第14話
「そんなに……大丈夫なんですか?僕たち、損を……」
ルーカスは返事をせず、ただ鼻から息を浅く吐き出すと、計算尺を荷台の縁へ置いた。木が触れ合う固い音が響く。
ルーカスの視線が、荷台の奥へ向けられた。
そこには、シーガルで積み込んだ白い塩の袋が重たく鎮座し、レム村で積み直した鋼材の角が麻布の隙間から鈍い光を返している。
「あいつらは」
ルーカスは荷台のフチを指の節で軽く叩いた。
「行きの荷台を半分空けて走ってくる。馬の餌代も、御者の人件費も、全部この村の買い取り価格から引く」
ルーカスは計算尺の目盛りを一つ戻し、指先でそこを指し示した。
「うちは、都市から日用品を運んでここで下ろした。レム村には工具を届けて、シーガルでは塩と布と産物を積んだ。ここで下ろした荷物の時点で、往復の馬の餌代も、俺たちの飯代も、もう手元に残っている」
トビーの爪先が、地面の小石を無言で踏みつける。
「行きで……出ているから」
「そうだ」
ルーカスは羊皮紙の端を指で折り込み、皮の袋から銀貨を一枚ずつ取り出した。金属同士が触れ合う、冷たく澄んだ音が朝の空気に落ちる。十枚の銀貨が、手のひらの上で重みを増す。
「帰り便の荷物に、余計な運賃を乗せる必要がない。だから、この音の分だけ、そのまま村に渡せる」
トビーは差し出されたルーカスの掌を見つめた。銀貨の表面に、朝の薄光が反射している。
トビーの口元がわずかに緩み、小さく吸い込んだ息が胸の奥まで届く。言葉にはならず、ただ固く一度だけ首を縦に振った。
「……積みます」
トビーはメモ帳をポケットへ押し込み、濡れた麻布の待つ荷台へと背を向けた。駆け出す足音が、湿った土を力強く踏みしめていく。
銀貨の重みを握りしめたマーサの手指が、何度も何度も開き、閉じられた。爪の間に詰まった泥が、銀の光を小さく遮る。村人たちの目元に刻まれた皺が弛み、静かな息吐きが広場に重なった。
「トビー、次はここだ」
ルーカスの声で、トビーは荷台のフチに跳び上がった。
木床の奥には、シーガルで積み込んだ海塩の重い麻袋とシルクの反物、その隣にレム村の特級鋼材が黒々と鎮座している。鋼材の角が朝光を照り返し、冷たい圧力を放っていた。
トビーは両手の指を一度固く組み、掌の汗をズボンで拭った。頭の中で、荷台の四角い空間が細かい網目となって組み上がっていく。
「村長さん」
トビーは身を乗り出し、乾いた声を出した。
「一番冷たい川の水を……桶に二つ。それと、水気を吸う厚手の麻布を」
村長は返事の代わりに力強く顎を引き、すぐに向きを変えて駆け出した。
トビーは足元の鋼材へ手を伸ばした。金属の冷気が掌を刺す。その鋼材を荷台の最下部、車輪の真上へと滑り込ませた。重い音が床板を叩く。その脇へ、密度の詰まった塩の袋を隙間なく噛み合わせる。揺れを抑えるための、硬い底。
運ばれてきた桶の水に、トビーは両手を突っ込んだ。
「ひっ」
刺すような冷気で、手首の皮がキュッと締まる。湿らせた麻布を濡らし、固く絞る。太い腕の筋が浮き出た。
朝露草の根元へ、濡れた布をそっと巻き付ける。葉の表面に乗った真珠大の水滴を叩き落とさないよう、指先の力を極限まで抜く。
竹かごの底へ、その根元を差し込む。葉同士が触れ合い、かすかな擦れ音を立てる位置で止める。詰めてはいけない。風が死ぬ。
「……ここ」
トビーは荷台の側板の内側、直射日光が遮られる影の帯を指でなぞった。かごを左右の壁際に寄せて配置する。
さらに、シルクの反物と石鹸の木箱を、かごの前後に並べた。指二本分の隙間を正確に残して。
御者台からの風が、箱の隙間を抜け、湿った麻布を叩いてかごの底へと潜り込む。風の通り道に手をかざすと、濡れた掌の表面から一気に熱が奪われ、ひんやりとした冷気が指の間を吹き抜けた。
「……通る」
トビーの唇から、小さな息が漏れた。
荷台のフチに手をついていたルーカスが、前かがみのまま固まっている。視線がかごの配置と箱の隙間を何度も往復し、息を呑んだ。
ルーカスはそのまま荷台のフチを一度叩き、短く息を吐いた。
「風が死んでない」
「シーガルの港で……風が布の間を抜けていくのを、見ました」
トビーは腕まくりをした袖で、額に浮かんだ薄汗を雑に拭った。爪先に残る土の感触を確かめ、荷台から地面へ飛び下りる。
「……これなら、着くまで死にません」
ルーカスは返事をせず、馬の背へ回った。革の手綱を固く握り直す指先に、グッと力が入る。
「出すぞ」
「はい」
輪の軋む低い音が土を割り、馬車が動き出した。風が荷台の隙間をすり抜け、濡れた麻布を湿らせながら、緑の葉を小さく揺らし始めていた。
──カツッ、カツッ、カツッ、カツン……ッ!
乾いた爪先が土を穿つ音だけが、絶え間なく鼓膜を叩く。
山嶺の冷気はとうに霧散していた。天頂へ向かう陽光が首筋を直射し、皮膚の表面がじりじりと脂を浮かせる。街道の先から立ち上る土煙が、白く眩しい視界を歪めていた。
馬の首筋から溢れた白い泡が、飛沫となって御者台の板を濡らす。
「ハッ、ハッ……!」
荒い呼気が馬の鼻孔から爆ぜるたび、手綱を通じて伝わる振動がルーカスの肘を強張らせた。掌の汗で湿った革が、きしりと嫌な音を立てる。
ルーカスは顎を引き、乾いた唇を一度強く噛んだ。
(……上がっている)
指先で触れずとも分かった。背中に受ける空気の湿度が急速に失われ、熱を帯びていく。コモレビ村の冷気の中で張っていた葉の脈が、この熱に晒されればどうなるか。ルーカスは喉の奥に固い結び目ができるのを感じながら、舌を上顎に押し当てた。
「……荷台」
喉を絞り出すように発した低音は、風と蹄の音にかき消されそうになる。
トビーは返事をするより先に、体を反転させて荷台の奥へ手を差し入れた。麻布の表面に指先を押し当てる。
「……まだ、冷たい」
トビーの指先が、布の湿気を確かめるように二度動く。
「風……届いてます。中は、まだ冷たいです」
「坂だ」
ルーカスが短い吐息とともに手綱を引き直す。前方の視界が急に狭まった。
街道の斜面に、大商会とみられる大型の箱馬車が二台、横に並ぶようにして鈍い足取りで坂を登っていた。車輪の軋む重い音が、街道全体に鈍く響いている。土煙の密度が跳ね上がった。




