鉄の匂い
独立して最初の季節、世界の輪郭は利益という黄金色の絵の具で塗りつぶされていた。
若さ特有の肥大した自負と、薄汚れた手押し車の車軸から響く不快な軋み音。そのどちらをより強く意識していたか、いまとなっては判然としない。市場の裏通り、野次馬の喧騒と錆びた包丁の擦れ合う音の隙間で、その噂は耳朶を打った。
「──ガルドの工房が、今すぐ新しい『てつ』を大量に欲しがっているらしいぜ」
市場の片隅で、商人の一人語りが風に乗ってくる。ガルド。あの職人街で無愛想なハンマーを振るい、誰の媚びも売らないドワーフの親方。あいつが新しい『てつ』を求めている。その断片だけで、ルーカスの喉がカラカラに乾いた。
(あれだけの職人が喉から手が出るほど欲しがっている素材だ。俺が真っ先に格安で仕入れて持ち込んでみろ。あのガルドだって、鼻っ柱をへし折られて俺に一目置くはずだ)
専門知識の有無など、傲慢な頭脳の片隅にも掠めすらしなかった。安く大量にあるという事実と、今すぐ必要としているという焦燥。それだけが思考を支配していた。
路地裏の屑鉄屋の奥、陰鬱な悪臭の漂う一画で、ルーカスは有り金のほとんどを叩いた。山のように積み上げられたそれは、たしかに『てつ』と呼ばれていた。使い古された馬車の板金、折れた鍬の残骸、錆びた歯車、泥にまみれた建築用の異形鉄筋。
「おい、兄ちゃん、これ全部でこの値段でいいのかい?」
「あぁ、文句なしだ。持ってけ」
屑鉄屋の乾いた笑い声に背中を押され、ルーカスは二輪の荷車にそれらを山のように積み上げた。ずっしりと重い手応え。鉄の錆びた血のような匂いが、濡れた麻袋の隙間から立ち上っている。ルーカスは自分の知恵と行動力を確信し、埃まみれの顔で職人街の急な坂道を駆け上がった。
──ガン!ガン!ガンッ!
炉の橙色が生み出す熱気と、鉄を打つ狂騒的な音が、夕暮れ前の工房を支配していた。
「ガルドさん!」
勢いよく木戸を押し開け、ルーカスは荒い息を整えながら作業台へ歩み寄る。
「親方が探してた『てつ』、大量に仕入れてきたぞ!見ろ、これだけの量を相場の半値で……!」
満足げな笑みを張り付けたまま、ルーカスは荷車の幌を勢いよく引っぺがした。
ガルドの手が、半ばまで振り下ろされていたハンマーの軌道の上でピタリと凍りつく。工房内の空気が、炉の熱を置き去りにしたまま急激に冷え込んでいく。周囲に散らばる鉄屑の音すら消え失せたかのような静寂。ガルドの分厚い首筋がゆっくりと動き、ギロリと向けられた眼光は、刃物よりも鋭くルーカスの皮膚を切り裂いた。
「……お前、今なんて言った?」
「だ、だから……欲しがってた『てつ』を……」
ルーカスの声量が、わずかにしぼむ。ガルドは作業台から重い足取りで歩み寄り、荷車の縁に無造作に転がるその山を、脂ぎった手でざらりと掴み、引き裂くようにひっくり返した。
──チャリ、ジャリ、ガシャアッ!
煤けた石床の上に、無数のスクラップが乱雑に散らばる。使い古された釘の束、錆びた蝶番、歪んだ農具の残骸。
ガルドの喉の奥から、言葉にならない低音が絞り出された。
「……ふざけてんのか、お前」
「な、なんで……これ、鉄だろ……!」
「違うな」
ガルドは乱暴に自分の額の汗を拭い、床に転がった一本の錆びた歯車を足先で無造作に蹴り飛ばした。硬質な音が壁を打つ。
「俺が欲しかったのは、地下の硬質魔獣どもの装甲を断つために、不純物を極限まで削ぎ落とした特製の『鋼鉄』だ。……んなゴミの山じゃねぇよ!」
ガルドの怒号が、狭い工房の天井を震わせた。
「炉にくべたところですぐに溶け落ち、不純物が暴れて炭床をぶっ壊す。こんな不純物だらけのくず鉄で、どうやって剣を叩けってんだ……!どこの馬の骨とも知れねぇガラクタを拾ってきて、俺の仕事をバカにしてんのか、おい!」
頭を殴られたような衝撃だった。顔面の血の気が一気に引き、ルーカスは一歩、また一歩と後じさった。
「俺は……安くて、量があったから……」
「安い?量?」
ガルドは鼻から荒い息を吐き出し、呆れ果てたように頭を抱えたあと、冷え切った目でルーカスを見据えた。
「素人が勝手な思い込みで『これが要るんだろ』ってガラクタを引っ張ってくんじゃねぇよ。現場が何に困って、何のためにその素材を求めてるのか……その背景すら知らねぇで動くなら、お前はいつまで経っても的外れなゴミ拾いだ」
その言葉は、鋭利な刃物よりも深くルーカスの胸に突き刺さった。自分の才覚で出し抜いたと思っていたものは、単なる無知の暴走でしかなかった。プロの現場が直面している切実な危機、魔獣の硬さに苦しみ、折れた刃を前に歯噛みする職人たちの手の痛み。そのすべてを無視して、品物を押し売りすることだけに酔っていた自分。
ガルドはしばらく険しい顔で黙り込んでいたが、やがて乱暴に作業台を叩くと、ポケットから数枚の銀貨を取り出し、ルーカスの足元へ投げ捨てた。
「……持ってけ。そのまま捨てられてもゴミの始末に困る。幸い、うちの端材の補強用に使える部分がわずかに混じってはいるが……」
投げられた硬貨が、石床の上で乾いた音を立てて転がった。
「半値だ。勉強代だと思ってありがたく受け取りやがれ」
それ以上、ガルドは何も言わなかった。背中を向け、再び炉の前に立ったドワーフの背中は、言葉もなくプロの圧倒的な重みを放っていた。
夕闇の迫る職人街を、ルーカスは半分魂の抜けた状態で手押し車を引いて歩く。懐に残ったのは、大赤字という現実の重み。手押し棒を握る掌には、錆の色と冷たい泥がべったりとこびりついていた。
(売りたいものを売るんじゃない……)
喉の奥で噛み締めたその言葉は、冷たい夜風にさらされて、痛いくらいに胸の深くに刻み込まれていた。
──相手が本当に求めているものを知らなければ、商売なんて成り立たない。現場が必要としている声をすくい上げ、正確に届けること。
あの日の苦い挫折と、ガルドの投げ捨てた銀貨の冷たさ。それこそが、のちに裏路地で無数の小さな困りごとを拾い集めるルーカスの御用聞きとしての、まぎれもない原点だった。




