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第15話

 ルーカスは呼気を止め、左の手首をわずかに内側へ捻った。馬の耳がぴくりと後ろを向く。


「……右、抜けます」


 馬車の車体と、街道脇の削られた岩肌との隙間。馬車一台が掠めるのが限界の幅。


 トビーは咄嗟にアシスト席の木枠を指の節が白くなるまで握りしめた。奥歯がカチリと鳴る。


 ──ガタガタガタッ……ギシィッ!──


 右の車輪が路面の深い溝へ落ち込み、車体が大きく右へ傾いた。車軸が悲鳴を上げる。


 だが、跳ね上がるはずの荷台は、重く低い音を立ててすぐに地面へ落ちついた。


 最下層に敷き詰められたレム村の鋼材と海塩の塊が、車体底面を強烈に引き戻す。跳ね上がろうとする竹かごの揺れは最小限に抑えられ、湿った麻布の内部で葉と葉が擦れ合う微小な音が静かに収まった。


 トビーの首筋から汗が一筋、鎖骨の窪みへ落ちる。


 トビーは水筒の栓を抜き、かじかんだ指先で傾けた。冷たい水滴が濡れ麻布の表面に広がり、風に煽られて一気に蒸発していく。生薬草の詰まったかごの周囲だけ、小さな冷気の塊が留まり続けていた。


 ルーカスは振り返らない。手綱を握る指先にかかる馬の体温、呼吸の拍子、その全てを掌の皮膚で拾い上げながら、ただ前方の白く霞む街道の先を睨みつけていた。


 輪の回る音が、熱した土の上を切り裂くように続いていた。


 ──ギギ……ギシィッ。


 風が御者台の木枠を叩く。激しい風圧が頬の皮膚を引っぱり、吹きつける土煙が目の奥をちくちくと刺した。


 トビーはアシスト席の木枠に左手をかけ、右手に握ったメモ帳の端を爪で強く押さえた。指の関節が白く強張る。紙面に踊る、歪んだ丸と斜線の記号。


「……三十」


 トビーは喉の奥を鳴らし、前方の歪んだ熱気の中へ指を突き出した。


「右、大きな石あります。……左へ」


 ルーカスは返事をしない。ただ、手綱を握る左の手首を内側へわずかに傾けた。


 馬の右耳がぴくりと後ろへ倒れる。


 ──ヒヒィンッ!


 蹄が路面の削れた土を小さく削り、車体が滑らかな円を描くように左へ傾いた。右車輪のわずか指三本分横を、黒い落石の角がかすめて後ろへ飛び去る。


「……次、登ります」


 トビーの爪先が、揺れる床板の節を固く捉えた。息を吸い込むと、土煙と馬の汗の匂いが気道を灼く。


「段差、連続!右が落ちます!」

「……ん」


 ルーカスの右肩が大きく引き絞られ、体重が左のステップへ乗った。車体が激しく軋み、右側へ跳ね上がろうとした瞬間、二人の軸が同時に傾いて衝撃を打ち消す。木床がドスンと重い音を立てて接地した。速度は落ちない。


 トビーは足元の木枠を擦る自分の掌を見つめた。


 皮膚の皮が擦り切れ、微かな赤みが差している。半年前、荷台の端で膝を抱え、ただ車輪の音に怯えて指先を噛んでいた頃の記憶が、爪先の冷たさとして一瞬だけ脳裏をよぎった。


 トビーの指先が、記憶の記号をなぞる。


(……見えている)


 前方三〇〇メートル、道の凹凸、歪んだ車軸が通るべき細い筋。頭の中に残る光景と、目の前の土煙が寸分違わず重なり合っていく。


 ルーカスは正面を見据えたまま、手綱の革を握り直した。手綱を通して伝わる馬の体温と、隣から飛んでくる声の拍子。二つの振動が、掌の中で一つのリズムに溶けていく。


 ルーカスは唇を強く結び直し、息を鼻から小さく吐き出した。視線を前方から外さず、顎をわずかに引く。


「……次」

「前、見えました」


 トビーの声が、風を割って届いた。


「遠くに、都市の壁……影が、見えます」


 地平線の向こう、薄煙の破れ目から灰色の影が小さく持ち上がっていた。輪の回る重い音が、地表を削りながら速さを増していく。


 南門を覆う黒い外壁が、直射日光を受けて白くかすんでいた。


 門前の石畳には、荷車を引く人夫の汗の匂いと、ダンジョン帰りの冒険者が纏う乾いた血と煤の臭いが重く澱んでいる。人波の途切れない雑踏の奥で、検問待ちの列がうねるように停滞していた。


 ──ドドドドドッ……!


 蹄が石畳を叩く連続音が、街道の土煙とともに門前へとなだれ込む。


「な、なんだあいつらは!?」


 誰かの声が上がるより早く、ルーカスは手綱を引き絞り、馬車の鼻先を一般列から左へ切り切った。目指すは、脇に逸れた商人用の細いレーン。

 門脇の槍を立てかけた衛兵長が、目を見開いて立ち上がる。


 ルーカスは御者台から立ち上がりもせず、ただ顎を上げて短く息を吐いた。


「衛兵長!」


 トビーがアシスト席から、使い古した緑色の布を高く掲げた。端が擦り切れたその布が、激しい風に叩かれてバタバタと乾いた音を立てる。


 衛兵長の喉仏が小さく動いた。視線が布から荷台、そして馬の首筋に浮いた白泡へと走る。


「……通せ!引け、引けッ!」


 怒号とともに木製の遮断バーが跳ね上がり、軋んだ音が石壁に反響した。


「おい、待ちやが──」


 行商人の怒声が上がる前に、車輪の鉄輪が検問所の境界線を越える。ルーカスは振り向かず、左の手首をわずかに返して馬の頭を都市の内部へと向けた。


「……助かった!量が多いイザックの店じゃなくギルドに行くぞ!」


 言葉は風に削られ、石畳の通りへ溶けた。


 門を抜けた瞬間、煤と獣脂の焦げ臭い熱気が一気に鼻腔を刺す。張り出した軒先、不規則に突き出た看板、乱雑に置かれた薪の山。


「……次」


 トビーの声が、ルーカスの耳元で弾けた。メモ帳を握るトビーの親指が、紙の端を強く押しつぶしている。


「大通り、詰まってます。……右、雑貨屋の隙間!」

「……ん」


 ルーカスは右の引き手を絞った。


 ──キィィィッ!ガガガッ!


 左の車輪が石畳から浮き上がり、鉄の擦れ合う甲高い悲鳴が路地に響く。干された布が風を孕んで宙を舞い、粘土を捏ねていた職人の手が途中で止まった。


 飛び散る水滴。石畳の隙間から跳ね返る熱気。


 トビーは荷台のフチに膝を押しつけ、濡れた麻布の端を指の節で固く押さえ続けた。麻布の下から、ひんやりとした青い匂いがかすかに立ち上る。


「……坂」


 トビーの喉が鳴り、指先が前方の歪んだ光芒を指した。


「上ったら……あそこです」


 路地の切れ目、フラスコを模した銅製の看板が、陽光を反射して鈍く光っていた。馬の荒い鼻息が石畳を叩き、車輪が最後の坂道へと滑り込んでいく。

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