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第31話

 ──パッ、シュウッ……。──


 塩気を含んだ波風が、シーガル港湾ギルドの重厚なオークの扉を打ち付ける。奥まった執務室の空気はよどみなく、部屋の主である古参取引人・フェルナンの脂ぎった頬を、天井の魔導ランプが嫌味なほど鮮やかに照らし出していた。


「ふん、またお前らか。相変わらず、ちっぽけな馬車でチョコマカと走り回っているようだが……いいか、今はどこも在庫を抱えて荷が余っている時期だ。買い取り値は普段の三割引き、それが飲めないなら他の埃をかぶった店でも当たることだな」


 指にぶら下げた悪趣味な金無垢の指輪を転がしながら、フェルナンは鼻の奥で嘲笑を漏らす。だが、ルーカスの瞳孔は微動だにしない。音もなく机の板上に置かれたのは、無骨な布に厳重に包まれた黒ずんだ結晶──迷宮都市の深部、死の領域でしか採取できない高純度の「黒魔結晶」だった。


「な……っ!?これほどの魔力純度を持つ触媒を、一体どこで……!」


 フェルナンのあごが不格好に外れ、二重あごの肉がぶるりと震える。


「ヴァルハイトの職人たちが、私たちの流通を信じて特別に融通してくれたものです。それからフェルナンさん、トビー、あれを」


 促されたトビーが、緊張ですこし湿った指先で使い古された『記号メモ帳』をめくり、挟み込んでいた一枚の羊皮紙を差し出した。紙面には、トビーが港の雑踏や往来で聞き集めた些細な雑音の断片と、ルーカスから仕込まれた「商売の裏の力学」が、独自の複雑な記号によって緻密に結び合わされている。


「フェルナンさん……さっき、波止場の古株の船乗りたちが『風の匂いが変だ、来週は絶対にしけになる』って話してました。それに、コモレビ村のおばあちゃんから教わった薬草の生え方や、空の色の変化とも完全に重なるんです。もし嵐で港が完全に閉ざされたら、魔導具の部品が途絶えて……フェルナンさんが他の大商会と結んでる納品契約、納期に穴があくんじゃありませんか?」


 少年特有の透明な声が、執務室の冷えた空気を貫く。つたない表現の裏に隠された、現場の生きた情報──「事実の蓄積」。そしてその背後で、少年の集めた断片を恐るべき正確さの取引材料へと組み替えたルーカスの鋭い気配に、フェルナンの背筋を冷たい汗が這い上がった。


「な、なぜそれを……お前……分かった、私の負けだ。最高値で買い取ろう。それどころか、今後の卸の優先権もすべて貴様らに回してやる」


 フェルナンは血の気が引いた顔で自分の首元をまさぐり、敗北を認めた。その直後、ルーカスはわずかに身を乗り出し、淀みのない声で告げた。


「フェルナンさん。実は、この結晶をあなたへ届けるはずだった道中で、私はバロン商会に雇われたゴロツキどもに命を狙われました」

「何だと……?」


 ルーカスが淡々と紡ぎ出す襲撃の経緯、そして目の前に突きつけられた確実な物証の数々。フェルナンは金飾りのついた指をテーブルに叩きつけ、凄まじい怒気を噴き上がらせた。


「あの強欲なバカ野郎が……!自分の商売の分を超えて、俺の大切な仕入れの生命線を力ずくで断とうとしたというのかっ!物流は人と人との信頼の網で回っているんだ。それを暴力の泥で汚す奴に、商人を名乗る資格などない……!」


 激昂の果てに、フェルナンは深い確信を得た。目の前の巡回商人は、ただの荷運びの代行者ではない。自分にとっても欠かすことのできない「商いの血脈」そのものなのだと。


「よし、乗った。ルーカス、その『告発』の舞台、俺も一枚噛ませてもらう。港湾ギルドの古参として、あのアホンダラに引導を渡してやるさ!」


 ──潮風の匂いを残し、再び北上を開始した荷馬車には、かつてないほどの確かな重量が加わっていた。


 シーガルを出発した車体はレム村へ滑り込み、火花を散らすバド親方ら頑固な鍛冶師たちを拾い上げる。そのまま山あいを駆け上がり、コモレビ村へ立ち寄ると、村の誇りを背負った村長とおばあちゃんを荷台の特等席へと乗せた。それぞれの村が抱える怒りと決意、そして「バロンの圧力には一歩も引かない」という強い意思の結晶が、幾重にも積み上げられていく。


 トビーが握りしめる『記号メモ帳』のページには、もはや単なる配送先のリストではない。ともに生き、ともに牙を剥く「仲間たちの名と誇り」が、力強い筆跡でびっしりと刻み込まれていた。


「行くよ、トビー。俺たちの道を取り戻しに」

「うん、ルーカスさん!全員揃ってる、絶対に負けるはずがないよ!」


 夕闇を突き破り、幾重もの信頼の重みを乗せた車輪が、決戦の地である迷宮都市ヴァルハイトの巨大な石門へ向かって、凄まじい勢いで疾走していくのだった。

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