第18話
巨大な黒塗り馬車が落とす影の中、ガストンは静かに両手をコートのポケットへ滑り込ませた。革手袋が擦れ合い、微かな軋み音を立てる。その冷ややかな視線は、行き場を失った職人たちの頭上を、まるでただの景色のように見下ろしていた。
黒塗り馬車が投げかける巨大な影が、正午の街を少しずつ、冷たく塗り潰していった。
西の空が、濁った紫に沈んでいく。ガルドの工房の二階、わずかに傾いた木造の間借り部屋に、冷えた風がすきま風となって吹き込んでいた。
吊られたランプが、パチパチと小さな爆ぜ音を立てる。トビーは窓枠に両手を押し当て、爪先を少しだけ浮かせていた。固い木肌に押しつけられた指先が、白く強張っている。遠く南大通りから届く、重い車輪の軋みと大声の商談の音が、暗くなりかけた路地裏の空気の底をかすかに揺らしていた。
「……ルーカスさん」
声を出した途端、喉の奥が乾いて微かに咳き込んだ。
「さっき……ハンスさんの奥さんとすれ違ったんだ。……目が合ったら、手元の日記帳を抱え込んで、路地に入っていっちゃった」
トビーの爪先が降ろされ、床板がギィと軋む。指先で窓枠の節目をさすりながら、トビーはゆっくりと振り返った。指先には、薄く埃がついていた。
「ハンスさんのところ……あっちに頼んだのかな。だって、箱をいくつ積んでも半額だって……」
胸の奥が不自然に縮こまり、浅い息しか入ってこない。朝、コモレビ村からの包みを抱えたときのぬくもりも、指先に残る麻縄の感触も、遠い出来事のように霞んでいく。トビーの視線は、自分の足元に落ちたランタンの影へ吸い寄せられていた。
「……僕たちが、どれだけ冷たい水で布を濡らしても……道順を覚えても……半額のほうが、強いのかな」
声の終わりが不自然に途切れ、トビーは唇を強く噛んだ。歯の隙間に、薄い鉄の味が広がる。
ことん、と低い音がした。
視界の端に、歪な木製カップが置かれる。乾いたミントと干し草の匂いが、立ち上る湯気とともに鼻腔をくすぐった。
「飲むか」
ルーカスだった。袖を捲り上げた腕の皮膚に、かすかに馬油の匂いが残っている。ルーカスは自分のカップを両手で包み、湯気に息をひとふき吹きかけた。水面が細かく波打つ。
「ルーカスさん……焦らないの?みんな、バロンの馬車の方に……」
「焦って足元見落としたら、荷崩れする」
ルーカスは椅子を引き、腰を下ろした。木脚が床を擦る音が静かに響く。一口含んだハーブティーの温度を確認するように、喉仏が小さく動いた。
「半額ってのは、ただの数字だ。馬を四頭繋いで、重い車輪を回して、一回で運ぶ。……分かりやすい」「……うん」
「でもな」
ルーカスはカップを卓上に置き、トビーの前に広げられたままの羊皮紙。記号と線で埋め尽くされたメモに、指先を落とした。炭粉で黒ずんだ人差し指が、コモレビ村のマークの横にある『通気路』の記号をなぞる。
「あのデカい箱の中で、朝露草がどうなるか……あいつらは、箱を開けるまで考えもしない」
トビーはハッとして息を止めた。ルーカスの指先は、羊皮紙の上で静かに止まっている。その目元には焦りも波立ちもなく、ただ夕闇の落ちる街の灯りを淡々と映していた。
「冷めないうちに飲め。明日の積込み、少し早めるぞ」
ルーカスはそれだけ言うと、手元にあった革紐のほつれを静かに編み直し始めた。トビーは差し出されたカップを持ち上げた。指先に伝わる温もりと、わずかに渋いハーブの匂いが、冷え切っていた喉の奥へゆっくりと落ちていった。
湯気が少しずつ細くなり、ハーブの香りが部屋の隅へ溶けていく。トビーは木製カップの縁に唇をつけ、熱い液体をゆっくりと喉へ流し込んだ。喉の奥の強張りが、じんわりと解けていく。
ルーカスは立ち上がり煤けたランプの芯を微調整すると、細くなった炎の光が壁の木目を淡く浮かび上がらせた。
「……あいつらの荷台、見たか」
ルーカスが静かに言った。視線は窓の外の暗闇ではなく、卓上に広げられたトビーの羊皮紙に向けられている。
「大きな箱だ。上からどんどん放り込んで、ロープで縛って、馬を叩く。……荷物の一番下、何が入ってるか分かってると思うか?」
トビーはカップを包む手に力を込め、首を小さく横に振った。
「下になった草は押し潰されて、半日で芽が潰れる。刃物は擦れ合って刃こぼれする。……あいつらが運んでるのは目方(重さ)だ。品物じゃない」
ルーカスは腰のナイフを引き抜き、卓上の固くなった干し肉の端を小さく削ぎ落とした。刃先が乾いた音を立てる。
「安いからって理由で預ける奴は、もっと安い奴が来たらすぐに乗り換える。……それだけのことだ。そこに、何の残りカスもない」
削いだ干し肉を口に放り込み、静かに噛みしめる。ルーカスの視線が、トビーの炭筆で黒ずんだ指先へ移った。
「お前が濡れ麻布の厚さを変えてるの、あいつらに真似できるか」
「……できない。あいつら、箱の中も見ないで蓋閉めてた」
「ガルドさんの工具の型番、あいつらが一個ずつ覚えて配れるか」
「……無理。……絶対に無理」
「じゃあ、終わりだ」
ルーカスはナイフを鞘に収め、カチリと固い金属音を響かせた。
「俺たちが削るのは運賃じゃない。無駄な時間と、荷物を傷つけるリスクだ。……あいつらの馬車がどれだけデカかろうが、俺たちの荷台の積み方は変わらない」
ルーカスは身を乗り出し、トビーの肩口をぐっと掴んだ。粗い麻の服越しに、指の固い節が強く当たる。
「明日もいつも通り積むぞ。……手、抜くなよ」
トビーは短く息を吸い込み、袖口で目元を乱暴に擦った。布地に擦れた皮膚が赤く熱を持つ。喉の奥に固まっていたものが、熱い塊となって通り過ぎていった。
「……うん。……布、と藁もう少し多く用意しておきます」
トビーの声は小さかったが、力強くはっきりと聞こえた。ランプの炎が微かに揺れ、風が外の暗闇を吹き抜けていく中、部屋の中には乾いたハーブの匂いと、静かな呼吸音だけが残されていた。
翌朝の工房街には、灰色の粉塵が低く漂っていた。南大通りの方角から、木箱を叩きつけるような打撃音と御者の罵声が絶え間なく届く。集荷場へ群がる人波を掠め、安売りの看板を掲げた二輪車が石畳を走り抜けていった。




