第25話
「ルーカスはトビーの集配が終わるのを待って、今夜、夕闇に乗じて南門から街道へ出る。いつも通りの定期便だ」
「南門を出て一刻ほど走ったところにある『断崖の曲がり角』だな。あのあたりは街道沿いでも特に見通しが悪く、谷底まではかなりの深さがある」
ゴドウィンが笑みを深め、短剣を壁の木枠に突き刺した。ギシッと乾いた音が響く。
「前方に倒木を置いて足を止めさせ、前後から挟み撃ちだ。抵抗する間も与えずに馬車ごと谷底へ突き落とす。事故に見せかけてな」
「へへっ、行商ごと葬り去れば、あの儲かる巡回ルートは全部我がバロン商会のものだ。バロン様もさぞお喜びになる。二度とあの面を見なくて済むと思うとせいせいするぜ」
「ついでに、あのうっとうしい小僧もまとめて片付けて谷底の餌にしてやれば完璧だな」
男たちの低く濁った笑い声が、冷たいレンガ壁に反響する。
トビーは両手で自らの口を強く塞ぎ、漏れ出そうになる声を必死で喉の奥へと押し込める。心臓が早鐘のように肋骨を叩き、頭の中が急速に冷えていく。指先の血の気が引き、膝の関節が細かく痙攣し始めた。
(今夜、夕闇に乗じて街を出た直後のルーカスの馬車を事故に見せかけて崖から突き落とす──)
買収も、不買運動の圧力も効かなかったバロン商会が選んだのは、命そのものを奪う手段だった。夕闇は、もうすぐそこまで迫っている。ルーカスは何も知らず、南門で馬車の点検を終え、トビーの帰りを待ちながら一人で街道へと走り出そうとしているはずだ。
(ルーカスさんが……)
裏路地の薄暗い影の中で、冷たい殺意の残響が、トビーの耳の奥にいつまでもこびりついて離れなかった。
──コトッ。──
口を塞いでいたトビーの手が、微かに震えながら胸のポケットへと向かった。指先に触れたのは、四隅が丸く擦り切れた一冊の『記号メモ帳』だった。トビーは冷め切らない動揺の中で、こわばる指を無理やり動かしてページを開く。イザックから貰った確認の印、薬種屋の署名、ガルド工房のチェック欄。そのすべてに丁寧な丸印が書き込まれているのが、微かに揺れる視界の端に収まった。
(全部……終わってる。任された街の配達は、一つも間違えずに……届け終えたんだ)
仕事は完了した。その事実が、喉の奥に張り付いていた冷たい塊をわずかに押し流す。トビーの中で、恐怖の底から別の熱量が這い上がってきた。萎縮していた膝の震えが止まり、氷のように冷たかった指の腹に熱い血が戻る。下を向いていた瞳孔が引き締まり、暗い路地の輪郭を捉えた。
(任された仕事は全部やった。次は……僕が、ルーカスさんを助けるんだ)
だが、トビーはそのまま闇雲に駆け出したりはしなかった。一度深く息を吸い込み、握りしめていた手押し車の取っ手に視線を落とす。そこには、回収した空き箱や、次の配送で使うための大切な緩衝材が積まれていた。これを放り出せば、顧客たちの財産を疎かにすることになる。
(この荷物は……職人さんたちのものだ。絶対に投げ出さない)
トビーは足音を殺しながら手押し車を引き、男たちの潜む隙間から慎重に距離を取る。角を曲がり、気配が完全に遠のいたのを確認した瞬間、トビーは足を翻し、ガルドの工房へ向けて全速力で石畳を蹴った。
「ガルドさんっ!」
工房の裏手へ飛び込み、作業台の前にいた若い職人へ手押し車を押し付けるように預ける。
「トビー?どうした、そんな青い顔をして──」
「これ、お願いします!本日の配達は全部完了してます!ガルドさんに、手押し車と空箱を預けるって……!」
「おい、ちょっと待て!どこに行くんだよ!」
制止の声を背に受けながら、トビーはすでに身を翻していた。荷物を手放した身体は、驚くほど軽かった。足の裏が石畳を捉える感触が、直接に脳髄へと響く。
(待ってて、ルーカスさん……ッ)
夕暮れの街路へ飛び出した少年は、ただ一心に、南門へと続く道を駆け抜けていった。
迷宮都市の南門へと続く大通りの脇、場末の路地にひっそりと佇む一軒の安酒場『赤獅子の足跡亭』。重厚な木製の扉の向こうからは、安酒の杯を交わす下級冒険者たちの粗野な笑い声と、肉の焦げる匂いが混ざり合った独特の熱気が漏れ出ていた。
店内の一角、油で汚れた丸テーブルを囲んでいたのは、剣士セシルが率いる四人の駆け出し冒険者パーティだった。
「よしっ、今日のダンジョン探索も全員生きて無事帰還!乾杯だ!」
セシルが豪快に木製のジョッキを掲げ、仲間たちとガツンと杯を打ち鳴らす。彼らはまだ、一級品の装備を買えるほどの金も実績もない。革の鎧には何重もの補修跡が痛々しく残っていた。だが、セシルの背にある大剣は手入れをきちんとされているのか、刃こぼれがないのが目を引く、その表情に暗さはない。
「なぁセシル。今日の依頼で使った万能傷薬と頑丈な靴底、本当に助かったよな。あれがなきゃ、俺の足首は魔物の毒で腐ってたぜ」
パーティの弓手が、しみじみと腰の薬瓶を見つめながら呟く。
「ああ。……ルーカスさんと、トビーの人脈のおかげだな」
セシルは笑みを深め、杯をあけた。三ヶ月前、ダンジョンの浅層で全滅しかけ、装備も金も底をついて路頭に迷っていた時のことだ。大手のバロン商会からは「金の払えない貧乏人に売る品はない」と冷たく追い払われていた。その絶望の淵にいた自分たちに、小さな荷馬車を引いて手を差し伸べてくれたのが、商人のルーカスと助手のトビーだった。
(今はお金がないんでしょう?これ、予備の武具と薬品です。後払いでいいですから)
トビーがそう言って渡してくれたあの日の光景を、セシルは忘れたことがなかった。格安どころか、自分たちの命を繋ぐための「信頼」を、彼らは貸してくれたのだ。
「今夜、ルーカスさんたちは定期便で出発するんだろ。次に街に戻ってきたら、ちゃんと酒の一杯でも奢らねばな──」
セシルがそう言いかけた、その時だった。
──バンッ……ッ!
重い木製の扉が、蝶番ごと外れそうなほどの勢いで内側へ弾け飛んだ。店内の喧騒が、一瞬にして凍りつく。酔い客たちの視線が一斉に入口へと集まった。
「ハァッ……、ハァッ……ッ、ガハッ……!」
そこに立っていたのは、膝と服を泥と擦り傷で汚した小さな少年だった。トビーだった。肩を激しく上下させ、胸を痛そうに押さえながら床に足を踏み出そうとしたが、両足の力が抜け、そのままバタンと木製の床へ崩れ落ちる。
「トビー!?」
セシルはジョッキを床へ乱暴に置き、弾かれたように席を立った。仲間たちも顔色を変えてトビーのもとへ駆け寄る。
「おい、トビー!どうしたんだその格好は!一体何があったんだよ!」
セシルがトビーの小さな身体を抱き起こす。全身は滝のような汗に濡れそびれ、引き裂かれた膝からは生々しい血が滲み、呼吸は極限まで乱れていた。限界を超えて走り抜けてきた痕跡が、その小さな身体に刻まれている。
トビーは薄れゆく意識の中で、必死にセシルの革鎧の胸元を、血の滲む指先で力任せに掴んだ。




