第22話
「どうした小僧。拾えよ、その金を。そうすればあんな貧乏行商人の手下をやめられるんだぞ」
頭上から降ってくる鼻を鳴らすような声。トビーの視線が、吸い寄せられるように地面の革袋へ落ちた。
一枚。それだけあれば、孤児院の雨漏りする屋根を直せる。弟たちの皿に、湯気の立つ肉スープを並べてやれる。メモを渡せば、この冷たい石畳の上で叩かれずに済む。
そっと力を抜こうとした指先が、胸のポケットの角に触れた。使い古した羊皮紙の、ざらついた感触。
──冷たい川水で濡らした麻布の、重み。──パーツを受け取ったガルドの、油で汚れた巨大な手のひら。──ランタンの小さな火の脇で、スープの鍋をかき混ぜていたルーカスの横顔。
『トビー。丁寧さと誠実さで作った信頼はな、どんな大金でも買えやしない』
耳の奥で、低い声がひとつ弾けた。
トビーの呼吸が、ふっと深く沈む。膝の震えが小さくなり、やがて止まった。
握りしめた拳の爪が、手のひらの皮に食い込む。トビーはゆっくりと首を上げ、目の前に立つ男の濁った瞳を、まっすぐに見据えた。
湿った路地に、重い静寂が落ちていた。男たちは口元を緩め、今にも膝をつくであろう少年の頭上から、濁った視線を注いでいる。
トビーは、あごを引いた。膝の力を抜き、泥で汚れた靴底で石畳を捉える。
「……あ?」
ガタイのいい男の眉がひそめられた。トビーの足先が動き、泥の上に転がっていた革袋を迷いなく蹴りつける。
──ジャラッ。
湿った音を立て、金貨の袋が男の靴先へ転がり戻った。
「な……ッ」
痩せた男の指から、煙草の灰が落ちる。トビーは胸のポケットの上から羊皮紙の角を強く押しつけ、男たちの眼孔を正面から見据えた。
「お金なんか、いりません」
声が石壁を打つ。
「これは……ルーカスさんが僕に教えてくれた、僕の仕事です。ガルドさんが夜遅くまで叩いた鉄も、村のみんなが朝一番に摘んでくれた草も……全部、届けるためのものです」
トビーの目頭から熱いものが溢れ、煤のついた頬をひとすじ濡らした。息が激しく乱れ、肩が上下する。
「僕を信じてくれた人たちの想いを……お金なんかに売らない。絶対に、渡さない!」
喉の奥を削るような叫びが、狭い路地裏の冷気を切り裂いた。
「このガキ……っ!調子に乗るなよッ!」
ガタイのいい男の顔が怒りで赤黒く染まり、太い腕がトビーの胸元へ伸ばされる。
トビーは目を逸らさなかった。手押し車の取っ手を背中で庇うように立ち塞がり、ただ固く、歯を食いしばって男の手先を見つめ続けた。
「このクソガキが……ッ!」
男の咆哮とともに、太い腕が空を裂いた。丸太のような腕が伸ばされ、トビーの胸元へ影を落とす。トビーは足裏に力を込め、歯を深く食いしばった。胸の羊皮紙を両手で抱え込み、まぶたを固く閉じる。
──ドゴォンッ!
湿った石畳が激しく震え、靴底を通して足首へ衝撃が抜けた。砕けた石粉と煤の混じった煙が巻き上がり、鼻腔を刺す。男の手はトビーの皮膚に触れる直前で止まり、短く乾いた悲鳴とともに後ずさった。
沈み込む土煙の中、トビーの目と鼻の先に、黒く光る塊が突き刺さっていた。大人の頭ほどもある鍛造の角ハンマー。放射状に亀裂の走った石畳から、熱を帯びた鉄の匂いが立ち上っている。
「大人が束になって、うちの小僧を囲んでんじゃねえよ」
重くくぐもった声が、路地の入口から落ちてきた。腕を組んで立つのは、ガルドだ。その背後には、ハンスをはじめとする工房街の職人たちが固まり、手に手にバールや作業用の槌を握りしめている。
「ガルド、さん……」
トビーの掠れた声が、喉の奥から漏れた。ガルドはのっしのっしと靴音を響かせて歩み寄ると、石畳に刺さった巨大なハンマーの柄を掴み、力任せに引き抜いた。肩に担ぎ直した鉄の塊が、鈍い光を返している。
「その薄汚い金を拾って、失せろ。次トビーに触ったら……その頭巾、鍛冶場の鉄屑と一緒に叩き潰すぞ」
ガルドの顎の髭が固く引き締まり、濁りのない視線が男たちを射抜く。職人たちの荒い息遣いが狭い壁の間に充満し、退路を塞ぐ圧迫感となって押し寄せた。
「ヒッ……覚えてろよ!」
痩せた男が泥の上の革袋をひっ掴み、這うようにして路地の奥へ逃げ出す。巨漢もその後ろを追い、二人の靴音が遠くの雑踏へ消えていった。
静まり返った路地裏。湿った風がひとつ抜け、ガルドが膝を折った。トビーの目線まで頭を下げると、油と煤で汚れた巨大な手のひらを、トビーの頭の上にのせた。
「……よく耐えたな、トビー」
ゴツゴツとした指先が、乱暴に頭を撫でる。手のひらから伝わる熱が、冷え切っていたトビーの頭頂部にじわりと染み込んでいった。周りの職人たちが押し寄せ、力任せにトビーの肩を叩く。
「トビー、大したもんだ!」
「あんな大金を蹴り飛ばすたぁな!」
ピンと張り詰めていた糸が、プツリと切れた。トビーの膝からすっと力が抜け、胸のメモ帳を抱えたまま、目頭から熱いものが溢れ出した。頬の汚れを濡らして落ちる雫に、ガルドの指先が優しく触れる。
トビーは溢れる涙を拭いもせず、胸元の固い羊皮紙の感触を確かめるように、何度も、深く頷いた。
黒塗りされた重厚なドアの奥で、甲高い破砕音が鼓膜を刺した。
──ガチャンッ、バリンッ!
割れたクリスタルグラスの破片が石の床を転がり、深紅の液体が毛足の長い絨毯へと沈み込んでいく。壁際まで飛び散った液滴が、血のように糸を引いて滴り落ちた。デスクから払い落とされた書類の山。めくれた紙面の端に、赤インクで印字された数字の列が並ぶ。ギルドからの契約解除通知、鍛冶屋組合の連名による補償要求書。
「……買い取りに、失敗しただと?」
デスクの陰で平伏する現場監督の首筋に、冷や汗が伝う。額を押し当てた床の木目が、男の浅い息で白く曇っていた。
「は、はい……ガルドらがなだれ込み……手出しが、できず……」
ガストンの指先が、なでつけた髪の毛をむしるようにかき上げる。喉から絞り出される呼吸が荒く、浅い。落ち窪んだ目の奥に、濁った赤みが差していた。
運賃を半分に削り、大型馬車の列で押し潰すはずだった。路地裏の木製手押し車など、車輪の陰に隠れて消えるはずの存在だった。だが、手元に残ったのは欠損したギアの山と、腐敗した朝露草の臭い。そして、一度離れた職人たちが、あの青年の元へ戻っていく足音だけだった。
ガストンの指先がデスクの端を強く掴む。爪の生え際が白く変色し、木の表面に微かな傷を刻んだ。
「金を蹴飛ばした……?あの小僧が……?」
喉の奥で、乾いた引きつりが起こる。ガストンの視線が、散らかった紙の山へ落ちた。呼吸が不規則に乱れ、肩が上下に揺れる。やがて、口角が吊り上がり、喉の奥から湿った息が漏れ出した。




