第13話
東の空が白む前、森の底は青黒い湿気に満ちていた。
──ポツン、……ポツリ。──
頭上を覆う広葉樹の葉先から濡れた塊が落ち、足元の苔を撃つ。ランタンの小さな橙色が霧を四角く穿ち、足元に群生する二枚葉の輪郭を浮かび上がらせていた。
息を吸い込むと、土の冷気とともに、青く刺すような匂いが鼻腔の奥にへばりつく。
トビーの爪先が濡れた腐葉土に滑り、体がわずかに傾いた。首筋の皮がキュッと収縮する。すーっ、と細い息を吐きながらランタンを低く構え直すと、光の輪の中でエメラルドグリーンの葉が小さく揺れた。葉の表面で、真珠大の水滴が逃げ場を探すように滑る。
その横で、村長が膝を折った。擦り切れた作業着の膝から、湿った泥の匂いが立つ。
「……ん」
村長の手首がわずかに捻られ、湾曲した小さな刃先が茎の根元へ滑り込む。
サク。
乾いた音が一つ。摘み取られた草が持ち上げられた瞬間、切り口から透明な汁が小さく爆ぜ、親指の腹を濡らした。村長の手甲に浮き出た脈が、静かに波打つ。
ルーカスは屈み込み、その切り口を覗き込んだ。指先で草の根元に触れる。ひんやりとした張りが、皮下を伝わって掌に届く。
「……日が高くなれば」
ルーカスが呟きかけた言葉を呑み込み、口元をすぼめた。視線は草から、馬車の荷台へ向けられる。
村長は返事をせず、ただ顎を小さく引いた。濡れた指先を作業着で雑に拭い、二本目の刃を入れる。
サク、サク。
トビーはポケットから小さな革袋と鉛筆を取り出した。かじかんだ指先が木肌を滑り、一度、爪甲を強く噛む。息を止め、記憶の形を紙の端へ殴り書きにした。
〇=緑∧=湿─=半日
鉛筆の芯が湿気で柔らかく紙を引っ掻く。トビーの喉仏がゴクリと上下した。
「……運ぶ」
トビーの声は低く掠れ、霧の中に溶けた。トビーの手首はすでに次の株へ伸びている。村人の指先を模するように、茎の根元へ指を添え、力の込め方を手探りで確かめる。
サク。
不揃いな音が一つ、森の静寂に落ちた。切り口から溢れた汁が、トビーの指の節を濡らしていく。
東の空の端が、鉛色から薄桃色へとわずかに色を失いはじめていた。誰も空を見上げない。ただ、ナイフが茎を断つ低い音と、籠の中で湿った葉が重なり合うサワ、という音だけが、朝の冷気の中で延々と繰り返されていた。
集会所の軒下に、濡れた編み籠が七つ並んでいた。
朝日が薄霧を突き抜け、濡れた葉の表面を刺す。甘い草の匂いに混じって、焦げた薪と土の匂いが漂っていた。
トビーは籠の縁に手をかけ、視線を指先から奥へと滑らせる。メモ帳を挟んだ指が、ふと止まった。
集会所の陰から、腰を折ったマーサが歩み出てくる。抱えた木箱の角が、すり減った麻の作業着に何度も擦れていた。箱を置くとき、乾いた木の音がひとつ、地面に落ちる。
マーサの指先は、かさついた皮がめくれ、爪の間に黒い土が残っていた。その手が箱の縁をなぞり、不自然に浅い息を繰り返す。
「……これも、持って行ってくれんかね」
声は低く、喉の奥でかすれた。
「イザックさんの分も……乾燥させたものも、全部ここにある。だが、この摘んだばかりのも」
マーサの視線が地上に落ちる。右手の親指が、左手の甲の深い皺を何度も強く擦った。皮が赤く変色するほどに。
「昔……大きな馬車が来たときは」
言葉の語尾が途切れ、マーサの喉仏が小さく跳ねた。
「半日も経てば枯れ木と同じだ、と。買い取るだけありがたく思えと……」
マーサの指先がかすかに震え、木箱の表面を爪で引っ掻くカリカリという音が小さく響く。周りの村人たちの肩が、一斉にわずかに強張った。一人が腕を組み、足元の石ころを無言で蹴る。
「若いのが……足の裏を血だらけにして摘んできたのに。銅貨を数枚、投げるように……」
マーサの目元に刻まれた皺の溝を、一筋の湿り気が伝う。それを拭うこともせず、ただ擦り切れた木箱の縁を握りしめていた。爪の先が白く変色している。
トビーは自分の袖口を固く握りしめた。布地が指の中で丸まり、掌に汗が滲む。奥歯の隙間から、冷たい空気がヒュッと漏れた。
ルーカスは黙って膝を折り、視線をマーサの高さまで下げた。ポケットから取り出した革袋を、木箱の横に静かに置く。革が擦れる低い音がした。
「イザックさんの指定分、それと乾燥品」
ルーカスは鼻から静かに息を吐き、足元の生薬草の籠へ視線を移した。
「これも、全部積みます」
「……全部、かい?」
マーサの眉間が寄り、押し殺した声が漏れた。首筋の筋が浮き立つ。
「途中で干からびたら、あんたたちの儲けが……」
「湿らせた麻布を、三重にします」
トビーが一歩前に出た。喉がカサつき、声が一瞬つっかえる。トビーは一度唾を呑み込み、自分の胸元に指をあてた。
「風の……通り道を作ります。底には隙間をあけて、水が溜まらないように……僕が、積みます」
トビーの指先が、鉛筆の固い感触を確かめるようにメモ帳を強く押しつけた。
マーサは開いた口をしばらく閉じられず、乾いた唇を何度か動かした。やがて、土で汚れた掌がトビーの頬に触れる。ひんやりとした、しかし硬く厚い皮の感触が肌を伝わった。
「そうか……」
マーサの呼気がトビーの額に当たり、すぐに朝の冷気に溶けて消えた。周囲の村人たちの肩から、ゆっくりと緊張が抜けていく。誰かが籠を持ち上げる重い足音が、土の上で静かに鳴り始めた。
朝日が木々の隙間を抜け、馬車のかたわらに立つルーカスの足元に細長い影を作っていた。
ルーカスは羊皮紙の端を指で押さえ、木製の計算尺の目盛りを親指で滑らせる。目盛りが刻まれた木肌が、乾いた音を立ててすれ違う。
「……五箱」
ルーカスは呟き、羊皮紙の余白に数字を滑らせた。
トビーが帳簿の横から覗き込む。ポケットから取り出した鉛筆を握る指先に力が入り、指甲が白く強張っていた。
「……大手の馬車だと」
ルーカスが計算尺の端をトビーに見せる。
「一箱、銅貨五枚。五箱で二十五枚」
トビーの目がわずかに見開かれ、喉仏が動いた。鉛筆の芯が羊皮紙の端をかすかに叩く。
「……でも、うちは一箱で銀貨二枚。十枚払う」
「ぎ、銀貨……十枚……?」
トビーの声が上擦り、息が喉の奥でつっかえた。トビーは咄嗟に振り返り、馬車の荷台とルーカスの顔を何度も往復させる。




