第17話
黒ずんだ外壁の隙間から、薄い陽光が差し込み始めていた。石畳の凹みに溜まった煤混じりの水を、作業靴の底が踏みつける。かつて重苦しい湿気と腐った塗料の臭いしか漂わなかった路地裏に、いまは焦げた油と熱した鉄の匂いが立ち込めていた。
──カン、カンッ……キィィン。
ガルドの工房から届く金属音が、朝の冷気を微かに震わせる。鍛冶床の前に立つガルドの腕には、黒い油と汗が混じり合った筋が幾本も走っていた。握りしめられた大型ハンマーが振り下ろされるたび、火花が飛び散り、角型の手輪に重い打撃音が刻まれる。
「……ふぅーっ」
ガルドは腰の布で顔の汗を雑に拭うと、打ち直したばかりの鏨を光にかざした。先端の鋼は荒い研ぎ跡を残しながらも、冴えた青みを帯びている。
「ガルドさん」
手元で手押し車のロープを締め直していたトビーが、足を止めて声をかけた。ガルドは振り向かず、爪先で鏨の柄をトントンと叩く。
「……あ?ああ、トビーか。……これか?刃の噛みが違う。滑らねぇんだよ、前のみたいに。ガタが出ねぇ」
ガルドの親指が、新しく仕入れた海外製工具の刻印を固い皮膚で撫でた。そのまま短く鼻を鳴らすと、手元にあった使い古しの叩き鏨を足元のくず鉄箱へ放り込む。ガタリ、と重い金属音が響いた。
「おい、トビー。次の便、あっちの親方に頼んでた丸鏨の予備、二本増やせるか。……いや、三本だ。隣の若いのが横で指くわえて見てやがる」
「丸鏨、三本……うん、メモした。次の帰り便で入れるね」
トビーはポケットからメモ帳を取り出し、素早く炭筆を走らせた。指先に残る麻縄の擦れ跡が、わずかに赤く浮き上がっている。
路地を折れた先、錬金術師ギルドの調合室の小窓には、朝露草から抽出された緑色の液薬が並んでいた。ガラス瓶の表面についた水滴が、朝の光を拾って小さく光る。
「トビーちゃん」
小窓の格子越しに、若き女性錬金術師が顔を出した。袖口には乾燥した草の粉末が白くこびりついている。彼女は木箱の脇から、固く縛られた小さな布包みを取り出した。
「これ。コモレビ村の便に入ってたの」
受け取った包みは、ほのかに甘い干し柿の匂いがした。添えられた紙片には、歪な文字で『新しい鍬が届いた』とだけ短く墨で記されている。
「……あのね、ヴァルター様が珍しく調合を途中で止めなかったの。葉の擦り潰し傷がひとつもないからって。……はい、これ、村からの干し果物。持っていきなさい」
「……ありがとう」
トビーは包みを両手で受け止め、指先でその結び目を軽く確かめた。胸の奧が少しだけ熱くなり、吸い込んだ空気が鼻の奥をくすぐる。持ち上げた視線の先で、路地の角から足音が近づいてきた。
「あ、兄貴!」
孤児院の服を着た少年が、煤けた靴底を鳴らして駆け寄ってくる。後ろからもう一人、破れた袖を捲り上げた少女が続いた。
「兄貴、今日も外に行くのか?馬車に乗るのか?」
「今日は……街の荷卸しと、次の積み込み。走ったら転ぶよ、そこ、油が落ちてるから」
トビーは屈み込み、少年の解けかかった靴紐を指先で結び直した。トビーの腰にぶら下がる記号だらけの羊皮紙を、少年がじっと見つめている。指を伸ばしかけ、泥で汚れているのに気づいた少年は、ハッと手を引っ込めた。
「俺も兄貴みたいに、それ持って歩きてぇ!。山みたいな荷物、いっぱい運んでやるんだ!」
「……うん。靴紐、しっかり縛っておきなよ」
トビーは少年の肩を一度だけポンと叩き、立ち上がった。吹き抜ける風が、鍛冶場の煙と干し果物の甘い匂いを混ぜ合わせ、路地裏を通り抜けていく。
だが、その風が途切れた路地の深い影の中──積み上げられた空き箱の隙間から、一双の視線がトビーの足元と、馬車の荷台をじっと追っていた。薄汚れた外套の隙間から、バロン商会の紋章が刻まれた銅の呼び鈴が、音もなく揺れていた。
正午の陽光が南大通りを照らし、舞い上がった黄土色の土煙が光の粒となって漂っていた。軒下に置かれた桶の水面が、細かく震え始める。
──ズシン、ズシン、ズシン。
腹の底へ響く地鳴りとともに、石畳の継ぎ目から小石が跳ねた。街道を行き交っていた木こりや果物売りの脚が止まる。遠くの角を曲がってきたのは、路幅の八割を埋め尽くす漆黒の車体群だった。
──ガチッ、ガチッ、ガチッ。
二重の鉄環を穿たれた太い車輪が、路面の石を削りながら進む。引き連れられた四両の大型幌馬車。それを引くのは、胸板に厚い鉄装甲を宛がわれた四頭立ての黒毛馬だ。馬たちの荒い息が、白く濁った泡となって轡の端から垂れ落ちる。車体の側面に焼きつけられているのは、金糸で刺繍された天秤の紋章──バロン商会の刻印だった。
「ひっ……」
路傍の行商人が、引きかけた二輪荷車の取っ手を握り直そうとして滑らせた。黒塗りの第一輪が荷車の端をわずかに掠め、木の削り屑がパラパラと宙を舞う。馬車隊は速度を落とすことなく、そのまま広場の中央へと車体をねじ込んだ。
四両が完全に停車すると、車軸の軋む音が一斉に止んだ。最奥の馬車から、金と漆で飾られたステップが降ろされる。降り立った男は、油でなでつけられた黒髪を撫で、シルクの手袋を嵌めた指先で鼻孔を掠めた。バロン商会のヴァルハイト支店長、ガストンだった。
ガストンの指が軽く鳴る。背後の男たちが一斉に折りたたみ式の木製看板を開き、石畳の上へ叩きつけた。重い音が広場に響き渡る。
「……本日より」
男たちの一人が、紙片を高く掲げて声を張り上げた。掲げられた紙片が風に煽られ、乾いた音を立てる。
「バロン商会による南街区および周辺集落への一括定期配送を開始する。運賃は現行取引の半額。搭載量は十倍とする」
集まった職人たちの間で、短い息を呑む音が重なった。ガルドの工房の見習い職人が、指に巻いた布を握りしめ、前へ一歩出かける。喉仏が大きく上下した。
「は、半額って……コモレビやレムへの便は、ルーカスさんたちが……」
「荷が運べれば、誰の馬車でも同じだ」
ガストンは振り返りもせず、羊皮紙の束を胸元から引き抜いた。言葉の端々に、一切の熱が含まれていない。
「小さな荷台に載る分量など、知れている。一度に運べば、運賃は削れる。壊れたものは金で払う。……それだけだ」
ガストンの指先から落ちた革袋が、石畳の上でズシリと重い音を立てた。紐の隙間から、鈍く光る金貨の輪郭が覗く。見習い職人は言葉を呑み込み、開きかけた唇を閉じた。視線は、石畳に落ちた革袋の重みに吸い寄せられたまま動かない。周囲の商人たちの間にも、濡れた布を被せられたような沈黙が広がっていく。




