第12話
「どれだ。前期か、改良型か、指当てを伸ばしたやつか。レム村の男がどれを指指したか、言ってみろ」
カルロスは腕を組み、顎を叩く。
トビーの爪先が石畳を踏みしめた。頭の中で、図録を覗き込んでいたバドの太い指が再現される。油の染み込んだ指先がなぞっていた、紙面のわずかな凹凸。
「くぼみが、二つあるやつです」
トビーの声はぶれなかった。箱の中の金属片へ直進するように指を伸ばす。
「四〇二の改良型。鍛冶屋の太い指が滑らないように、柄の湾曲が深くて、目盛りがコンマゼロ一まで打ってあるやつ。バド親方の指は太くて、一つ穴だと肉が挟まるから」
カルロスの片眼鏡が、カチリと音を立てて位置を戻した。
トビーの指先は止まらない。隣の箱の中、奥に転がっていた黒ずんだハサミの柄を指す。
「クロード親方のハサミは、刃渡りが指三本分のやつ。根元に火山の印があって、柄の金属がやすりみたいにザラザラしてる四年目の型。安いハサミだと研いだ鉄に負けて刃がこぼれるって、床に叩きつけてたから」
図録の線と、叩きつけられた道具の重み。バドの右目の傷痕と、クロードの煤けた手首。
文字の羅列ではない。指の太さと道具の角が擦れる音が、トビーの頭の中で正確に噛み合っていた。
作業台の横で、カルロスの息が止まる。
男は開いた口を覆うように手を当て、ゆっくりと該当のノギスとハサミを持ち上げた。
柄に刻まれた二つのくぼみ。根元に刻まれた、小さな火山の印。トビーの指した通りの位置に、その輪郭があった。
「……お前」
カルロスの指先から力が抜け、ノギスがコトンとフェルトの上へ落ちる。
「文字も読まないような歳の小僧が……手触りだけで型を拾ったのか」
男は深く息を吸い込み、片眼鏡を外して前掛けの奥へ押し込んだ。荒かった鼻息が静まり、作業台の引き出しから油紙の束を取り出す。
「研磨石も持っていけ。一番目の揃ったやつを箱に入れてやる」
トビーは油紙に包まれたノギスの重みを両手で受け止めた。ひんやりとした鋼の冷たさが、汗ばんだ手のひらに心地よく馴染んでいった。
谷間を打つ金属音が、坂の上まで響いてきた。
車輪が石畳を跳ね上げ、広場へ滑り込むと同時に、煤で汚れた腕が次々と作業台から離れる。煙突から吐き出される黒煙の下、足音が重なって馬車を囲い込んだ。
「戻ったか!」
人ごみを押し分け、前へ出たバドの右目の傷痕が引きつる。固く握られた太い拳の関節が白くなり、肩が荒く上下していた。その横でクロードが前掛けの端を固く絞り上げている。
トビーは御者台の板を蹴って飛び下り、足元を固めると、荷台の奥へ両手を差し入れた。
引き出されたのは、革で二重に包まれた長方形の木箱。
広場を包む金槌の音がぴたりと止まり、水車の軋む音だけが残る。トビーは箱を膝の上で支え、結び目を解いた革を横へ滑らせた。
夕陽の赤い光が、箱の中に収まった鋼の輪郭を浮き彫りにする。
滑らかな銀色の光沢を放つノギス。根元に火山の印が刻まれたハサミ。そして、深い青みを帯びた長方形の砥石。
「……これ」
バドの分厚い指が、慎重にノギスの柄へ伸ばされる。
太い指が、持ち手の二つのくぼみに滑り込んだ。寸分の狂いもなく、男の硬い皮膚が鋼の窪みへ収まる。コンマ以下の目盛りに、夕陽の赤線がひとすじ刺さった。
バドの喉仏が大きく上下し、鼻から太い息が吹き出す。
「指が……挟まらねえ」
クロードが横から手を伸ばし、青い砥石の表面を指の腹でゆっくりとなぞった。ザラつきのない平滑な石肌に、男の煤けた指先が吸い付くように止まる。
「削れる……これなら、刃が逃げねえ」
男たちの吐息が重なり、太い手がトビーの肩を代わる代わる小突いた。頭髪を力任せに撫で回され、首筋が前後へ揺れる。
ルーカスが御者台の縁に手をかけ、一息で飛び下りた。
「親方」
ルーカスは荷台のへりを叩き、集まった男たちの顔を見回す。
「僕たちはこれからヴァルハイトへ戻ります。鉄と、都市へ運ぶ鉱石があれば、全部引き取ります。次回はその新しく届いた道具で叩いた物を」
バドがノギスを腰の革袋へ押し込み、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「言われなくてもな!」
男が背後へ向き直り、手のひらを振り上げる。
「奥の試作刃を出せ!ガルドの奴に見せつけるやつだ!」
男たちが一斉に動き出し、重い足音が工房の暗がりへ消えては、黒光りする鋼の塊を抱えて戻ってくる。荷台の隙間へ、滑らかな油の塗られた鋼材が押し込まれていくたび、車輪の軸がギシと悲鳴を上げた。
トビーは懐からメモ帳を引き抜き、レム村のページを開いた。
羊毛筆の先を噛み、濡れた筆先で金槌の記号の横へ、太い斜線を一本書き加える。
山から下りた鉄が海を渡り、海の向こうの道具が山で火を吹く。指の腹に残るノギスの冷たさと、荷台に積み上がる鋼の重みが、手元で静かに重なり合っていた。
西の空の端に留まっていた茜色がゆっくりと沈み、深い紫の影が街道を覆い始めていた。
車輪が土を踏みしめる音が、山へ向かう時よりもずっと深く、低い振動となって御者台へ伝わってくる。
荷台の光景は一変していた。
シーガルの港で手に入れた極上の白海塩二十斤が入った麻袋と、柔らかい肌触りの高級シルク布、なめし革と産物らが。その横には、レム村の男たちが粗い息とともに積み込んだ、油の匂い立つ特級鋼材と試作削岩刃が隙間なく敷き詰められている。
重い鋼を最下層に配し、その隙間を塩の袋と布の束で埋める。摩擦と重力が互いを押し合い、急な坂道で揺れても木箱の角ひとつとして揺らぐことはない。
「トビー、後ろを」
手綱を握るルーカスの声に、トビーはアシスト席の上で体を半転させた。
組まれた荷の山。隙間に指を差し入れ、ロープの張りを確かめる。革の紐が皮膚に食い込み、指先に確かな手応えが返ってきた。
「動かないです。どこも」
「そうだろうな。お前が角と重さを揃えて放り込んだんだ」
ルーカスが軽く鼻を鳴らし、街道の先へ視線を戻した。
「ヴァルハイトを出たときの荷台を覚えてるか」
トビーは爪先で御者台の板を静かに叩いた。
「ガルドさんのパーツと油……イザックさんの薬。それと日用品です」
「そうだ。で、今は何が積んである」
トビーは背後の荷の山へ目をやった。
コモレビ村へ持ち帰る塩の袋と布。レム村で叩かれた鋼と、シーガルから引き上げた産物。そして次の未明、コモレビ村で摘み取られる予定の朝露草を収めるための、空いた木箱の空間。
同じ木組みの荷台でありながら、車輪を押し潰す重みも、漂う匂いも、出立のときとはまるで違っていた。
トビーの手が、無意識に胸のポケットへ伸びる。
指の腹が触れたのは、端の丸まったメモ帳の感触。文字の形を作れず、裏路地で泥を跳ね上げられていたときの、冷たく強張った指先。
それが今、羊毛筆の芯を通じて紙を削り、職人の手と山の村、そして海の港を繋いでいる。
喉の奥がぐっと熱くなり、視界の端が小さく滲んだ。トビーは指の背で素早く目元を擦り、濡れた皮膚を夜風に晒した。
「……ルーカスさん」
「なんだ」
「僕、この馬車に……ずっと乗っていたいです」
トビーの声は、車輪の重い回転音に溶けていくほど静かだった。
ルーカスは手綱を握ったまま、一瞬だけ動きを止めた。やがて口元を緩めると、大きく手を伸ばし、トビーの頭髪を乱暴に撫で回した。
「乗ってろ。荷物が重くなるかぎり、どこへでも行く」
馬蹄が乾いた土を叩き、夜の帳が落ちていく街道を切り開いていく。
「次はコモレビ村だ。朝露草の葉が乾く前に、ヴァルハイトの門を潜るぞ」
「はい」
トビーは胸のメモ帳を固く押し当て、小さく息を吸い込んだ。
闇の中に伸びる車輪の跡が、薄明かりの下でかすかに白く光り、次の巡りへと続いていた。




