潮の香りと、喧騒が戻り始めた港。
港湾都市シーガルの商業フェルナンの部屋の窓から、ルーカスは眼下に広がる港の様子を眺めていた。つい数時間前まで流行熱の恐怖に凍りついていた港には、精製薬の配布と同時に活気が戻り、係留されていた交易船からは出港を急ぐ号令が響いている。
「……ルーカス殿、改めて感謝する。君たちが届けてくれた薬と魔石のおかげで、我が街は救われた。この御礼は何と言えばよいか」
フェルナンが深々と頭を下げる。ルーカスは机に広げられた海域図から視線を上げることなく、わずかに口角を上げた。
「礼なら金で。と言いたいところだが、今回は情報の提供で手を打とう。――フェルナン、今回の流行熱、発生源は南の湿地帯にある交易路だな?街の備蓄がこれほど早く尽きたのは、あちら側の物流が滞っているからではないか」
ルーカスの鋭い指摘に、フェルナンはハッとして顔を上げた。
「……察しの通りだ。あちらのルートは今、まともに機能していない。物流の停滞が衛生環境の悪化を招き、それが今回の騒動を大きくした一因だ」
ルーカスはその言葉を逃さず、帳簿の端に素早くメモを走らせる。単なる「運び屋」として終わるつもりはない。危機の裏にある構造上の欠陥を見抜き、それを新たなビジネスチャンスへと変える。それがルーカスの、そしてトビーと共に築き上げてきた商売の本質だった。
「よし、決まりだ。フェルナン、一つ提案がある」
ルーカスは窓の外に目を向け、第一馬車の車輪を指差した。
「今回の流行熱騒動の『返礼』として、ヴァルハイトで待つ俺たちの馴染みの職人たちの商品を、今後は優先的にシーガル港の交易リストに載せてほしい。その代わり、これから俺たちが引き受けるシーガルからヴァルハイトへの帰り荷――これに限り、運賃を通常の『半額』で請け負おう」
「は、半額!?それでは君たちの利益がほとんど出ないではないか!」
フェルナンが目を剥く。だが、トビーは隣で微笑みながら頷いていた。ルーカスの狙いは明白だ。目先の利益を削ってでも、シーガルの有力ギルドと独占的な信頼関係を築き、ヴァルハイトの職人たちの販路を海の外まで広げる。それは、第二商隊が担うことになる未来の循環をより強固なものにするための投資だった。
「ルーカスさん、いいんですか。……レオンさんとカイへの『お土産』にしては、ちょっと豪華すぎませんか」
フェルナンの部屋を出て、潮風が吹き抜ける岸壁に立ったトビーが、少しからかうように言った。
「いいんだよ。あいつらがもしコモレビ村とレム村の仕事を完璧にこなしてここに到着したら、次はもっとデカい仕事が待ってるってことを教えてやらなきゃな。……半額で引き受けた分の埋め合わせは、あいつらに死ぬ気で働いてもらって回収するさ」
ルーカスはそう言って、レム村の方角へと続く地平線を見つめた。雨雲は完全に去り、シーガルの上空には抜けるような蒼穹が広がっている。
「ルーカスさん、ヴァルハイトへ戻りますか」
「いや」
ルーカスは愛車の木枠を軽く叩き、不敵に笑った。
「ここで待つ。あいつらが泥を跳ね上げながら、胸を張って俺たちの前に現れるのをな。それにこいつらにも無理させたから、ゆっくり休ませないとな」
馬の首筋を優しく撫でながらルーカスはトビーに目を向ける。
「……ふふっ、そうですね。きっと、泥だらけで最高の顔をしてやってきますよ」
トビーもまた、確信に満ちた瞳で同じ空を見上げた。爆走任務を終えた第一馬車の隣には、いつか第二商隊の馬車が誇らしく並ぶはずだ。
二人の商人が見上げる空は、迷宮都市の泥沼を抜けてきた二人の新コンビが今まさに仰いでいる光景と、一点の曇りもなく繋がっていた。




