第24話
──カン、カン、カン……ッ。
昼下がりの太陽が頂点を過ぎ、迷宮都市ヴァルハイトの石畳の上に落ちる影がゆるやかに伸び始めていた。活気に満ちた大通りから一本入った職人街には、どこからか乾いた金属音や、焦げた薬品の独特な香りが漂っている。
「ふぅ……っ、よし。これでガルドさんのところの特殊ナットは全部渡せたぞ」
手押し車を引くトビーは、額に浮かんだ汗を肘のあたりでごしごしと拭った。十二歳の小さな身体には、積み込まれた荷物の重みがズシリと肩に食い込む。胸のポケットには、四隅が丸く擦り切れた一冊の『記号メモ帳』が収められていた。
そこには、都市内の職人たちが要求する細かな納品仕様──
「ガルド工房:表面の油分を拭き取った状態」
「イザックさんの店:日光を避けた暗所保管の木箱」
指示が、トビー独自の記号で几帳面に書き込まれている。ルーカスとトビーは今夕、定期便として村々向け街道へ出発する予定だった。その出立に先立ち、馬車の点検や積み込みの最終調整を進めている。
(トビー、街の中の集配は頼んだぞ。お前なら安心して任せられる)
出掛けにかけられたその声の響きが、トビーの喉の奥をかすかな熱で満たしていた。自分はもう、ただ守られるだけの存在ではない。ルーカスの相棒として、この街の物流の一角を担っているという事実が、手のひらの握る力を自然と強めさせる。
「次は……イザックさんのところへ、コモレビ村から届いた朝露草の精油だね」
トビーは手押し車の布を少しだけめくり、中に収められた厳重な木箱を確認した。瓶同士がぶつからないよう、敷き詰められた乾燥藁の隙間にしっかりと固定されている。ガタガタと手押し車を押し、傾斜の急な石畳の坂道を登っていく。息が上がり、細い脚の筋肉がじわじわと熱を帯びて痛んだが、トビーは歩みを止めなかった。
「おや、トビーちゃん。暑いのにご苦労様」
通り沿いのパン屋の女将さんが、店先から声をかけてくる。
「こんにちは、おばさん!今、イザックさんのところに納品に行くところなんです」
「本当に感心ねぇ。バロン商会のガサツな連中が配ってた頃は、荷物が届かないだの箱が潰れてるだので大騒ぎだったのに。トビーちゃんが配るようになってからは、一度だって間違いがないもの」
「えへへ……」
トビーは気恥ずかしそうに鼻の頭をかき、ごわついた袖で再び汗を拭うと、さらに足を早めた。仕事に対する愚直なまでの手際。それはトビーにとって、単なる作業ではなく、預かった荷物を無事に送り届けるための確かな証明だった。工房街の一角、怪しげな薬草の乾いた匂いが漂う錬金術店へ足を踏み入れる。
「イザックさん!コモレビ村からの朝露草の精油、三瓶届きました」
店奥の薄暗い作業台でフラスコを見つめていたのは、目つきの鋭い老錬金術師・イザックだった。白い髭を蓄えた老人は、トビーの声にゆっくりと視線を向け、手元の作業を止める。
トビーは慎重に木箱からガラス瓶を取り出し、柔らかな布で瓶の底を拭ってから、両手でイザックの手元へ手渡した。イザックは鋭い眼光のまま瓶をかざし、光に透かして液体の濁りや傷がないかを確かめる。そして、気難しそうな眉間を少しだけ緩め、鼻からフンと息を抜いた。
「……相変わらず丁寧な扱いだな、小僧。配送の衝撃で油分が分離しやすい繊細な精油だ。並の運び屋なら乱暴に扱って使い物にならなくするところだぞ」
イザックは羊皮紙の受領書にサインを走らせると、トビーへ無言で差し出した。トビーは慣れた手つきで記号メモ帳を開き、完了を示す記号を書き込む。
「ありがとうございます!次の配達があるので、失礼します」
「フン……急ぐのはいいが、足を挫くなよ。ルーカスにも、頼んでいた触媒の件はよろしくと伝えておけ」
背中に投げかけられたぶっきらぼうな声を聞きながら、トビーは再び手押し車を引いて店を後にした。太陽は次第に橙色を帯び始め、路地裏に落ちる影が一段と長くなっていく。手押し車の中の荷物は、残りあと一箱。裏路地にある薬種屋への配達を残すのみとなっていた。
「よーし、最後のひとつ!これを届けたら、ルーカスさんのところへ戻ろう」
トビーはぐっと手押し車の取っ手を握り直し、夕暮れに染まり始めた裏路地へと向かって、硬い石畳を蹴り出した。
西日が長々と影を伸ばし、迷宮都市ヴァルハイトの路地裏を濃密な黄金色と暗い影の二色に染め上げていた。大通りの賑やかな喧騒は遠く霞み、このあたりまで来ると、石造りの建物が落とす冷ややかな静寂が周囲を支配し始める。
「よしっ……これで、本日の配達は全部終了!」
裏路地の奥にひっそりと店を構える薬種屋から出てきたトビーは、胸のポケットから『記号メモ帳』を取り出した。使い古されて角が丸くなったメモ帳の最終ページ。そこには、先ほど薬種屋の店主から貰った受領のマークが記載されている。小さな鉛筆を取り出し、その横に最後の完了の印を引いた。
「ガルドさんの特殊ナット、イザックさんの朝露草の精油、そして薬種屋さんの乾燥根……全部、一つたりとも間違えずに届けられたぞ」
空になった手押し車を見つめ、トビーの口元に自然と笑みがこぼれる。ルーカスから託された仕事を完遂した手応えが、額の汗を袖口で拭う腕に力を漲らせていた。トビーは手押し車の取っ手を握り直し、ガルドの工房へと戻るルートへと足を進める。
そこは、古い崩れかけのレンガ壁が延々と続く、日当たりの悪い街外れの狭い路地だった。足元には生ごみや古びた木箱が転がり、ドブと安酒、そして湿った煙草の饐えた匂いが鼻をつく。都市の光線から見放されたようなその空間は、昼間でも独特の気味悪さを漂わせていた。
(早くここを抜けて、ルーカスさんのところへ行こう……)
トビーが少しだけ足を早めた、その時だった。
「──おい、仕込みは完璧なんだろうな?」
低い、濁った声が、崩れかけのレンガ壁の向こう側から漏れてきた。トビーは足を踏み出すのをやめる。声の主は、すぐ目と鼻の先──積み上げられた木箱と枯れ草の山を挟んだ、さらに狭い隙間にいた。
「へへっ、抜かりはねえよ。小僧の買収も失敗した以上、支店長はお怒りなんだ。今夜、あの二人をまとめて片付ける」
(支店長……っ)
その単語が、トビーの背筋に冷たい薄氷を貼り付けたような硬直をもたらす。呼吸が途中で止まり、胸の奥がキュッと縮み上がった。トビーは息を殺し、壁の隙間へ身を潜める。手押し車の車輪が音を立てぬよう、指先でしっかりと車軸を抑え込んだ。レンガの割れ目からそっと覗き込むと、そこには三人ほどの男たちが車座になって座り込んでいた。
一人はいかにもガラの悪いバロン商会の手下。そしてその向かいにいるのは、顔に生々しい火傷痕を持つ大柄な男──裏社会のゴロツキを束ねるゴドウィンだった。男たちは安酒の瓶を煽りながら、毒を塗った短剣の刃先を布で磨いている。
「奴らの行動パターンは割り出してある」
バロンの手下が、地面に描いた地図を指で突き刺した。




