第2話
職人街を離れ、都市の外縁部へ足を進めるにつれ、空気から熱気が抜け、湿った泥と生ごみの混ざり合った匂いが立ち込めてくる。防壁の裾に張り付くように建つ木造の孤児院は、雨露をしのぐのが精一杯といった風情で佇んでいた。
軋む木戸を開けると、数人の子どもたちが足音を立てて寄ってくる。つぎはぎだらけの袖から伸びる腕は細く、差し出された視線が荷台の包みに集まった。
「……順番だぞ。押し合わない」
包みから取り出した硬い干し肉の切れ端とパンを配ると、奥から腰の曲がった院長が顔を出し、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ルーカスさん……いつもすみません、ご自分の商いだって大変でしょうに」
「余り物だから。捨てて虫を集めるよりマシだよ」
ざらついたパンを噛みちぎる子どもたちの音を聞きながら、ルーカスは袖口で汗を拭った。その時、奥の調理場で乾いた瀬戸物の擦れ合う音が響いた。
「こら、トビー!またそんなところで突っ立って……何時間かければ気が済むの!」
院長の鋭い声に、片隅で身を縮こまらせた少年が肩を跳ねさせた。
十二、三歳ほどだろうか。煤けた服の丈が余り、細い首筋が浮き出ている。トビーと呼ばれた少年は、ひび割れた薄いスープ皿を両手で包み込むように持ち、足裏を滑らせるようにして一歩ずつ歩いていた。
「……すみません、あの、割ると……困るから……」
掠れた声は、子どもの嘲笑にかき消された。
「またやってるよ、トビーのやつ」
「皿運ぶだけで日が暮れるぞー」
指をさされ、少年は顎を引いて視線を床へ落とした。小さく縮こまった背中が微かに震える。
だが、ルーカスの目は、その震えではなく少年の指先に釘付けになっていた。
重なった皿の重みを受け止める、微妙な指の角度。重心がわずかに傾くたび、手首の関節が滑らかに動き、皿の揺れを相殺している。歩幅は極端に狭いが、足裏が床を離れる瞬間まで、皿の上の水平は常に保たれている。
(……ノロマ、じゃない)
雑に扱えばすぐに割れてしまう粗悪な陶器を、手元の感覚だけで見事に調節している。 手先の精密さと、異常なまでの集中力。周囲の雑音が一切目に入らなくなるほどの、極端なまでの慎重さ。
トビーがゆっくりと棚に皿を納めた時、指先は一度も皿の縁をぶつけなかった。
ルーカスは乾いた唇を舐め、ゆっくりと少年に近づいていった。トビーの手元で、使い古された陶器が静かに重なる。他の子供たちが運ぶときに鳴るカチャカチャという頼りない乾いた音は、そこにはない。指先の微妙な柔軟さが、硬い素材同士が触れ合う衝撃を完璧に殺していた。
置く瞬間、摩擦すら感じさせない。悪路を行く荷台の上で、ガラスや生薬草を一切傷つけずに積む光景が、ルーカスの脳裏に重なった。
ルーカスは屈み込み、作業を続ける少年の目線まで腰を落とした。
「トビー」
少年が身をすくめ、肩を狭める。怯えの滲む瞳が、ルーカスを斜め下から窺った。
「……す、すみません……また、遅くて……」
「そうじゃない。……先週の木曜、ここに来た行商人を覚えてるか?」
トビーは一度まばたきをし、細い首を傾げた。視線が誰もいない空をさまよう。
「……青い帽子の人。右足を少し引きずってて……木箱が三つと、麻袋が二つ。一番上の箱に、型番四の短い鉄釘が二十本と、刃の欠けた鋸が二本。袋の中は、塩漬けのキャベツが十四個……」
息を呑む音が、自分の喉から漏れそうになるのを殺した。ルーカス自身、すれ違ったことすら忘れかけていた雑多な荷。メモすら取っていなかったはずの少年が、まるで目の前に箱を開けて見せるように言葉を紡ぐ。
「……全部、頭に入ってるのか」
「あ……はい。文字を書くのが、すごく遅いから……見たもの、覚えないと……怒られるから……」
頭を下げたトビーの首筋に、冷たい汗が浮いている。
ノロマではない。雑に扱うことができず、見落とすことができないだけだ。型番も、数量も、荷の痛み具合も、一度網膜に焼き付ければ忘れない。
手押し棒を握りしめてきたルーカスの掌が、じわりと熱を帯びる。
「……遅いんじゃない」
ルーカスは、トビーの煤けた膝の横に手をついた。
「誰よりも、手元が確かなんだ」
少年が顔を上げた。言葉の意味を解す術を探すように、口元をかすかに震わせ、ただルーカスの瞳を見つめ返していた。
「トビーを、連れていきます」
応接間の古い卓の上、ルーカスは擦り切れた革袋を置いた。中で金属が鈍く触れ合う音が落ちる。院長は痛む膝をさすりながら、困惑を顔に浮かべた。
「ルーカスさん……お気持ちはありがたいが、あの子は手際が壊滅的ですよ。荷を運ばせれば日は暮れるし、文字の読み書きすら怪しい。あなたの商いの足を引っ張るのが目に見えてます」
「あの手元と記憶が要ります」
ルーカスは革袋を指先で押しやった。
「前払い分と、ここの足しにしてください」
夜気を含んだ風が、孤児院の裏庭を吹き抜ける。井戸の滑車がかすかに軋んでいた。
「……僕が、ですか」
トビーは自分の泥のついた爪先を見つめたまま、喉を窄めた。
「む、無理です……僕、何やってもノロマで……すぐ怒られて……っ、ルーカスさんの邪魔にしかならないです……」
溢れそうになる息を殺すように、少年は細い肩を竦める。ルーカスは月明かりの下、湿った地面に片膝をついた。トビーの目線まで低くなり、そのこわばった指先を軽く包む。掌は小さく、冷たかった。
「お前が遅いのは、傷ひとつつけまいとしてるからだ。文字を書かないのは、見たものを全部頭に抱え込んでるからだろう」
トビーの呼吸が止まる。
「あの街の職人はな、雑に扱われて壊された道具にうんざりしてるんだ。その手と頭がなきゃ、俺のやりたい商いは回らない」
少年の瞳に、月光が反射して揺れた。
「……僕の、手が……?」
「そうだ。俺の目と耳になってくれ」
トビーの鼻の奥がツンと泣き出しそうに痛み、袖口で慌てて顔を覆った。ぐちゅぐちゅと鼻をすする音が、静かな夜の空気に混じる。何度も、頭が割れそうなほど強く頷いた。
「……行きたい、です……っ」
「よし」
ルーカスは立ち上がり、膝についた土を叩き落とした。
「じゃあ、最初だ。顔を上げろ」
「え……?」
「挨拶だ。どんなに確かな荷を運んでも、地面見て喋る奴に誰も大事なものを預けない。……胸を張って、俺を見ろ」
トビーはびくっと身体を硬くしたが、擦りむけた踵を揃え、おそるおそる顔を上げた。視線が揺れ、ルーカスの胸元あたりで一度止まり、そこからゆっくりと、青年の目へと持ち上がる。
「そうだ。で、声を腹から出せ。『おはようございます』」
「お、おはよう……ございます……」
「消えた。届いてない。もう一回」
トビーは小さく息を吸い込み、固く結んだ拳に力を込めた。
「おはようございます……っ!」
喉がかすかに裏返り、夜の裏庭に薄く響く。ルーカスは静かに口元を緩め、少年の煤けた髪をぐしゃりと撫でた。
「……いい声だ。明日、早いぞ」
「はい……!」
トビーは袖で雑に目元を拭い、小さく胸を張った。夜の冷気が、ふたりの呼吸を白く染めていた。




