第21話
迷宮都市ヴァルハイトの朝。石畳の隙間に溜まった水たまりが、低い日差しを反射して白く光っている。煤と冷えた油脂の匂いが漂う裏路地に、固い木輪が擦れ合う音が落ちた。
──ガラガラ、ガラガラ。
手押し車の取っ手を握るトビーの指先には、かさついたタコができている。荷台の木箱は、寸分の隙間もなく組み合わされていた。角を落とした上質な絹布、川水を含んで重みを増した麻布、そして固く丸めた綿。揺れに合わせて箱同士がぶつかる鈍い音すら、そこにはない。
「トビーちゃん、おはよう!」
ハンスの妻が身を乗り出した拍子に、店先の軒下に吊るされた乾いた革の匂いがふわりと揺れた。トビーは足を止め、手押し車をゆっくりと腰で支える。額から落ちた汗が、首筋の汚れをひとすじ拭っていった。荷台の脇から取り出した小箱を差し出すと、ハンスの妻の視線が、箱の底に添えられた二重の板へ落ちる。
「ガルドさんのオイルと、留め具です。底、補強してありますから」
トビーの声は小さく途切れたが、差し出した手は動かない。ハンスの妻の喉が小さく鳴り、差し出された箱を受け取る指先がかすかに震えた。
「……よかった。バロンのところに頼んだときは、箱の角がつぶれていてね。もう、どうしようかと」
ハンスの妻はかごから紙に包まれたパンを取り出すと、トビーの開いた手のひらに押し当てた。まだほのかに温かい。トビーの喉がゴクリと鳴り、パンの重みを確かめるように指を折りたたむ。
「……ありがとう」
短く答えてパンを鞄の底へ押し込むと、トビーは胸のポケットに手を伸ばした。角の潰れた羊皮紙のノート。ページをめくる指が、煤で汚れた記号の列の上を滑る。円の中に斜線、その脇に刻まれた三つの点。ガルドの工房の裏にある、車輪を取られやすい浅い溝を示す印だ。
「トビー、次はこちらかい!」
「これ、コモレビ村へ!ルーカスによろしくな!」
隣の工房の木扉が開き、木屑の匂いとともに渋い声が飛ぶ。トビーは返事をせず、ただ深く頷いた。浅く息を吐き、手押し車の取っ手に再び力を込める。両足の裏で石畳の冷たさを確かめるように、踏み出す足に重みをのせた。
半年前、孤児院に居場所がなくて膝を抱えて路地裏の壁に背中を預けていた頃の、自分の吐息の白さをトビーはふと思い出す。いま、握りしめた木製の取っ手は、自分の体温でじんわりと温かかった。
メモの端に、小さく縦線を一本引く。手押し車を押し出すトビーの背中に、朝の冷たい光がまっすぐに当たっていた。
だが──路地裏の角、日の届かない積み上げられた空き樽の陰。深くかぶったフードの隙間から、湿った呼気がひとつ、白く立ち上っていた。トビーが引き去る車輪の音を、濁ったふたつの瞳がじっと追っている。
ガルドの工房を出て三つ目の角を曲がると、陽光が急激に細くなった。高くそびえる古い石壁の隙間。足元には湿った苔の匂いと、油と腐葉土の交じった冷ややかな空気が滞留している。表通りの雑踏は遠のき、湿った石畳を削る車輪の音だけが、耳の奥でくぐもって響いた。
──コツン、コツン。
自分の車輪の音とは刻みの違う、硬い革底の足音が一つ。トビーの指先が、手押し車の取っ手の上でわずかに滑った。
曲がり角の影から滑り出てきた男の腕に、黒地に金糸で刺されたバロン商会の紋章が見える。背の高い男の指先には不自然なほど太い革のムチが握られ、その脇に立つ巨漢の肩には、先端の潰れた鉄補強の棍棒がのせられていた。
「やあやあ、噂の優秀な小僧さんじゃないか」
男の喉から漏れる、湿った笑い声。トビーの足が固まり、反射的に手押し車を引く。
──ガタッ。
後ろの車輪が、石畳の突起に当たって乾いた音を立てた。振り返るより早く、背後で重い靴音が止まる。振り返った視線の先に、路地口を完全に覆い隠す大柄な男の影が見えた。左右は逃げ場のない湿った石壁。影が、ぐぐりとトビーの足元まで伸びてくる。
「……なんですか」
トビーの声は低く掠れた。喉の奥がカラカラに乾き、唾を呑み込む音が自分の中で大きく響く。荷台の前に小さな身体を割り込ませ、両手で荷の端を押さえた。ガルドから預かった鉄の重みが、布越しに膝へ伝わる。
「急ぐ必要なんかないさ。お前さんに、いい話をしに来てやったんだからよ」
歩み寄ってきた男から、安酒の酸っぱい匂いと煙草の煤けた臭いが強く漂う。トビーの背筋を、冷たい汗がひとすじ服を濡らして落ちていった。握りしめた木製の取っ手から、自分の体温が急速に奪われていく。
──ジャラリ。
鈍い金属音が石畳に落ちた。トビーの足元へ投げ出された革袋から、結び目がほどけて中身がこぼれ出る。湿った日陰の空気の中で、重厚な黄色の光を放つ金貨の山。一枚、また一枚と重なり合い、泥の交じった苔の上に転がった。
トビーの視線が固定される。喉の奥が引きつり、呼気が短く漏れた。
「どうだ?悪くない眺めだろ」
痩せた男が壁に肘をつき、爪の間の汚れを削りながら鼻で笑う。
「お前みたいな孤児院上がりが、一生かかっても拝めねえ額だ。それだけありゃあ、あのボロ屋敷のガキどもを腹いっぱい食わせて、温かいベッドで寝かせてやれる」
トビーの指先が、手押し車の木製取っ手に食い込む。木のささくれが皮膚を刺したが、痛みは感じなかった。
「……なんで、僕に」
ガタイのいい男が膝を折り、視線をトビーの胸元へ落とした。男の吐く荒い息が、トビーの頬を撫でる。
「簡単な話だ。お前がいつも大事そうに胸に突っ込んでる、そのメモを渡せ」
トビーの胸の奥で、鼓動が大きく跳ねた。胸ポケットの、角の丸まった羊皮紙の硬さが、急激に存在感を増す。
「ルーカスが手配してる帳簿、村の仕入れルート、工房の職人どもの納品時間……お前の頭の中にあるものを、全部吐き出せばいい」
男の大きな手が、トビーの足元に転がる金貨の袋を足先でつついた。金貨同士が擦れ合い、高い金属音が狭い路地に響く。
「渡しさえすれば、その金はお前のものだ。支店長に言ってお前を管理職で雇ってやってもいい。……だがな」
痩せた男が手に持っていた棍棒の先端を、トビーの足元へゆっくりと落とした。
──カン、カン。
湿った石畳を叩く固い音。
「断るなんてバカな真似はしねえよな。ここじゃ誰も助けに来ねえ。断れば……その手押し車も、お前の細い腕も、どうなるか分からねえぞ」
男の太い首筋の筋肉が浮き上がり、鉄の匂いが間近に迫る。トビーの足の指先が、靴の中で固く縮こまった。首筋を伝う汗が冷たく乾いていく。
──カタカタカタ。
手押し車の木枠を掴む指先が白く強張り、トビーの膝が小さく刻んだ。石畳の上に散らばる金貨の鈍い輝き。真上から覆いかぶさる酒と汗の匂い。男の指に握られた棍棒の太さが、網膜に焼き付いて離れない。
喉の奥が張りつき、息を吸い込むたびに胸の奥が引きつるように痛んだ。




