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第19話

 ガルドの工房前では、冷えた朝気の中で三人が作業台を囲んでいた。ガルドは足元へペッと固い唾を吐き捨てると、煤で黒ずんだ顎髭をガリガリと掻いた。


「……向こうの黒皮、朝から馬を鳴らしてやがる」


 ガルドの視線が、手元に置かれた鉄製のノギスに落ちる。


「ルーカス。俺のところの型鍛造は、あんなガラクタ積みに乗せる気はねぇぞ。輪っか一つ傷ついたら、組み付けで一分削らなきゃならん」

「分かってます、ガルドさん」


 ルーカスは広げた革帳の隅に、炭筆で印をつけた。帳面には、入り組んだ裏路地の工房名が細かく書き連ねられている。


「ですが、バロンがデカい馬車を出したおかげで、街の中の荷が浮いてます。大通りまで荷を持っていけない古い工房や、細かい部品のやり取りが、全部うちに流れてきてる」

「馬車一台で全部回るつもりか?街道の定期便だけでも、馬の脚が保たんぞ」


 ガルドが腕を組むと、厚い革のエプロンがギィと鳴った。


 ルーカスは答えず、膝を折ってトビーと同じ目線まで腰を落とした。トビーの肩に、ルーカスの指先が触れる。使い込まれた革手袋の固い感触が、服越しに肩の骨へ伝わった。


「トビー。今日から手押し車を使う」

「……え?」

「俺は馬車で表通りを回る。……街の中の集配は、お前に任せる」


 トビーの視線が揺れ、腰のメモ帳へ落ちた。親指が羊皮紙の端を固く折る。

「僕……一人で?」

「バロンのデカい車輪は、ここの裏路地に入れない。幅三尺の通りで、どの工房がどの型のネジを待ってるか……それを全部その頭と記号のメモに叩き込んでるのは、お前だけだ」


 ルーカスはトビーの羊皮紙を指先でトントンと叩いた。炭粉の丸い跡が紙片に残る。


「ガルドさんの精密パーツも、お前が手押し車で集める。……できるか」


 ガルドが短く鼻を鳴らし、鍛冶床の脇から木製の手押し車を引き寄せた。車輪の鉄環には、油が綺麗に塗られている。


「手押しなら、衝撃でカドが落ちることもねぇ。……トビー、うちの箱は下に敷けよ。重心が下がる」「……うん」


 トビーは手押し車の取っ手を握りしめた。使い込まれた木の柄が、冷えた掌にしっくりと収まる。喉の奥で、乾いた空気が短く音を立てた。


 指先から伝わる重みと、油の匂い。トビーは羊皮紙の紐を固く結び直し、脚の踏み込みに力を込めた。


「……ガルドさんの箱、一番下に積みます。……裏路地、全部回ってきます」


 ルーカスは一瞬だけ口元を緩め、立ち上がると馬車の手綱へと向かった。


 朝の薄光の中、二つの車輪がそれぞれの方向へと音を立てて動き始める。重苦しい黒い影が街を削り取る横で、細い手押し車の足跡が、入り組んだ裏路地の奧へ静かに刻まれていった。


 東側の空き地は、泥と油の臭いに満ちていた。『運賃半額』の札が掲げられた看板の周りに、荷車が数台重なり合っている。湿った土の上にじかに置かれた木箱の底から、水分が染み込んで木肌を黒く変えていた。


 ──ドガッ、と重い金属音が響く。


「おい、そっち詰めろ!隙間空いてんだろ!」


 作業員の怒声とともに、粗い麻縄が強引に引き絞られた。締め上げられた木箱の角が軋み、メリメリと木粉を散らす。


 集積所を見下ろす二階の通路で、ガストンが手すりに片肘を預けていた。仕立てのいい外套の裾に、下から舞い上がった土煙が微かに付着している。傍らで立ち尽くす現場監督の額には、油の混じった汗が固まりかけていた。


「支店長……本日の集荷、予定の四倍を超えました。……ですが、積み込みの仕分けが追いついておらず……」

「仕分け?」


 ガストンは手袋を嵌めた指先で、手すりの木目を小さく叩いた。


「載せて、運ぶ。それ以外の何が必要だ」

「ですが……ガラス器の箱の上に、鍛冶場の鉄材が載せられています。緩衝材の藁も、規定の半分しか入っていません。このまま走らせれば──」

「馬車は予定通り出す」


 ガストンは振り返りもせず、手帳を開いて淡々と数字を追った。言葉の調子に一切の上下がない。


「一週間で二往復だ。遅れた御者は日当から二割引け。壊れたぶんは規定の保証金で処理する」

「……馬が、持ちません。コモレビまでの峠で倒れます」

「代えの馬を買え」


 ガストンの指先が手帳のページを捲る。紙が擦れる乾いた音が一つ聞こえただけだった。現場監督は口を途中で閉じ、強張った足取りで階下へ戻っていった。


 下層の積み込み場では、黒塗り馬車の荷台へ木箱が次々と放り込まれていた。


「おい、これ取扱注意の印が捺してあるぞ!」

「知るか!載らねぇと怒鳴られるのは俺たちだ!」


 叩き込まれた木箱の隙間から、パリ、と小さな硬い音が漏れた。中のガラスが割れた音だったが、作業員は振り向きもしない。上からさらに重い梱包箱が叩きつけられ、その音は馬の荒い鼻息と車輪の重い軋みにあっけなく消された。


 手綱が強く引かれ、四頭立ての黒毛馬が泥を跳ね上げて走り出す。二重の鉄環を穿たれた太い車輪が、歪んだ木箱の山を載せたまま、歪な音を立てて街道へ踏み出していった。


 炉の火が、小さく爆ぜた。普段なら響いているはずの槌音はなく、工房の中には冷えた鉄と消し炭の匂いだけが淀んでいた。


 中央の作業台の上に、四角い木箱が置かれている。角の木材は裂け、側面に貼られた金糸の天秤ラベルは泥で汚れて半分剥がれていた。縛っていた麻縄は緩み、解けかかった結び目が力なく垂れている。


 作業台の脇に立つ若い職人キースの指先が、微かに震えていた。膝の裏が強張り、作業靴の中で指が固く丸まる。


「……開けろ」


 ガルドの声だった。喉の奥を掠めるような低い音が、薄暗い土間に落ちる。


「……はい」


 キースは釘抜きを木枠の隙間にねじ込んだ。ギシッ、と鈍い音がして、割れた蓋が外れる。


 敷かれた藁は薄く、底の板が見えていた。その上で、歪んだ鉄の歯車が二つ、重なり合うように転がっている。接していた面の刃先は削れ、細かい金属粉が黒く散っていた。中心の軸受け部分は、打撃を受けた痕を残して不自然に楕円へ歪んでいる。


 キースは箱の底から湿った紙片を拾い上げた。文字を目で追ううち、開いた唇から浅い息が漏れる。


「……違う」


 紙片を握る指に力が入り、目盛りの数字がクシャリと潰れた。


「型番が……違う。これ、うちの掘削機のギアじゃない。……建築用の、鋳物だ」


 周囲にいた職人たちが、無言で紙片を覗き込んだ。誰の口からも言葉が出ない。キースの喉仏が大きく上下し、膝がゆっくりと折れかけた。


「明日……納品なのに。……これがないと、組み上がらない……」


 工房の入口の暖簾が揺れ、バロンの腕章を巻いた仕分け員が足を踏み入れた。爪の垢を気にしながら、作業台へ視線を投げる。


「おい、届いただろ。受領の判──」

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