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三ヶ月前の光

 迷宮都市ヴァルハイト。その名の通り、街の地下には底知れぬ魔窟が口を開け、一攫千金を夢見る者たちの屍を飲み込み続けている。


 冷たい鉛色の雨が、石畳の路地を容赦なく叩きつけていた。秋の冷気を含んだ雨粒は、薄汚れた灰色の石畳を濡らし、街全体を重苦しい静寂に閉じ込めている。


「クソッ……!なんでだ、なんでこうなるんだよ」


 路地の奥、崩れかけた石壁に背を預けるようにして座り込む男がいた。駆け出し冒険者パーティのリーダー、セシルだ。彼の足元には、同じく泥まみれになり、血と泥に染まった仲間たちが肩を寄せ合っている。ダンジョン浅層――そのはずだった。新人向けの安全圏と言われた区画で、想定外のトロールの群れに奇襲を受けた。前衛の盾が砕け、頼みの綱だったポーションは底を突き、命からがら逃げ延びるのが精一杯だった。


 誰もが言葉を失っていた。全身の痛み以上に、心臓を締め付けるのは凍てつくような冷たさだ。防具は半壊し、武器の刃はボロボロに欠けている。所持金はゼロ。宿の宿泊費どころか、今日のパンを買う金すらない。冷たい雨水が髪を伝い、頬を滑り落ちる。それは彼らの流した涙なのか、ただの雨なのか、誰にも区別がつかなかった。


「……ダメだった」


 パーティの魔法使いが、震える声で呟いた。ほんの小一時間前、街で最大のシェアを誇る『バロン商会』の扉を叩いた結果だった。彼らは藁をもすがる思いで、手持ちの壊れた武具を担保に、最低限の傷薬と予備の武器を貸してほしいと頼み込んだ。しかし、商会のカウンター越しに投げかけられたのは、冷徹な視線と冷笑だった。


「金の払えない、明日をも知れぬ貧乏冒険者に貸す品など我が商会にはない。……おい、これ以上店の前を汚すな。他所へ行け」


 追い払われるように叩き出された重厚な扉の感触が、今も手のひらに生々しく残っている。社会の底辺。お前たちの命の価値など、この街の商売人にとっては銅貨一枚分の値打ちもないのだと突きつけられたようなものだった。泥水に浸かったような底なしの絶望が、セシルの喉の奥を重く押し潰す。息をするのすら、ひどく痛かった。


「……おい、馬車が来るぞ」


 仲間の乾いた声に、セシルは重い頭を持ち上げた。水飛沫を激しくあげながら、一台の古びた木製馬車が裏路地の入り口を静かに通りがかろうとしていた。御者台で雨合羽を羽織り、慎重に手綱を握っているのは、穏やかな目をした青年――ルーカスだった。そして、その横で濡れないように大きな帆布を必死に押さえている、あどけなさを残した少年・トビーの姿があった。


「トビー、もうすぐ倉庫だもう少し頑張れ。風邪を引くなよ」

「はい、ルーカスさん!荷物は全部、濡らさないようにしっかり押さえてます!」


 トビーは自分の寒さも忘れ、積荷を守るように腕を広げている。馬車はセシルたちの前で、ピタリと止まった。ルーカスが手綱を緩め、濡れた前髪を拭いながら、路地裏でうずくまるボロボロの冒険者たちに気づいた。その瞳が、驚きから深い観察の色へと変わる。ルーカスは見抜いた。彼らがただの野垂れ死に寸前の人間ではなく、「生きるためにあがいた者たち」の目をしていることを。


「……あの」


 セシルは泥まみれの額を地面すれすれまで下げ、震える声で絞り出した。プライドも何もあったものではない。仲間を生かすためなら、泥を舐める覚悟はできていた。


「金がない……です。装備も全部失って、バロン商会にも追い払われて……。でも、仲間を治療しないと、このままじゃ……!」


 言葉が途切れる。手のひらが冷や汗で湿っていた。見知らぬ行商人にこんな姿を見られることが、痛いほど恥ずかしかった。


 しかし、ルーカスはせせら笑うことも、冷たく突き放すこともしなかった。彼は馬車から静かに飛び降りると、トビーと共に手際よく一つの木箱を降ろした。


「トビー、備え付けの箱を開けてくれ」

「はい!」


 トビーが迷うことなく蓋を開けると、そこには手入れの行き届いた実用的な槍と、頑丈な盾、そして品質の高い傷薬が並んでいた。


 ルーカスはしゃがみ込み、セシルの濡れた肩にそっと手を置いた。その手の温かさが、冷え切った体に染み渡る。


「これを持っていけ、金はいらん」

「え……?」

「今はお金がないんでしょう?これ、予備の武具と薬品です。後払いでいいですから」


 セシルは目を見開いた。担保もなしに、赤の他人の自分たちにこんな品を?


「そ、そんな、万が一私たちが死んだら、この代金はパーに……!」

「死なないさ」


 ルーカスは優しく、しかし確固たる意志を込めて微笑んだ。


「お前たちの目はまだ死んでいない。荷物を運ぶのが俺の仕事なら、人の困りごとや想いを信じるのも俺の仕事だ。――これは借金じゃない。お前たちへの投資だ」


 隣でトビーも、力強くうなずいた。


「……絶対、大丈夫です。この薬、すごくよく効くから……!」


 利害でも打算でもない。泥まみれの若者たちの命と、その奥にある誇りを信じた瞬間だった。雨の中、二人の行商人と駆け出し冒険者の間に、確かな重みを持つ沈黙が落ちた。


 ルーカスから借り受けた武具と傷薬は、まさに命綱となった。傷薬を飲んだ仲間たちは奇跡的な回復を見せ、見事に息を吹き返した。手渡された武具は、しっくりと馴染んだ。


「行くぞ……!あの人たちを裏切るわけにはいかない!」


 借金を必ず返す。その共通の目的と恩義が、一度は折れかけた心を一つに繋いだ。


 翌日、彼らは再びダンジョンへと足を踏み入れた。恐怖は消えていなかったが、背中を押してくれた温かな手の温もりがあった。傷だらけになりながら、前衛のセシルは大剣を振るい仲間は槍で突き盾を掲げ、後衛は魔法を撃ち弓を放つ。泥臭い、死に物狂いの奮闘だった。


 トロールの巣窟を抜け、危険を冒して奥地へと進んだ彼らは、ついに高値で取引される希少な魔物の素材を手に入れることに成功した。満身創痍でありながらも、その顔には確かな生還の光が宿っていた。


 数日後。


 街の広場の一角で、見慣れた馬車を見つけたセシルたちは、緊張しながらも足早に近づいた。その手には、泥と魔物の血にまみれながらも、ずっしりと重たくなった金袋が握りしめられている。


「ルーカスさん!」


 セシルの声に振り返ったルーカスは、目の前に立つボロボロだが生き生きとした冒険者たちを見て、パッと表情を和らげた。


「……よく無事で戻ってきたな」


 金袋がルーカスの手に渡される。ずしりとした重みが、彼らの努力の軌跡を物語っていた。中身を確認することすらせず、ルーカスは安心したような、心からの温かい笑みを浮かべた。


「お前たちの顔を見れば、言葉はいらないか」

「おかえりなさい……っ!」


 トビーは、セシルたちが無事に戻ってきたことだけで自分のことのように目を輝かせ、両手を小さく握りしめて心底から喜んでいた。


 無事に借金の精算を終え、ほっと息をついたその時――ルーカスの視線が、セシルの背中に背負われた剥き出しの大剣に留まった。激しい死闘の果てに、その剣の刃はヒビこそ入ってないがボロボロに欠け、無残な傷だらけになっていた。


「おい、セシル。その剣、かなり無理をさせているな……。このままじゃ近い内に折れるぞ」

「あ……ああ、これ以上は新しいの買うまでごまかすしかないって思ってたんだが……」


 ルーカスは自分の馬車の荷台の奥へ手を伸ばすと、一つの木箱から丁寧に包まれた「砥石」と「手入れ油」を取り出した。それをセシルの手に、そっと乗せる。


「これを使え、流石に大剣は用立ててやれん」


 セシルは反射的に手を引っ込めかけた。


「待ってくれ、こんなもの、今の手持ちじゃ到底払えない……!」


 しかし、ルーカスは穏やかに首を横に振った。


「いいさ。金の話はまた今度だ。……道具を大事にするのも冒険者の仕事だ。これも口うるさい頑固なドワーフの受け売りだけどな」


 トビーは、ルーカスのそのセリフを聞いて、クスクスと小さく笑った。


(……あ、それってガルドさんのことだ)


 心の中でそう呟きながら、トビーは誇らしそうに胸を張る。ガルドの職人気質な気難しさと優しさを知っているのは、自分たちなのだから。


「代金は、また稼げたら持ってこい。急がなくていい」


 冷たい雨の裏路地で差し伸べられたその手が、今日の無事な生還へと繋がっている。遠ざかっていく馬車の後ろ姿を見送りながら、セシルたちは手渡された砥石と手入れ油をギュッと強く握り締めた。


「……次は、俺たちが恩返しをする番だな」


 パーティ全員がうなずき、それぞれの胸に熱い決意を灯す。荷物を運ぶだけでなく、人の困りごとや想いを運ぶルーカス。その背中を見つめながら、不器用ながらも確実に成長していくトビー。そして、彼らを取り巻く温かな絆は、過酷な迷宮都市の中で、確かな光となって未来へ続いていく。

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