第48話
「縦だな!分かった、これだろッ!」
カイは迷わず目的の箱を引っ張り出すと、トビー直伝の「爪掛け」の技で絶妙に角度をつけ、レオンの差し出した両手へ滑り込ませた。
互いに言葉の裏にある「意図」が、手尺の感覚と数値の精度として一瞬で噛み合っていく。
トビーが記号で示した「壊れもの」「重心注意」のマークを、カイの手が瞬時に見つけ出し、レオンの頭脳がそれを完璧な配置図へと昇華させていく。無駄な会話は一切ない。雨音の中に響くのは、荷物が噛み合う音と、二人の激しい荒い息遣いだけだった。
「カイ、待て!その小さめの箱は何だ!?」
レオンが目ざとく声を張り上げた。カイが手にしていたのは、イザック先生から預かった精密なガラス瓶入りの調合薬と、繊細な金属製の測量工具が詰まった箱だった。
「これか!?薬と道具だ!ロープの隙間から雨が入って箱の中に水が染み込んでやがる!」
「クソッ……箱の目張りが甘かったか!浸水すれば薬品が変質し、工具は錆び付いて狂いが出る!」
「どうすんだよ、もう予備の雨よけシートは使い切ったぞ!」
絶体絶命の瞬間、レオンの視線が御者台の陰に転がっていた「何か」に留まった。
先ほど自分が脱ぎ捨てた、あの小綺麗で分厚い仕立ての上着――商人私塾の高級な生地で作られた、撥水性の高い特注の外套だ。
「カイ!私の上着を取れ!それで箱ごと二重に包み込め!」
「あァ!?あれ、お前の自慢の高級服だろ!泥と雨で全滅するぞ!?」
「構うものか!!」
レオンは泥に塗れた顔で、ニヤリと力強く笑ってみせた。
「服など、また買えば済む!だが職人の信頼と患者の命は、二度と買い直すことはできない!早くしろッ!」
「……っ、へっ!言ってくれるじゃねえか、バカメガネ!」
カイは叫ぶと、御者台から上着をひっ掴み、精密工具と調合薬の箱へぐるぐると頑丈に巻き付けた。さらにトビー直伝の結び方で力任せに縛り上げ、荷台の最も安全な中央の奥へと押し込んだ。
ガチリッ……!
最後の箱が収まった瞬間、荷台の傾きが明確に変わった。右後ろに異常にかかっていた激しい過荷重が抜け、四輪全体へ、そしてぬかるみから逃れるための「左前」へと、理想的な重量バランスが完璧に移動したのだ。
「……計算完了だ!」
雨水を滴らせながら、レオンがメガネのツルを泥のついた手ですっと押し上げた。その表情には、私塾の机の上では絶対に手に入らなかった、圧倒的な「手応え」と「確信」がみなぎっていた。
「準備は整ったぞ、カイ!私たちの道を切り拓く準備が!」
「おうよ!泥沼ごときに俺たちの邪魔はさせねぇ!!」
「よし!馬の手綱を取れ、メガネ!牽引のタイミングは俺が合わせる!」
荷台から飛び降りたカイが、泥水を派手に跳ね上げながら前方の二頭の馬へと駆け寄った。
「了解だ!」
レオンは濡れた手綱を滑らせないよう、泥で汚れた掌に固く巻き付けた。馬の首筋へ歩み寄り、冷たい雨に怯えて荒い息を吐く馬の背を、力強く、しかし優しく撫で下ろす。
「頼むぞ……もう少しだけ、力を貸してくれ……!」
言葉が通じたかのように、馬がブルルッと鼻を鳴らし、力強く前足で泥を蹴った。
カイは泥の中に深く膝を突き、一番深く沈み込んでいる右後輪のスポークへと両手を回した。過荷重が抜け、左前へと重心が移動した今の荷台なら、わずかな「きっかけ」さえ与えれば車輪は泥のグリップを取り戻せるはずだ。
「いいか、メガネ!俺が『せーの』で車輪を持ち上げる!その瞬間に手綱を引いて馬を前に出せ!一撃で抜けるぞ!」
「叩き込むタイミングは一度きりだな……分かった!」
レオンは二頭の手綱を両手に握り締め、脚を泥の底へしっかりと踏み込んだ。頭の中で、馬の牽引力、車体の重量、そしてカイの持ち上げる力が一点に集中する僅かなタイミングの脱出路が組み上がっていく。
雨脚は勢いを増し、容赦なく二人の顔を叩きつける。だが、二人を包む空気は、もはや恐怖や焦りではなく、研ぎ澄まされた集中力で静まり返っていた。
カイが全身の筋肉を限界まで緊張させ、次の瞬間、腹の底から咆哮を上げた。
「――せーのッ!!」
カイの腕に太い筋が浮かび上がり、背筋を弓のように反らせて泥に埋まった車輪を力任せに押し上げる!
ズズッ……!!
泥が重い音を立てて車輪を放そうとした、まさにその一瞬。
「行けぇぇぇーーッ!!」
レオンの手綱が激しく振るわれた。馬の臀部を叩く音と同時に、二頭の馬が前脚を伸ばし、全身の体重を前へかけて泥地を蹴り飛ばす。
ズバァァァンッ!!
「ヒヒィィィーンッ!!」
馬の力強い嘶きと、カイの渾身の突き上げ、そして再配置された絶妙な重量バランスが完全に一つへと噛み合わさった。
泥水が周囲へ激しく吹き飛び、右後輪が泥の底から勢いよく解放される。勢いを得た第二馬車は、そのままズガガガッ!と重い音を立てて底なしのぬかるみを切り裂き、硬い土の街道の上へと一気に脱出した。
ガコンッ……カタカタカタッ!
「抜けた……!抜けたぞッ!!」
馬車の車輪が、しっかりと大地を踏みしめる乾いた音を響かせる。
泥まみれになりながらも踏み止まったカイと、手綱を握りしめたまま大きく肩で息をするレオン。
激しい雨の音の中、二台の泥だらけの車輪は、もう立ち止まることなく、力強くコモレビ村への道を切り開いていた。
雨はいつしか小降りになり、コモレビ村を囲む深い森の向こうから、柔らかな一筋の薄光が差し込み始めていた。
「おい……あれ見ろ!馬車だ!馬車が来たぞ!」
村の入口に設けられた広場で、雨よけの軒下に集まっていた村人たちが一斉に声を上げた。泥を跳ね上げながら街道をやってくる一台の荷馬車。その姿が見えた瞬間、広場にいた人々から歓声が沸き起こった。
「本当に来てくれたのか!この大雨で街道は全滅だと思って諦めていたのに……!」
馬車が広場の中央でゆっくりと静止する。




