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第1話

 地熱を孕んだ石畳から、油と獣脂の混ざり合った重い湿気が立ち上っていた。大通りを眩しく彩る魔石灯の光も、この裏路地までは届かない。鼻腔を突くのは、討伐部位の生臭さ、乾ききらない汗、馬糞、そしてそれらを強引に覆い隠そうとする安価な香辛料の匂いだ。


 手押し棒を握るルーカスの掌に、油分を含んだ湿り気がまとわりつく。指先で使い古された木肌の小さな棘を擦り合わせるように確かめ、浅く呼吸を整えた。


 二輪の荷車に積まれているのは、濁ったランプ油、自家製の革磨き油、黒ずんだ干し肉、そして端の丸まった羊皮紙の束。微々たる金にしかならない代物ばかりだ。


 ガタついた石畳を進みながら、ルーカスの視線がすれ違う人々の足元へと落ちる。三人組の冒険者。右側を歩く剣士の靴底は内側だけが極端に削れ、歩幅がかすかに乱れている。ここ数日、下層の不安定な岩場を歩き詰めた証拠。隣の弓手は、空になりかけた矢筒の縁に、無意識のうちに何度も指を滑らせていた。


 路地脇の薬売り。棚の最前列に並ぶ傷薬の瓶に、うっすらと灰色の埃が積もっている。透けて見える薬草はすっかり色が抜け、カサカサに乾ききっていた。


「どけっ、どけ!」


 荒い怒号とともに、背後から地響きが迫る。金の刻印を刻んだバロン商会の大型荷馬車が、狭い路地を歪ませるように押し通っていった。跳ね上がった黒い泥水。ルーカスは咄嗟に身をひねり、荷車をかばう。泥の飛沫が、右頬から首筋にかけて冷たくへばりついた。


 遠ざかる重々しい車輪の音。豪壮な馬車の去ったあとに、跳ね飛ばされた露店の小物が転がり、乾いた音を立てる。ルーカスは袖口で首筋の泥を雑に拭い、乾いた喉を鳴らした。


「……たく、相変わらず荒っぽい」


 誰に聞かせるでもなく呟き、手押し棒を持ち直す。汗で滑る掌をズボンで拭い、踏み出そうとして一瞬、指先が迷うように空を泳いだ。すぐに力を込め直す。


「ガルドさんのとこ、か。また油の納期で青筋立ててなきゃいいけど」


 軋む車輪の低い音を路地に響かせながら、ルーカスは煤けた職人街の奥へ、静かに歩みを進めた。

 職人街の奥へ進むほど、空気の粒子が粗く重くなっていく。舌の裏に残る鉄の錆びた風味。煤の匂いと、炉から噴き出す刺すような熱気が肌を焼く。


 ──ガン!ガン!ガン!──


「……くそがっ!」


 乾いた金属音が壁を打った。跳ね返った鉄の破片がコロコロと石床を転がり、ルーカスの靴底に当たる。使い古された布を押し上げ、狭い工房に入り込むと、そこは熱の溜まり場だった。炉の橙色に照らされ、太い腕を汗で濡らした男──ガルドが、乱れた息でハンマーを握りしめている。


「ガルドさん」


 ルーカスは懐から研磨油の小瓶と、針金の曲がった刷毛を取り出した。


「頼まれてた奴持ってきたよ」


 ガルドがぎろりと鋭い光を向け、鼻から荒い息を吐き出す。


「……遅ぇ。足にへばりついてんのか、泥が」

「時間通りですよ?……また火が、荒れてますね」


 作業台の横、赤みを失いかけている炭床を指すと、ガルドはフンと顔を背けた。


「荒れもするわ!朝からどいつもこいつも『研ぎ直せ』『補強はまだか』って騒ぎ立てやがって……!削る砥石もねぇのに何を研げってんだ」


 ガルドの手が作業台を乱暴に叩く。積み上がった羊皮紙が数枚、熱風に煽られて床へ落ちた。擦り切れた文字でびっしりと書き殴られた仕入れの控えだ。


「レム村まで、誰か走らせればいいのに」

「言われなくても解ってらあ!」


 吐き捨てられた唾が、熱を帯びた床で小さく爆ぜる。ガルドは太い首筋を固い手でガシガシと掻いた。爪が皮膚を掻く不快な音が混じる。


「往復で四日……買い出しも含めりゃ五日は店を空けることになる。……その間、誰がこの火を番すんだよ。一度冷やしゃ、元の温度に戻すのにどれだけの薪と無駄な時間を食うと思ってやがる」


 ガルドの喉の奥から、歪んだ息が漏れる。


「バロンの連中に頼めば、『そんな小口、運ぶ価値もねぇ』って鼻で笑われるか、足元見られて工房ごと持っていかれるのが落ちだ。……買いに行けねぇ、だから物が入らねぇ。物がないから仕事にならん。……笑えねぇだろ」


 分厚い指が、煤で黒く汚れた作業台の縁を強く握りしめる。白くなった指関節が微かに震えていた。


 ルーカスは返事をせず、床に落ちた羊皮紙を一枚拾い上げた。指先に伝わるざらついた感触と、油の匂い。首筋の泥が乾き、皮膚が突っ張るのを感じながら、ルーカスはガルドの手元を静かに見つめた。


 ガルドの店を出ると、暮れかけた空からしっとりと冷たい湿気が降りてきていた。油と炭の臭いに混じって、あちこちの軒先からくぐもった声が漏れ聞こえる。


「……またポーションの葉が届かねぇ。明日の納品、どうすんだよ」

「革のなめし液が底突いた。港まで買いに行きたいが、いま店たたんだら常連が他所へ流れちまう……」


 手押し棒を握る掌が、じんわりと汗ばむ。街には腕のある職人がいて、買い手もいる。なのに、仕入れのために店を空けられないという、ただそれだけの理由で仕事が滞っていた。


 大通りの大商会は、大型の馬車に高価な品を積み込み、一度の往復で大きな儲けを狙う。職人たちが求める指先ほどの小さなパーツや、束の薬草など、端から視界に入っていないのだ。


 ルーカスは足を止め、己の手押し車に視線を落とした。荷台には、油と干し肉。


(……決まった日に、この街道を巡る……?)


 頭の奥で、バラバラだった街の破片が音を立てる様に噛み合い始める。


 ヴァルハイトを出て、一番近いコモレビ村へ都市の雑貨を届ける。そこからレム村へ加工用のパーツ注文を流し、港湾都市シーガルへ向かう。そこまではいい。問題は帰りだ。


 港で仕入れた精製塩や工具、産物を積み、レム村で職人たちが切望するパーツ、鉱石を回収する。そしてコモレビ村で、朝摘みの生の薬草を荷台に滑り込ませて、その日のうちにこの街へ引き返す──。


「……循環させる」


 口の中で呟いた言葉が、白い息となって消える。行きも帰りも、荷台を空にしない。片道分の運賃で往復の荷を運べば、足元を見たような高額な輸送代を吹っかける必要もなくなる。


 職人は火を落とさずに済み、村は作物を適正な価格で流せる。


 ドクンと、胸の奥で重い鼓動が跳ねた。喉が渇く。


(……だが、待て)


 ルーカスは自分の擦り切れた指先を見つめた。どこで何を買い、誰に届けるか。型番一つ、薬草の鮮度一つ間違えれば信頼は吹き飛ぶ。悪路で繊細な品を壊さぬよう積み込む技術も要る。


 一人で御者を務め、膨大な買い付けの帳面を付け、荷を管理するなど到底不可能だった。


(……手元が確かで、数字に強い奴か)


 そんな都合のいい人間が、路地裏を這い回る自分に付いてくるはずもない。夕闇が影を長く引き伸ばす。ルーカスは乾いた唇を噛み締めると、手押し車を持ち直し、パン屋に寄り売れ残りを買うと街の外れへと足早に歩き出した。


 寄付の日用品を届けるために通っている、あの古い孤児院へ。

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