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ノロマの置き土産

 防壁の裾にへばりつく木造孤児院の朝は、いつも同じ澱んだ空気で始まる。


 きしむ板戸。使い古された井戸の冷たい水。顔を洗う子供たちの荒い息遣いは、いつだってどこか重苦しい。


 老いた院長は、すり切れて毛羽立った布巾で卓の表面を拭きながら、ふと動きを止めた。数日前にトビーがこの家を出ていったときの、あの小さな背中の感触が、なぜかまだ指先に残っている。


「……あの子、ちゃんとやれてるのかしらねぇ……」


 ひとり言は、薄暗い食堂の闇に吸い込まれて消えた。だが、それを合図にしたように、古びた鉄鍋の周りに群がっていた子どもたちの間から、ざわめきが漏れ出す。


「どうせまた、ノロマすぎて足手まといになり、泣きながら戻ってくる頃だろ」

「そうさ。皿一枚、素早くまともに運べない奴が、商売なんてできるわけない」


 冷ややかな声が次々と重なる。しかし、そのトーンには以前とは違う奇妙な引っかかり、言い知れない居心地の悪さが混じっていた。


 それもそのはずだった。トビーがこの孤児院にいた頃、朝の配給や片付けは、ただの「当たり前」として回っていた。トビーがいなくなった途端、その歯車が音を立てて狂い始めていることに、彼らはまだ頭では認めたくなかったが、肌で気づき始めていた。


 ざらついたスープをよそえば、乱暴に扱われた皿の縁が欠ける。熱さが均等に行き渡らない汁はすぐに冷め、誰もが少しずつ不機嫌になる。些細なことの積み重ねが、孤児院の空気をこれまで以上に重くしていた。


 室内の空気を切り裂くように、乾いた足音が響いた。


「おい、お前らなぁ……相変わらず本当に見る目がねぇな!」


 勢いよく木戸が蹴破られ、砂埃とともにその少年が飛び込んできた。泥だらけの服の裾を翻し、息を切らせるカイだ。手には、市場の木工細工の作業台の下から拾ってきた端材で作った、歪な木彫りの動物が握られている。


 院長が顔をしかめ、小言を言おうと口を開くよりも早く、カイは黒い瞳をぎらつかせ、食堂にいる全員を鋭く睨みつけた。


「さっきから聞いてりゃ、好き勝手言いやがって!トビーの兄貴が戻ってくるだぁ?笑わせんじゃねぇよ!」


 子どもたちがムッとした顔で睨み返す。しかし、カイは一歩も引かない。


「ちょっと聞くけどよ。数日前に兄貴がここを出ていってから、今日までで何か困ったことなかったか?朝の準備はスムーズか?雑用は滞りなく回ってんのかよ!」


 歯に衣着せぬ問答に、誰もが返答に窮して口をつぐむ。カイはさらに畳み掛ける。


「逆に、考えてみろよ。兄貴がこれまで仕事で皿を割ったことがあったか?高価な物やスープや鍋をぶちまけたり、誰かに怪我させたりしたことが、一度でもあったかよ!」


 その言葉は、冷水を浴びせられたように食堂の空気を凍らせた。


 ノロマ、使えない——そんな一方的なレッテルだけを頼りに、トビーを切り捨ててきた記憶が、静まり返った部屋の中で一人ひとりの脳裏に蘇る。


「……そういえば、オレ……」


 沈黙を破るように、一番体の大きな少年が、気まずそうに自分の靴先を見下ろした。


「前に、靴紐がひどくほどけて、石畳ですっころびそうになったとき……いつの間にか、足元にトビーがいて、さっと靴紐を押さえて結んでくれてたな……。あいつ、何も言わずにすっと離れていったけどよ」


 その声に呼応するように、別の少女も小さく呟いた。


「わたしも……。使い古しの重い鍋から熱いスープをこぼしそうになって、手が滑ってひっくり返しそうになったとき……トビーがすっと下から鍋底を下支えしてくれて……おかげで、大火傷しないで済んだんだっけ……」


 乱暴に扱われているように見えて、あるいは仕事が遅いと邪魔者扱いされていたその背中で、実はトビーが絶えず自分の身の回りの小さな危機を、音もなく、見返りも求めずに防いでくれていたという事実。その現実が、子どもたちの胸を鋭く突き刺す。


 卓の端に座っていた老いた院長は、自身の老いて痛む膝や腰をそっと手で押さえながら、重苦しい記憶を掘り起こしていた。


「……そうだよ……」


 院長のしわがれた声が漏れる。


「あたしが酷い関節の痛みに襲われて、朝になってもベッドから起き上がれなかったとき……あの子は何も言わずに、そっと冷めないように布を何重にも巻いた白湯を枕元に置いて、心配そうに、ただじっとあたしの顔を見つめていたっけ……」


 効率の悪さや、人付き合いの不器用さ、言葉数の少なさに隠れて、誰も見ようとしなかったトビーの無私の優しさ。その真実が、全員の胸に重く響き渡る。


「気づいてすらいなかったくせに、よくそんなデカい口が叩けるよな!」


 カイの怒気を帯びた声が響く。その小さな体からは、トビーを侮辱した連中への怒りと、抑えきれない誇らしさが溢れていた。


「兄貴はな、どんだけ怒られても、どれだけ時間がかかっても、めちゃくちゃ丁寧に物を扱ってたんだよ!」


 カイは子どもたちの一人ひとりを指差しながら、まくし立てるように真実を叩きつける。


「周りの奴らが誰も気づかないような、床板のきしみも、お皿の重心の偏りも、誰が今何を欲しがってたかも、全部あの頭の中で見て、覚えてやがったんだ。お前らがボーッとしてる間に、兄貴はいつだって孤児院の隅から隅まで気にかけてただろ!」


 カイの手にある歪な木彫りの動物が、感情の高ぶりに合わせて小さく揺れた。


「兄貴はノロマなんかじゃなくて、誰よりも周りが見えてるすげぇ奴なんだよ!……あんな優しくてすげぇ奴が、ずっとここで日陰者扱いされてるのが、俺はずっと許せなかったんだ」


 カイは胸を張り、吐き捨てるように言い放った。


「だからよ、ルーカスさんのところなら、絶対うまくやってくに決まってらぁ!兄貴の本当のすげぇところを、わかってくれる人がやっと現れたんだからな!」


 熱を帯びた言葉が消えたあと、食堂には重く、しかしどこか静まり返った空気が満ちていた。


 老いた院長はしわだらけの掌で自分の顔を覆った。効率の悪さや、日々の生活に追われるいら立ちばかりにとらわれ、少年の純粋な美しさを見誤り、傷つけ続けてきた自分への後悔が、胸を締め付ける。


 やがて院長はゆっくりと顔を上げ、曇った瞳の奥に、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。


「……そうだねぇ。あの子はただ、優しすぎて不器用なだけだった……。あたしたちは、目に見える数字や早さばかり気にして、いちばん大事なものを見落としていたのかもしれないね」


 その言葉に、子どもたちも気まずげに目を泳がせた。先ほどまでトビーを笑っていた者たちは一人、また一人と視線を自分の足元の床へと落とし、申し訳なさに肩をすぼめる。そこにはもう、冷ややかな空気など微塵も残っていなかった。


 静まり返った空気の中、カイは鼻を指の腹でこすり、照れくさそうに、しかし胸を張ってフッと笑った。


「へへっ、きっと今頃は街の向こうで、兄貴はすげぇ荷物運んでらぁ!」


 その声は、澱んでいた孤児院の空気をすっきりと払い落としていくようだった。


 窓の外に目をやれば、迷宮都市の青く広い空がどこまでも広がっている。遠く離れた街道のどこかで、いま確実に胸を張り、誰かのかけがえのない荷物を、あの丁寧な手つきで運んでいるトビーの姿。それを、孤児院の誰もが確信をもって心に思い描いていた。


 温かな静けさの中、かつての見捨てられた日陰者は、この孤児院の誰もが誇る存在へと、静かに昇華していった。

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