第26話
「セシル……さんっ……!お願いだから……助けて……ルーカスさんが……っ!」
喉から絞り出されたその悲痛な掠れ声に、セシルたちの顔から血の気が完全に引き去った。
「ルーカスさんが……っ、ルーカスさんが……殺されちゃう……!」
店内の空気が一瞬で凍りついた。安酒場のガヤガヤとした雑音が消え失せ、客たちの視線が中央に集まる。トビーの顔は、汗と土埃、そして溢れ出る涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。膝の擦り傷から滲んだ血が床板に小さな赤を落としている。
必死に空気を取り込もうと胸を激しく上下させ、トビーは床に両手をついた。
──ドサッ。
額を硬い木製の床へ強く打ち付け、命を乞うように頭を擦り付ける。
「お願いです……!お願いです、セシルさん……っ!ルーカスさんを助けてください……!」
「トビー、顔を上げろ!一体何があったんだ、落ち着いて話せ!」
セシルが膝をつき、トビーの細い肩を力強く掴み引き起こそうとする。だが、トビーは額を地面につけたまま、掠れた声を絞り出し続けた。
「バロン商会が……ゴロツキを雇ったんです!今夜の定期便……南門を出たあとの『断崖の曲がり角』で、ルーカスさんの馬車を事故に見せかけて谷底へ突き落とす計画なんです!ルーカスさんは……何も知らずに、一人で街道へ行っちゃったんです……っ!」
「なんだと……!」
セシルの表情が一変した。周囲にいた冒険者たちからも、ざわめきと怒りの声が上がる。
「バロンの野郎ども、そこまで腐ってやがるのか……」
「定期便を狙うなんて、事故じゃねえ、ただの暗殺だぞ!」
トビーは顔を上げた。涙で赤く腫れ上がった瞳から大粒のしずくをこぼしながら、セシルの目を真っ直ぐに見つめる。
「僕、任された街の配達は全部やりました!手押し車も安全なところに預けてきました!でも……僕ひとりの力じゃ、ルーカスさんを守れないんです……っ!お金もありません、お礼も何も払えません……!でも……っ!」
トビーは胸の『記号メモ帳』をギュッと強く握りしめた。
「あの人は……ルーカスさんは、僕に生きる誇りをくれた人なんです!僕たちに手を差し伸べてくれた大切な人なんです!お願いです……助けてください……ッ!ルーカスさんを……僕の大事な人を死なせないで……!」
喉を焼き切るような叫び。泥にまみれ、膝を折り、それでも誇り高く大切な人を救おうとする少年の魂の叫びが、酒場全体を震わせた。
セシルは息をのんだ。脳裏に蘇るのは、半年前のあの日だ。ダンジョンの底で装備も薬もなくし、バロン商会に見捨てられて絶望していた自分たちの姿。そして、格安で──いや、自分たちの命を信じて資材を運んできてくれたルーカスとトビーの笑顔。
(今はお金がないんでしょう?後払いでいいですから)
あの一言がなければ、自分たちは今、ここで酒を飲むことすらできていなかった。自分たちの命は、あの二人に繋いでもらったのだ。
──ジャキッ……!
澄んだ金属音が酒場に響き渡った。セシルが静かに立ち上がり、背中の大剣の鞘を強く鳴らす。その瞳には、駆け出しの頼りなさは微塵もなかった。燃え盛るような鋭い怒りと、固い決意の炎が宿っている。
「……おい、聞いたな」
セシルが振り返ると、パーティの仲間──弓手、槍使い、魔導師の三人がすでに立ち上がり、それぞれの武器を固く握りしめていた。誰ひとりとして、怯えや迷いの表情を浮かべてはいない。
「ウチらの命を繋いでくれた命の恩人が……いま、クソみたいなゴロツキどもに命を狙われてる」
セシルは大剣を片手で軽々と引き抜くと、刃先を床へ突き立て、不敵な笑みを浮かべた。
「報酬?お礼?そんなもん最初から要るかよ。借りた命の恩は、剣で返すのが冒険者の流儀だろ!」
「当たり前だ!ルーカスさんたちを殺させやがったら、冒険者失格だぜ!」
「走るぞ、街道へ急げ!」
仲間たちが一斉に歓声を上げ、武器を構える。酒場にいた他の冒険者たちも立ち上がり、怒号のような歓声が巻き起こった。
「セシルさん……!」
トビーの瞳に、新たな涙が溢れ出した。それは恐怖の涙ではなく、溢れ出る熱量に応えるためのものだった。
「行くぞトビー!あんたが命懸けで繋いだバトンだ、絶対に落とさねぇよ!」
セシルは大剣を背に担ぎ直し、トビーを抱き起こす。
「案内しな、トビー!あの街道口へ……ルーカスさんのもとへ走るぞ!」
「はいっ……!」
暗闇が街を包み込もうとする中、小さな少年の叫びから始まった熱が、一筋の光となって街道へ向けて解き放たれていった。
──ギィ……、ギィ……。
木製の車輪が重い音を立てて回り、夜の静寂が降り始めようとする街道を刻んでいく。迷宮都市ヴァルハイトの南門──通称「街道口」。昼間は巡回商人や旅人で賑わう巨大なアーチ状の門も、太陽が沈みきったこの時間帯になると、すっかり人影が途絶えていた。門の鉄格子の向こうには、漆黒の闇に包まれた街道が黒々と広がっている。
「……トビーの奴、一体どこへ行っちまったんだ」
荷馬車の御者台に腰掛けたルーカスは、手綱を握る手に力を込め、不安げに暗い夜空を見上げた。出発前、ガルドの工房へ立ち寄った際、若い職人から告げられた言葉が脳裏に蘇る。
(トビーなら、さっき青ざめた顔で飛んできて、手押し車を預けてそのまま走り去っちまいましたよ。街回りの配達は全部終わってますけど……)
責任感の強いトビーが、そんな真似をするはずがない。日中の無理がたたって体調を崩したのか、あるいは言えないトラブルに巻き込まれたのか。すぐにでも探しに戻りたかったが、郊外の村々へ向けた定期便の出発時刻は迫っていた。バロン商会の圧力が強まる中、荷物の到着を遅らせれば、村人たちの不安を煽ることになる。
(循環を守るのが、俺たちの仕事だ)
迷いを断つように、ルーカスは息を吐き出す。トビーのことだ、街の中であればガルドや職人たちが気にかけてくれるはずだ。自分は自らの役目を果たさなければならない。
ルーカスは気を取り直すと、馬車に取り付けられた二つのカンテラに火を点した。オレンジ色の光が、湿った夜気を切り裂いて路面を照らし出す。
パカッ、パカッ──。
馬の蹄の音が、暗い街道に規則正しく響く。門を抜け、都市の喧騒が背後へ遠のいていく。街道の左右には鬱蒼とした原生林の黒い影が迫り、冷やりとした夜風がルーカスの頬を撫でた。
だが、ルーカスはまだ気づいていなかった。闇に包まれた街道の物陰から、複数の冷たい視線が自分に向けられていることに。
「……出たぞ。あの馬車だ」
「小僧は乗ってねえようだが、まあいい。大元のルーカスさえ消せば目的は果たせる」
草むらの中に身を潜めていたゴドウィン率いるゴロツキどもが、凶悪な笑みを浮かべる。毒を塗った短剣を握り、殺気を殺しながら馬車の後方を密かに追跡し始めた。
「断崖の曲がり角まで行かせるぞ。あそこなら、どんなに喚こうが誰にも届きやしねえ」
トビーの身を案じながらも、顧客への責任を果たすために馬車を進めるルーカス。その背後に忍び寄る、漆黒の殺意。カンテラの灯火だけを頼りに、荷馬車は絶望の待つ闇の中へと進んでいくのだった。




