第3話
朝靄の漂う職人街は、湿った煤と冷たい泥の匂いに満ちていた。ルーカスは新調された粗末な服の襟元を気にして縮こまるトビーの肩に手を置き、低い声で囁いた。
「息を吐け。……目線は?」
「……相手の、胸から目」
トビーは喉を鳴らし、固く結んだ拳の汗をズボンで拭った。
最初に潜り込んだのは、薬品と酸の刺激臭が鼻を刺す工房だ。奥から出てきた老錬金術師イザックは、二人の泥のついた靴底を一瞥し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……買い叩くなら大通りへ行きな。うちは一銭もまけねぇぞ」
「買いに来たのではありません」
ルーカスは足を揃え、静かに頭を下げた。
「じいさんの脚の代わりに、街道を走りに来ました。コモレビ村の朝摘みの生薬草、潰さずにここまで引いてきます。都市内の配達も引き受けますよ」
イザックはフンと吐き捨てた。
「口だけなら大商会の小僧でも叩ける。コモレビの生葉なんてのはな、運ぶ途中で擦れて全部腐るんだよ。だいいち、うちが欲しがってる微妙な時期の葉の種類なんぞ、素人に判るわけが──」
「……朝露草の乾燥したやつ四束、モルボの皮つき三つ。先月届かなかった十五番のガラス瓶」
小さな、しかし引っ掛かりのない声が工房の空気を叩いた。イザックが眉をひそめる。
「……あ?」
トビーは顎を引き、まっすぐに老人の目を見据えていた。膝の微かな震えを押し殺すように、指先を強く揃えている。
「先週、イザックさんが外で商人に怒鳴ってたやつです。……要るの、それですよね」
老人の手が止まり、シワの刻まれた瞼が見開かれた。通りすがりに出しただけの愚痴を、見知らぬ少年が寸分違わず語っている。
「なんだ、シケたツラして立ち止まってんじゃねえぞ、イザック」
重い足音が石床を鳴らし、煤けたガルドが割り込んできた。太い腕を組み、鼻から荒い息を吐き出す。
「俺はな、レム村へ納品と鉱石、パーツの買い出しをこいつらに丸投げした。おまけに取っておきの黒魔結晶もな。四の五の言わずに、一個預けてみやがれ」
気難しいドワーフの言葉に、イザックの視線がルーカスと、トビーのまっすぐな瞳の間を往復した。帳簿を乱暴にめくる音が響く。
「……チッ。朝露草を二束だ。行きに村長へ試作の薬とシーガルへ特殊ポーションを届けるなら、運賃を乗せてやる。……葉っぱ一枚でも潰れてたら、叩き出すからな」
「引き受けます」
ルーカスが深く頭を下げ、隣でトビーも、壊れものを扱うような丁寧な所作で腰を折った。
「絶対に……傷つけません」
一軒、また一軒。ガルドの後押しと、ルーカスの理詰めの提案。そして何より、一度見た棚の配置も、職人の気難しげな注文の型番も完璧に手繰り寄せるトビーの頭脳が、閉ざされた扉を次々と開けていく。
革細工師からは都市内での繊細な留め具の回収。武具屋からは警備詰所への納品。雑に扱われることを何より嫌う職人たちが、トビーの指先のあまりに慎重な動きを見つめ、無言で小さな荷を託し始めた。
陽が頭上へと差し掛かる頃、ルーカスの羊皮紙には、びっしりと荷の目録が刻まれていた。
「……上出来だ」
路地裏の軒下、ルーカスは乾いた喉を鳴らし、トビーの肩を軽く叩いた。
「はい……!名前も、型の番号も、全部残ってます。……一個も、落としてません」
汗と煤で汚れた少年の顔に、もう怯えの陰はなかった。強く握りしめられたトビーの指先には、確かな自分の役割を掴み取った者の、静かな力がこもっていた。
頭上の高窓から差し込む鈍い月光が、小さな貸倉庫の石床を切り取っていた。一台の細身の荷馬車と、その傍らに積み上がった木箱の山。ランタンの黄色い灯りが、ふたりの影を土壁に小さく映し出している。
「よし……これで都市の預かりものは揃ったな」
ルーカスは手帳の目録と床の箱を交互に指で追った。ガルドから託されたレム村へのパーツと研磨油や型番控えと鉱石、砥石の注文書、イザックの試作消毒薬、特殊ポーション。どれも指の関節ほどの小さな、けれどそれぞれの生活の根を張った品々だ。
「……それと、こっちの大きいやつだ」
倉庫の隅から引きずり出した三つの木箱。中身は固い布で厳重に包まれた石鹸、縫い針の束、羊毛の糸、そして柄の太い切り出しナイフといった日用品だ。
トビーが眉をひそめ、擦り切れた木肌を撫でた。
「……これ、職人さんのじゃないですよね。こんなに持ち出すんですか?」
「俺たちの買い出し分だ。コモレビもレムも、俺たちにとっちゃ初めての場所だろ」
ルーカスは屈み込み、箱の角を確かめるように叩いた。
「初めて行く村で、何が足りてないか完璧に当てるのは無理だ。だが、石鹸や刃物、糸みたいな日用品は、どこへ行ったって腐らないし、常に誰かが探してる。何か困ってないかって聞いた時に、荷台からすぐこれを出せたらどうだ?」
トビーの瞳がハッとしたように動いた。
「……手ぶらじゃ、話も聞いてもらえないから……」
「そう。行ってみて『暮らしを知ろうとしてる』と伝われば、次は向こうから言ってくる。需要が見えない最初の街道ほど、日用品を余分に積んでいくのが鉄則だ」
トビーは頷き、荷台へと手を伸ばそうとした──が、木箱の山を前にした瞬間、指先がピタリと止まった。
「あ……ええと、イザックさんの薬瓶は……どっちの箱……?日用品は、下……?」
羊皮紙に書かれた細かな符号と、目の前の無骨な木箱。文字を素早く読み解くことへの苦手意識と、間違えれば全てが台無しになるという恐怖が、少年の呼吸を急激に浅くしていく。指先がガタガタと震え始めた。




