第23話
「……ふ、フハ……ッ」
ガストンは散らばる書類を押しのけ、白紙の羊皮紙を引き寄せた。羽ペンの先をインク壺の底へ強く叩きつけ、黒い滴を飛び散らせながら、硬い紙面へペン先を滑らせる。削り出すような強い筆圧で、鉄の匂いのする文字が刻まれていく。
「支店長……それは……」
「教え込んでやるのだ。何で動いているかをな」
ガストンの声は小さく、鋭く尖っていた。インクの生乾きの文字が、羊皮紙の上で黒く光る。コモレビ村、レム村──街道の先に連なる集落の名。その横に並ぶのは、資材供給の停止、特産品買い取りの全面拒絶。
大型馬車を打ち切れば、村の倉庫に積み上がった素材は腐り、冬を越すための塩も日用品も届かなくなる。細い手押し車と一台の馬車だけで、村全体の生活を支え切れるはずがない。
ガストンは固まりかけた朱蝋に火を近づけた。熱で溶けた赤い塊が羊皮紙へ垂れ落ち、その上から重い真鍮の印章が叩きつけられる。
──ドツン。
重い音が落ち、赤い封蝋が押し潰されて平らに広がった。
「選ばせればいい。あの二人を取るか、村の命を取るか」
ガストンの指先が、固まりつつある熱い朱蝋の表面を撫でる。部屋の隅に溜まった薄暗い影の中で、荒い息遣いだけが低く響いていた。
ガルドの工房の二階。窓の外は完全な夜の暗がりに沈み、卓上のランタンが揺れるたび、煤けた壁に影が低く伸びた。昼の街回りを終えたトビーの手押し車は階下に置かれ、静まり返った室内には油の匂いが満ちている。
ルーカスは届いたばかりの手紙の端を指で押さえていた。コモレビ村の村長による朱蝋の封。羊皮紙をなぞる視線とともに、ルーカスの眉間に浅い溝が刻まれていく。
「……ルーカスさん?村長さんから、なんて」
覗き込んできたトビーの首筋が強張っている。ルーカスは短く息を吐き、視線を紙面へ落としたまま口を開いた。
「『バロンの使者が来て、書状を置いていった』……と」
声のトーンがひとつ落ちる。村との取引を続ければ、農産物や生薬草の買い取りを全て打ち切る。それだけではない。村へ入る塩、油脂、農具の修繕用部材──街道を通る物資の配送網を完全に遮断するという通告だった。コモレビ村だけでなく、鋼材のレム村も同じ紙片が届いているという。
トビーの喉が鳴り、指先が胸のポケットの角を強く掴んだ。
手紙の後半、村長の崩れた文字が続いていた。
『……村の若者の中には不安を口にする者もいます。だが、朝露草を丁寧に扱ってくれたのは二人でした。脅迫に屈したくはありません。……だが、塩が届かなくなれば生活が立ち行かなくなるのも事実です。どうか知恵を』
ルーカスの指先が、羊皮紙の端をかすかに折った。卓上のランタンの火が小さく爆ぜる。
「……俺たちが引けば」
ルーカスの声が掠れ、暗がりの中へ落ちた。
「俺たちが引いてバロンの条件を受け入れさせれば、村に塩は届く。誰も寒さや飢えに怯えずに済むのかもしれない……」
ルーカスの視線は、ランタンの芯の黒い焦げ目から動かない。指先が膝の上で小さく丸まった。
「駄目です!」
乾いた声が、狭い部屋の空気を跳ね返した。
ルーカスが顔を上げる。トビーの足元は固く踏みしめられ、胸のポケットの羊皮紙を押しつぶすほど握りしめた拳が、かすかに震えていた。
「駄目です、ルーカスさん!バロンに渡したら、村のみんなの薬草はまた腐らせられます!雑に扱われて……そんなのダメです!」
トビーの呼気が荒くなり、肩が激しく上下する。
「今日……僕、バロンの手下に大金を渡されそうになりました。メモを渡せって。すごく怖くて、足も震えました。……でも、蹴飛ばしたんです。想いを運ぶ仕事なんだって!」
トビーの瞳に、ランタンの小さな灯りがまっすぐに映り込んでいた。
「村のみんなも、僕たちを信じて手紙をくれたんです!だったら……僕たちが諦めちゃダメです!打ち破りましょうよ!」
ルーカスの目がわずかに見開かれ、次に吐き出された息とともに肩の線が緩んだ。膝の上の手がひらりと裏返り、卓上の端を軽く叩く。
「……そうだな。お前の言う通りだ、トビー。俺たちが折れたら、あのやり方が通ることになる。循環を繋ぐのが俺たちの役目だ」
立ち上がったルーカスの影が、壁一面に大きく広がった。トビーの頭へ伸ばされた手が、煤で汚れた髪を一度だけ強く押し込む。
「塩なら俺達が届ければ良い。月に二回、コモレビとレムの規模を考えれば十分に賄える備蓄も可能だ。その他の物資もヴァルハイトとシーガルを使えばどうにかなる。これには書かれていないが食料がどうかだ。聞いてみるしかあるまい、視野が狭くなっていたな。お前のおかげで落ち着いたよ。……いつも通り準備をしよう」
「はい!」
ランタンの火が静かに揺れ、二人の足元に落ちた影を深く、重く重ね合わせていた。
迷宮都市ヴァルハイトの最奥──影の街。表通りの喧騒も、鍛冶場を叩く鉄の音も届かない。ドブ川の湿った腐臭と、腐敗した生ゴミの匂いが石壁に張り付く路地の底。
苔生した階段を下りた地下酒場の空気は、冷たく淀んでいた。煤けたランプの光が拾い上げるのは、顔を横切る大きな傷痕、錆びた長剣の柄、そして毒を塗った短剣を弄る泥で汚れた指先。
──コツン、コツン。
場違いな固い革底の音が、濡れた石畳を叩いた。奥の薄暗いテーブル。深くかぶったフードの隙間から、ガストンが落ち窪んだ視線を落としている。
「お前が動くとはな、旦那。相当追い詰められてると見受けたが?」
向かいに座るゴドウィンの喉から、酒臭い息とともに濁った笑いが漏れた。顔面の大きな火傷痕が、引きつるように歪む。
ガストンは答えず、外套の懐から革袋を取り出すと、卓上へ滑らせた。
──ジャラッ。
重い金貨が擦れ合う音が、低く響く。結び目から覗いた黄色の光が、ゴドウィンの目元を濡らした。
「ほう……大層な額だ。誰の首だ?」
「ルーカスだ」
ガストンの声は低く、乾いていた。
「それと、手押し車を押している小僧」
「あの青二才共か。買収も圧力も効かねえとなると……消すしかねえわな」
ゴドウィンが太い指先で金貨をつまみ上げ、爪で弾く。小さな金属音が地下の空気を揺らした。
「街中でやりゃ騎士団がうるさい」
「街でやる必要はない」
ガストンが卓上に破れかけた羊皮紙の地図を広げた。指先が叩いたのは、都市からコモレビ村へ向かう街道沿い──切り立った崖と鬱蒼とした木々に挟まれた、見通しの悪い急カーブ。
「奴らは次の定期便で必ずここを通る。崖の曲がり角だ。事故に見せかけて叩き潰せ」
ガストンの爪が、地図のその点に食い込む。
「馬車は谷底へ落とせ。そして……二度と歩けぬよう、足の骨を砕いておけ」
「へっ……車輪が外れた不運な事故か。お安い御用だ」
ゴドウィンが壁の影へ視線を投げると、闇の中から鉄の擦れ合う乾いた音が返ってきた。鞘から抜かれた短剣の刃先が、ランプの火を吸って鈍く光る。
「正義だの信頼だのを口にする青二才が、谷底で泥を舐めて冷えていく姿……楽しみだな」
ガストンのフードの奥で、乾いた呼気がひとつ漏れた。
「消せ。一粒の痕跡も残すな」
「応よ」
重い革袋が、太い手のひらの中に消える。地下酒場の冷たい石壁に、刃を研ぐ微かな金属音だけが低く残り続けた。




