第29話
──パカッ、パカッ、パカッ……。──
朝靄がゆっくりと晴れ渡っていく薬草の里、コモレビ村の空は、どこか鉛色の重さを残していた。村の中央にある小さな集会所の前。そこに群がる村人たちの肩は一様にこわばり、顔の皮膚が引きつっている。
「どういうことだ、村長……!バロン商会が本当に、そんな真似をしてきたのかっ……!?」
「ああ……。今朝の日の出直後、バロンの馬車を駆る使者がこの紙切れを放り投げていった……」
声の震える村長が、指先で一枚の書簡を押し広げた。金色の箔押しが嫌味な光を放つ上質な羊皮紙。そこに並ぶ冷徹な活字を、村長は乾いた喉を鳴らしながら読み上げていく。
『コモレビ村の者どもへ。貴村が巡回商人ルーカスなる者と不当な取引を継続している件、見過ごしがたし。本日正午までにルーカスとの一切の取引を停止し、今後の薬草全量を当商会へ専売することを約束せよ。さもなくば、今後当商会はコモレビ村からの薬草買い入れを永久に停止する。大商会に干上がらされた村の末路を、よくよく熟考されたし』
「な、なんだと……!?専売契約だと……!?」
「買い入れの永久停止って……それじゃあ、俺たちの生活は……!」
集会所を包んでいた沈黙が、一瞬で波立つような怒号と悲鳴へ変わった。コモレビ村の命脈は、一にも二にも薬草の換金にある。かつてはバロン商会のような大資本の商人が気まぐれに足を踏み入れ、足元をすくうような買い叩きを仕掛けてくるのが当たり前の日常だった。首を縦に振らなければ村全体が飢えに沈むと知っているからこそ、誰もが歯噛みしながら従属するしかなかったのだ。
「そんなの……っ。バロンに睨まれたら、この村で採れる薬草は一葉だって街へ流せなくなっちまうぞ……」
「ルーカスさんやトビーくんには、本当に良くしてもらったけど……村が潰れたらおしまいだ……」
若い男たちの足元が揺らぎ、恐怖の色が村全体に伝染していく。強大な独占欲と「不買」という逃れられない網。長年、恐怖による支配を刷り込まれてきた者たちにとって、それは逆らうことのできない絶対的な脅威だった。
ざわめく群衆の真ん中、その冷たい空気を断ち切るように、乾いた木質の音が響いた。
──カツンッ……!──
地面に叩きつけられた杖の尖りが、砂利を弾く。
「何を情けない面をして、ドブネズミみたいに震えているんだい、お前たちはっ!」
割れるような老いた怒声が、集会所の前庭を切り裂いた。人垣を押し分けて一歩ずつ踏み出してきたのは、村一番の薬草採取の目利きとして知られる、あの老婆だった。背骨は真っ直ぐに伸び、濁りのない瞳が怯える若者たちを射抜くように睨みつける。その枯れ枝のような左手には、かつてルーカスとトビーが泥だらけになりながら届けてくれた、あの刃こぼれひとつない『特注の採集用鎌』が、まるで宝物のように固く握りしめられていたのだった。
──バリッ……ッ!!パチッ……!!──
朝の冷たい空気が張り詰める集会所の前庭で、乾いた破裂音が響き渡る。村人たちが息を呑んで注視する中、村長の手によって力任せに引き裂かれたのは、バロン商会の金箔入り脅迫状だった。二つに、四つに無惨に引き裂かれた羊皮紙の破片が、冷たい朝風に乗って足元の泥へハラハラと舞い散っていく。
「む、村長……っ!?何をするんだ!バロン商会を本気で怒らせたら、俺たちの薬草は一斤だって買い叩かれておしまいだぞ……!」
顔面を青ざめさせた若い村人が悲鳴のような声を上げた。しかし、村長は床に散らばった紙片を革靴の踵で力強く踏みつけ、大きく胸を張って前庭の群衆を見渡した。
「何を怯えているんだ、みんな!いい加減、目を覚ませっ!」
村長の腹の底から絞り出された朗々とした声が、波立つ集会所をぴたりと静まり返らせる。
「バロンの奴らは『買い叩いてやる』『村ごと干上がらせてやる』と高みから脅してきたが……ハッ、冗談じゃない!時代はもうとっくに変わったんだよ!一体いまの俺たちのどこに、あの馬鹿どもに頭を垂れる理由があるっていうんだ!?」
「え……?」
言葉を失い、ぽかんと口を開ける若者たちに、隣に立ったおばあちゃんが、左手に握りしめた特注の採集鎌をギィンと高く掲げてみせた。
「お前さんたち、もう忘れちまったのかい?昨日の、ルーカスさんとあの小さなトビーちゃんが、どれほど頼もしい約束を俺たちに残してくれたかをね!」
おばあちゃんの濁りのない瞳には、揺るぎない誇りと確信の光が宿っている。
「いいかい!私たちが腰を痛めながら摘み取った大事な薬草はね、もうバロンなんかの汚い連中を挟まなくたって、迷宮都市のイザックさんのような腕利きの錬金術師たちへ直接届く仕組みになっているんだよ!それだけじゃない、港町経由で海の向こうへ送り出す『直販ルート』だって、ルーカスさんがこの手で完全に繋いでくれたんだからね!」
──直販ルート。──
その硬質な響きが耳朶を打った瞬間、村人たちの顔面にざわめきが走った。これまでの村は、バロン商会のような巨大資本に物流の喉元を握られ、泥をすするような安い買い叩き値を受け入れるしかなかった。だが、ルーカスとトビーが幾度も泥まみれになって通い詰め、村の素材と都市の職人ギルドを直接結びつける「血の通った循環」を完成させていたのだ。
「そうだ!」
村長がガッと拳を握りしめる。
「イザックさんたちは、うちの薬草の品質を正当に見極め、バロンの提示する価格の【五倍以上の適正価格】で全量買い取ると約束してくれている!港町の商人も、うちの特産品を首を長くして待っているんだよ!困るのは買い手がなくなる俺たちなんかじゃない……上質な薬草の供給を断たれて首が回らなくなる、あの大商会の方なのさッ!」
「あ……っ!」
「そうか……俺たち、もうバロンの言いなりにならなくても、自分たちの足だけで立っていられるんだ……!」
村人たちの肺腑に、冷たい氷が溶けていくような熱い納得と歓喜の波が広がっていく。バロン商会が振りかざした「不買」という最大の脅しは、ルーカスたちが築き上げた自立した経済の歯車の前に、刃こぼれどころか木っ端微塵に粉砕されていたのだった。
「ルーカスさんとトビーちゃんは、ただ荷物を運んでくれたんじゃないよ。俺たちに、薬草取りとしての『誇り』と『選択肢』を取り戻してくれたんだ!」
おばあちゃんが皺だらけの目尻を細め、力強く笑い声をあげる。
「さあ、お前たち!バロンの紙切れなんか肥やしにでもしておきな!今日もルーカスさんに胸を張って託す極上の薬草を、渡せるようにしっかり準備に行くよッ!」
「「お──っ!!」」
さっきまでの怯えと動揺は影も形も無く消え去り、集会所の前庭には村人たちの腹の底からの歓声が、朝の青空へ向かって力強く突き抜けていったのだった。




