第5話
迷宮都市ヴァルハイトの巨大な防壁を背にすると、途端に音の消えた世界が広がっていた。どこまでも続く泥と砂利の街道、風に揺れる名もなき野草、遠くの森の深い緑。
「……うわぁ……」
御者台のアシスト席、すり減った木の上にちょこんと座ったトビーが漏らす。生まれて初めての外の世界だった。物心ついた頃から孤児院の裏庭か、ゴミの転がる通りしか知らない少年にとって、遮るもののない青空と地平線は眩しすぎた。
ガタゴト、ギギギ……。
馬車が不揃いな石ころを踏むたびに、身体が激しく上下に揺れる。トビーは反射的に両手で座席の端を強く掴み、肩をすくめた。車輪が泥を跳ね上げる音と、引く馬の荒い息がやけに耳に残る。
(揺れる……ちゃんと捕まってないと。それに、荷物を落としたら……)
胸の奥がキュッと締まる。出発の胸の高鳴りはどこへやら、顔から血の気が引いていく。すぐ背後には職人たちから預かった大切な商品が積まれている。失敗できないという重みが、少年の小さな双肩にのしかかった。
「おい、顔が青いぞ。しっかり捕まってろよ」
手綱を握りながら、前方を向いたままルーカスが言う。トビーはビクリと肩を震わせ、掠れた声を出した。
「っ、はい……。馬車がこんなに揺れるって知らなくて……後ろの荷物、大丈夫ですか……?落ちたり、しないです……?」
何度も振り返ろうとするトビーの横で、ルーカスは馬の速度を一定に保ち、ゆったりと口を開く。
「心配するな、落ちやしない。お前が積んでしっかり縛った。俺も確認した」
スピードを少し緩め、ルーカスは道の脇へと視線を促した。
「道の脇の黄色い花、分かるか?」
「黄色い花……?」
「サンフラワーグラス。葉の裏を見ろ、銀色の産毛が生えている。すり潰すと、傷薬の元になる」
トビーは言われるがままに目を凝らした。風に揺れる草花に、街の中では見られない生気が宿っている。
「薬屋ではただの粉だったのに……こんな風に、生えるんですね」
「こんどは草むらの葉の裏が紫のやつ、分かるか?」
「え……」
トビーの視線が、誘導されるように草むらへ落ちた。細い茎の先で、小さな白い花びらが振動に合わせて細かく揺れている。
「ソラノカモミール。根を干すと、苦い。……茶屋で出すのは、もっと葉の太い方だ」
ルーカスの言葉は淡々とし、途中で一度途切れた。遠くの丘の隆起を見つめる彼の目の端に、微かな皺が寄る。
「……あそこは」
指先が、赤い土が露出した小さな丘へ移る。
「雨が降ると、右側だけ泥になる。……馬が嫌がる。心配しないで、景色でも見てろ、覚えるのも仕事だ」
ルーカスの言葉の端に滲む気遣いに、こわばっていた指先の力が少しずつ抜けていく。昨日、裏路地で言われた言葉が蘇る。ガチガチだった肩から息が漏れ、外の世界の風が肺に染み込んだ。
「はい……。僕、ちゃんと周りを見てお手伝いします」
ガタゴト、ギギギ
馬車は単調な音を立てながら街道を進む。都市の喧騒が遠ざかるにつれ、道の表情は険しさを増していった。
馬車の速度を緩め、ルーカスは御者台の上から前方をじっと見据える。
「ここから先が、コモレビ村へ向かう最初の難所だ。トビー、今日は急がない。馬車を降りて、この先の地形を隅々まで歩いて調べるぞ」
「はい……!」
トビーはこくりと頷き、固い地面へとそっと足を降ろした。
目の前に広がっていたのは、決して侮れない過酷な道のりだった。雨水で深くえぐられたぬかるみがタイヤの軌跡を泥の海に変え、そのすぐ脇には斜面へと落ち込む危険な崖が口を開けている。さらに、進路を塞ぐように剥き出しの大きな岩がゴロゴロと転がり、その先では車体を大きく右へ傾けさせる急カーブが待ち構えていた。
ルーカスは地面の湿り具合を確認しながら、足元に視線を落とした。
「コモレビ村までの道のりは、普通に行けば半日だ。だが、俺たちが目指しているのは、帰り便で『朝露草』を傷つけずに持ち帰るルートだ。スピードを落としすぎれば草はしおれ、かといって雑に突っ込めば荷崩れを起こす」
トビーはルーカスの背中を必死に追いかけながら頷いた。
「……どうやって、通るんですか?」
「まずは、どの位置を通れば一番揺れが少ないか、この地形の癖をすべて把握する。博打を打つわけにはいかないからな。足で稼ぐんだ」
ルーカスは大きな岩の脇にしゃがみ込み、その表面の滑らかさや、車輪が乗り上げたときの傾斜角度を指で確かめた。
「見てみろ、トビー。この岩の右側はすり減って傾斜が緩いが、左側は鋭く尖っている。右の縁をかすめるように通れば、車体の跳ね上がりを最小限に抑えられる」
「本当だ……。左を通ると、馬車がガタガタって大きく跳ねちゃいますね」
トビーも同じようにしゃがみ込み、岩の形と地面の泥の深さをじっと見つめた。そして、ルーカスの言葉が一言一句漏れないよう頭に叩き込む。
「次に、その先の急カーブだ。あそこの傾斜は外側に向かって少し下がっている。スピードを維持したまま回ると、遠心力で荷台の荷物が外側に持っていかれる」
ルーカスが立ち上がり、カーブの先の轍を指さした。
「だからこそ、カーブの手前でどれだけの角度を保ち、どの位置に重い荷物を配置しておくべきか。……帰り便の積載バランスの基準を、ここでしっかり決めておく」
トビーは顔を上げ、険しいカーブの先と、自分が背負うべき役割の重さを噛み締めた。
「……はい。僕、この岩の大きさも、ぬかるみの深さも、全部覚えます。荷台の中で荷物が暴れないように、どう積めばいいか、帰りまでに絶対考えます」
少年の真剣な横顔を見たルーカスは、わずかに目を細め、静かに頷いた。太陽はまだ高いが、二人の影は長い時間をかけて、一歩一歩確実に、この厄介な街道の起伏を自分たちのものにしていく。急がず、怠らず、確実な一歩を積み重ねるための調査が続いていった。
──ポタ、ポタ。
手桶の底に開いた小さな穴から、澄んだ水滴が乾いた砂の上に落ち、一瞬で吸い込まれていく。
太陽が大地に近づき、木造の案内標識の影が長く伸び足元に広がっていた。水場の木製ベンチに腰掛けたルーカスは、膝の上で一冊の小さな羊皮紙ノートを開いた。革の擦れる鈍い音が響く。
「トビー」
呼びかけられ、馬の脚元で濡れたボロ布を動かしていたトビーの指先が跳ねた。
「今日、詰所とすれ違いの行商人から出た追加だ。立ち寄り先ごとに整理しておきたい」
ルーカスは羽ペンとインク瓶をベンチの端へ置く。コモレビ村への乾燥キノコ三斤。警備詰所からの戻り便、港町の高級研磨剤二缶。
「書いておいてくれ。馬の足の裏を見てくる」
ルーカスが立ち上がり、背を向ける。
手を拭き泥を落とした後、トビーの視線がベンチに置かれた黒い軸の羽ペンに張りついた。息が、浅く、短くなる。伸ばした右手の指先が、羽ペンの軸に触れる直前で空中にとどまった。爪の周りの皮膚が白く強張り、指関節が小刻みに跳ねる。




