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第47話

「……何を気取っていたんだ、私は」


 絞り出すような声が、レオンの口から漏れた。私塾をトップで出たというくだらない矜持。現場の泥臭さを見下し、計算だけで世界を動かせると思い上がっていた己の不遜さ。そのツケが今、この泥沼となって自分たちに襲いかかっている。


 レオンは泥の中からゆっくりと立ち上がった。雨と汗と泥で肌に張り付いた、あの小綺麗で高級な仕立ての上着。商人の私塾出身であることを誇るかのように着飾っていた「秀才の鎧」に、両手で豪快に指をかける。


 バリッ……!


 ボタンが千切れ飛び、上着が肩から滑り落ちた。レオンは迷うことなくその上着を脱ぎ捨てると、濡れて冷たくなったシャツの袖を、力任せに二の腕まで捲り上げた。


「おい、メガネ……?何やってんだお前……」


 御者台から必死に荷台を押さえていたカイが、目の前の光景に思わず言葉を失った。


 プライドの塊だったあの「気取りメガネ」が、高級な上着を放り投げ、躊躇いもなくズブズブと深い泥沼の中へ踏み込んでいったのだ。


 ズブッ……!ズザザーッ!


 粘土質の泥水が、レオンの膝上まで一気に跳ね上がる。汚れひとつなかったズボンも、磨き上げられていた革靴も、一瞬で黒い泥に染まった。メガネのツルがずれ落ちそうになるのも構わず、レオンは両手を深く泥の中へ突っ込み、傾いた車輪の底に指を引っ掛けた。


「レオン……お前……!」

「カイッ!!」


 レオンが叫んだ。雨音を突き破り、喉を潰さんばかりの怒号。いつもすました顔で理屈をこねていた男の口から発せられたとは思えない、泥と汗に塗れた生々しい声だった。


「私の……私の愚かな計算のせいで、この荷物を失わせるわけにはいかない!ガルド工房の農機具も、イザック先生の薬も、村の皆さんが待っているんだ!届ける……何としても、この手を汚してでも!!」


 レオンは歯を剥き出しにし、泥で滑る車輪を全身の力で押し上げた。腕の筋が引きちぎれんばかりに浮き上がり、顔中に泥水を被りながら、泥の底へとしがみつく。


「頼む……カイ!現場の力を……君のカンを貸してくれ!私の甘い計算を、君のその目で正してくれ!!」


 泥まみれになりながら、己の敗北と無力を全面的に認め、泥の中から叫ぶレオン。


 その姿に、プライドを捨ててただ泥臭く「人の信頼」を守ろうとする商人の覚悟を見たカイの瞳の中

で、激しい火花がバチンと弾けた。


「おいメガネ……愚痴ってねぇで、腹括りやがったな!」


 泥まみれになりながら車輪にすがりつくレオンの姿を見て、カイの目つきが一変した。


 冷やかしでも強がりでもない。己の不遜さを噛み潰し、高級な上着を脱ぎ捨てて泥の中に飛び込んだレオンの顔には、もう「気取りメガネ」の面影はどこにもなかった。そこにいたのは、自分のミスで客の信頼を潰すまいと、死に物狂いで足掻く泥臭い男だった。


(こいつ……口だけじゃねぇ。本気で荷物を届ける気だ)


 カイの胸の奥で、何かが噛み合わさる音がした。不器用な情熱が伝播し、己の血が沸き立つのを感じる。カイはニッと口角を釣り上げると、雨に濡れた髪を豪快に後ろへかき上げた。


「良し!泥の深さに怯えて引きこもってんじゃねぇぞ、メガネ!こっから先は俺の領域だ、俺の言う通りに動け!」

「あ、ああ……!指示をくれ、カイ!」


 レオンは泥水に膝を浸したまま、必死の眼差しでカイを見上げた。


 カイは荷台の上へ飛び乗ると、鋭い眼光で崩れかけた荷物の配置と、泥にハマった右後輪の角度を観察した。頭の中に、かつて路地裏で叩き込んだ地形の記憶と、トビーと練習した荷積みのパズルの立体図面が、恐ろしい精度で立ち上がっていく。


「いいか、よく聞け!右後ろの輪っかが沈んでんのは、地面の泥だけが原因じゃねぇ!お前が無理やり詰め込んだあの追加の木箱二箱――あの重さが全部、右後ろの支柱に集中してんだよ!」


 カイは崩れかけた一番上の重い木箱を指差し、大声で叫んだ。


「このままだと、いくら馬を叩いたって泥の底に沈む一方だ!だがな……荷台の『左前』を見てみろ!そこは軽めの試薬箱と布袋ばかりで、重さがスカスカに抜けてやがる!」


 レオンはハッと息をのんだ。容積重量の「数値」だけを均等に分けたつもりだったが、車体の揺れや曲がり角での慣性、そして悪路の傾斜による「重心の移動」まで頭が回っていなかった。数値の帳尻合わせに終始していた己の計算の穴を、カイはただ一目見抜いただけで完璧に指摘してみせたのだ。


「重さを逃がすんだよ!上の重い木箱を速攻で降ろして、荷台の対角線――左前へ重心を移し替える!右後ろの荷重を抜けば、このぬかるみから抜け出せる隙ができる!」

「重心の再配置による接地圧の分散……!抜け出せる……それなら脱出限界の摩擦力を下回る!」

「小むずかしい能書きはいい!手ぇ動かせメガネ!俺が上から降ろす、下で受け止めろ!」

「了解だ!!」


 レオンは返事と同時に、泥の中から力強く踏み出した。


 理論だけの秀才が、現場の天才の「目」を得た瞬間だった。雨音に紛れていた二人の怒号は、もはや醜い擦れ合いではなく、絶望的な泥沼を打開するための、完璧な歯車の噛み合いへと変わり始めていた。


「行くぞ、メガネ!受け取れッ!」


 カイが雨を突き破る叫びとともに、荷台の上から重量のある木箱を抱え上げた。

「来いッ!!」


 泥の中にどっかと両足を張り刺したレオンが、全身の筋肉を緊張させて腕を広げる。


 ガコンッ!


ずっしりとした重みがレオンの腕と胸を押し潰しかけたが、レオンはグッと奥歯を噛み締め、膝を折りながらその衝撃をしっかりと受け止めた。脚が泥の底へさらに数センチ沈み込む。だが、その瞳に一切の迷いはなかった。


「左前のデッドスペース……ここだ!」


 レオンはカイの指示通り、荷台の左前方へと泥を蹴って回り込んだ。


 その頭の中では、カイが直感で見抜いた「立体パズル」と、自身が持つ「精密な計算」が、恐ろしい速度で融合し始めていた。


(カイの言う通りだ……!単に荷物を移動させるだけでは不十分。重心位置を左前軸へ移動させ、かつ右後輪の荷重を重量の四割以下にまで落とす……!)


「カイ!次はあの細長い木箱だ!それをこの箱の横へ『縦』に差し込め!隙間を詰めて慣性運動による崩れを防ぐ!」

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