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第11話

 かじかんでいた指先に、じわじわと血が巡るのが分かった。心臓が胸の肋骨を叩く音が、馬蹄の音と重なっていく。


「シーガルで……探します」


 トビーはメモ帳を胸に強く押し当てた。角の折れた紙が、上着越しに皮膚を圧迫する。


「ノギスも、砥石も、塩も……一番良いやつを、見つけます」

「ああ」


 ルーカスが口元を緩め、手綱を大きく振った。


 潮の香りを乗せた強い風が荷台の毛布を押し上げ、馬車は水平線に向かって伸びるなだらかな坂道を、滑るように下りはじめた。


 丘の斜面を滑り降りるにつれ、視界を覆っていた木々の緑が引いていく。


 白く塗られた石造りの壁、傾斜の急な赤レンガの屋根。陽光を跳ね返す海原へ突き出すように伸びる街並みが、水面から上がる靄の中に浮かんでいた。


 ──ボーッ。


 重く低い角笛の音が、波音を割って響く。


 風の湿り気は粘り気を帯び、潮の匂いが喉の奥にへばりつく。頭上を白い翼がかすめ、甲高い鳴き声が石畳の広場に降り注いだ。


 御者台のトビーは、膝の上のメモ帳を握る力を忘れたように指を開いていた。


 アーチ状の門を抜けると、空気の密度が一気に変わる。


 頭に布を巻き、擦れ違う馬車へ甲高い声を張り上げる男。裾の長い色鮮やかな布を纏った女。背中に太い鉄片を背負った男たちが、狭い街路になだれ込んでいた。


 舌の回し方が異なる言葉の断片が、いくつも重なって耳を叩く。


「スリと馬車に気を配れ。荷の紐から目を離すな」


 ルーカスの声に、トビーは慌てて荷台の縄留めへ視線を落とした。だが、車輪の横を流れる光景に、再び首が引っ張られる。


 木組みの巨大な柱が立ち並ぶドックには、三本の太い柱を立てた黒い木造船が横付けされていた。滑車が滑る乾いた音とともに、太い縄で括られた樽や木箱が、空中をゆらゆらと運ばれていく。


 市場の露店からは、見たこともない丸み帯びた果実の甘い香りと、鼻を刺すスパイスの粉っぽさが吹き流れてきた。湿った氷の上に並べられた、濡れた鱗を光らせる魚の群れ。


 ヴァルハイトの路地を支配していた、鉄と黒煙の匂いはどこにもない。ここにあるのは、生臭い潮の香りと、いくつもの乾いた油の臭いだった。


「ルーカスさん……」


 トビーの爪先が、御者台の板を小さく叩く。


「……人が、多いです。箱も」

「根っこは変わらない」


 ルーカスは手綱を引いて馬車の足を緩め、競り市が開かれている一角へ顎を向けた。


 木箱の蓋が叩き割られ、中から黒い光沢を放つ角張った石材──ヴァルハイトの鉱山で削り出された魔石が露出する。木箱を取り囲む男たちが、指を立てて叫び、羊皮紙に素早くペンを走らせる。


 落札された木箱はすぐさま港の船倉へ担ぎ込まれ、入れ替わりで船の横腹から引き揚げられた白い袋の山が、内陸へ向かう小型馬車へと積み替えられていった。


「山の石が海を渡って、海の塩が山へ向かう。ここの市は、その結び目だ」


 トビーは乾いた喉を鳴らし、生唾を飲み込んだ。


 胸のポケットへ手を差し入れ、固い紙の角を指先でなぞる。


 コモレビ村で頼まれた、指先で摘まむ白い塩と膝の薬。レム村の男たちが作業台の上で指を立てていた、ノギスと青い研磨石。


 飛び交う異国の言葉も、巨大な船の影も、手のひらの上の記号を消すことはない。


「……行きましょう」


 トビーはメモ帳の上から胸を叩き、硬い紙の感触を骨に刻み込んだ。


「ギルドと……輸入店へ」

「ああ」


 ルーカスが手綱を打ち鳴らす。


 潮風を正面から受けながら、荷馬車の車輪は湿った石畳を噛み、人の渦の中へと進んでいった。


 高天井の吹き抜けに、生臭い潮の香りとスパイスの匂いが滞留していた。


 床に直置きされた麻袋からこぼれ出る粗塩、束ねられた色鮮やかな絹織物。取り囲む男たちの叫び声が重なり、湿った空気を振動させている。


「見ない顔だな」


 カウンターの向こうで指輪を嵌めた太い指が重なり、肥えた腹が机の縁を押し分けた。丸顔の男──フェルナンだ。油の浮いた顔の皮膚が弛み、細められた眼球がルーカスたちの擦り切れた袖口を舐める。


「ヴァルハイトのルーカスだ。助手のトビー。レム村の削岩刃のサンプルと、イザックの特殊ポーションを持ってきた」


 ルーカスの声は低い。


 フェルナンは鼻の穴を広げ、息を吐き出した。


「内陸の鉄か。こっちにゃ海を渡ってきた鋼が転がってる。ポーションも腐るほどある。……まあ、二分引きなら引き取ってやる。代わりに余った粗塩でも積んで帰れ」


 ルーカスは返さず、懐の革袋を引き抜くと、木製のカウンターの上に置いた。


 固い物体が木を叩く。袋の口が滑り落ち、中から漆黒の丸みが顔を出した。室内を交差する光を吸い込み、鈍い黒光りを放つ石。


 フェルナンの弛んでいた頬の肉が、ぴくりと跳ねた。両手を机につき、前かがみになる。


「……黒魔結晶」


 喉の奥から絞り出された声。


「なぜ、お前たちがこれを持っている」

「手繰り寄せた糸の先にあるからだ」


 ルーカスが一歩踏み込む。カウンターの木枠に指をかけ、至近距離で男の目を見据えた。


「これを渡す。レム村の刃も、イザックの薬も乾燥薬草もな。……まとめてあんたのギルドの帳簿につけさせてやる」


 フェルナンの喉仏が大きく上下した。指輪の嵌まった指先が、黒い石の表面へ伸びかけて止まる。


「条件は」


 ルーカスが後ろへ視線を送った。トビーの指がメモ帳の端を固く掴み、羊毛筆の先が紙面を突く。

「刃と薬は適正値の二割増し。それと、コモレビ村へ回す白海塩と、上質布三反を卸値で渡すこと。後、なめしの良い所を数枚と、産物を」

「……二割……」

「それから」


 トビーの声が割り込んだ。


 トビーはメモ帳を胸の前に掲げ、塩の記号を指の腹で叩いた。指先に力がこもり、爪が白くなる。


「白い海塩は、二十斤です。注文を受けたコモレビ村の二斤と、レム村、ヴァルハイトの分。……一番粗さのない、乾いたやつを二十斤」


 フェルナンの視線が、トビーの指先からメモ帳へ、そして黒く光る石へと往復する。


「二十斤だと……内陸の小さな荷車で持ち出す量じゃ……」

「引き取るか、別のギルドへこの石を持ち込むかだ」


 ルーカスが革袋の口に指をかけた。


 フェルナンの額から、一筋の汗が脂の浮いた皮膚を伝って落ちた。男は口の中で舌を鳴らし、固く結んだ拳で机を叩いた。


「……奥の倉庫から一番乾いた袋を出させろ!布も三反だ!革も持ってこい!それから乾物もだ!」


 男が背後の手下に怒鳴り散らし、帳簿へペンを叩きつける。


 トビーはメモ帳の塩の記号の横へ、墨をたっぷり含ませた筆先で二〇の数字を刻み込んだ。指先にこびりついた汗が、羊皮紙の端へ静かに染み込んでいった。


 細々したものを仕入れた後、訪れた輸入商会の重い木製扉を押すと、乾いた機械油の臭いが鼻腔の奥を刺した。


 天井まで届く棚の段々に、幾何学的な曲線を描く刃物や、細かな目盛りの刻まれた黒い金属片が並ぶ。奥の作業台から立ち上がった男は、片目に片眼鏡ルーペを嵌め、煤けた前掛けの端で手を拭っていた。


「内陸の行商が何の用だ」


 店主・カルロスの低い声。


 トビーは一歩前へ踏み出し、メモ帳のページを指先で叩いた。


「ノギスの型番四〇二。青い火山の研磨石、中目と細目を二箱ずつ。それから、鋼切りハサミの五号です」


 カルロスは片眼鏡をずらし、まゆげの端を吊り上げた。


「……言っておくが、冷やかしなら帰れ。四〇二と言っても年代で削りが違う。ハサミも刃の角度で五種類はある。職人の手の癖も知らん素人に売る気はない」


 男は鼻で息を吐き、棚の底から重い金属箱を三つ、作業台へ叩きつけた。


 ズドン、と木板が悲鳴を上げる。箱の中には、一見すると見分けのつかない三段曲がりのノギスと、微細な刃渡りの異なるハサミが整然と敷き詰められていた。

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