第10話
ルーカスは手綱を解き、静かにトビーの背中に手を添えた。
トビーは一段下り、足元を固めると、胸のポケットから歪んだメモ帳を引き抜いた。指の腹でページをめくり、刻まれた線を爪先で押さえる。
「バド親方」
トビーの喉が大きく上下した。
「ガルドさんから……精密パーツです。大商会のが、穴が小さくて、親方が作業を止めて削り直していたやつ。削り直さなくていいように、親方の型のサイズでガルドさんに作ってもらいました」
バドの右目の上の眉が、ぴくりと跳ねる。
トビーはそのまま横へ視線をずらし、腕を組んだままの男へメモを開いて見せた。
「クロード親方。研磨油です。硬い鉄を研ぐとき、安い油だと石が崩れて刃が滑るって……ガルドさんの工房で一番滑らかな油脂を二缶、布で二重にして積んであります」
男たちの視線が、紙の上を走る黒い記号と、トビーの顔を交互に往復する。
トビーは荷台へ跳び乗ると、隙間なく組み合わされた木箱の山から、毛布でくるまれた小箱を引き抜いた。迷いなく伸ばされた指先が、一切の引っかかりもなく箱を掲げる。
バドの分厚い指が毛布を剥ぎ取り、中から油紙に包まれた鋼鉄の塊を引っ張り出した。
男は手のひらで鋼の重みを確かめ、光にかざして表面の肌を滑らせる。そして、腰の革袋から取り出した試作の軸へ、パーツの穴をあてがった。
──カチリ。
金属と金属が滑り込み、寸分の隙間もなく噛み合う。遊びのない乾いた音が、静まり返った広場に響いた。
バドの指先がパーツから離れ、そのまま固まる。
やがて、男の分厚い唇が端から大きく吊り上がった。
「へっ……生意気な真似をしやがる」
バドは鋼のパーツを頭上へ突き出し、短く息を吸い込んだ。
「おい!削岩機の組み立てだ!道具を持ってこい!」
男たちの腕から一気に力が抜け、重い足音が石畳を叩き始める。
トビーは荷台の上でメモ帳を固く握りしめ、喉の奥に溜まっていた息を、長く、静かに吐き出した。隣で手綱を片付けるルーカスの横顔に、かすかに西日の光が差し込んでいた。
精巧なパーツの噛み合いが確かめられると、それまでの張り詰めた空気が途切れ、荒い息遣いと足音が広場を埋め尽くした。
広場に引き出された作業台のうえに、木箱から取り出された日用品が並ぶ。
細く伸びた針の穴を光にかざし、粗い指先で撫で回す男。重い作業着の袖口を捲り上げ、革用の油脂を手のひらに塗りたくる男。角の立った石鹸の匂いを嗅ぎ、煤けた首筋をゴリゴリと擦る男。
「二缶だ、置いとけ!」
「針を三本くれ!」
次々と差し出される硬い指。掌に落ちる銅貨の冷たさと重みが、トビーの手元に積み上がっていく。
「バド親方、クロード親方」
ルーカスが荷台の木枠に肘をかけ、顎を引いた。
「この村を抜けたら、そのままシーガルへ下ります。港湾ギルドには、ここで鍛えられた削岩機の替え刃を渡す手筈になっています」
「おう、試作品か。あっちの塩風で錆びねえよう油を塗っておいた。持っていけ」
バドが太い腕を組み、横に唾を吐く。
ルーカスは荷台の奥から、分厚い羊皮紙の綴りを引き抜くと、作業台の端へ滑らせた。乾いた紙の重い音が響き、図録が開かれる。
そこに描かれていたのは、黒いインクで緻密に刻まれた、見慣れぬ曲線を帯びた金物の画だった。
「……なんだ、これは」
バドの首筋の筋が浮き上がり、身を乗り出す。クロードが横から割って入り、紙の端を掴む指に力が入った。集まった男たちの吐息が、開かれたページの上に集まる。
「ノギス……目盛りが細かすぎる。コンマ以下の刻みが……」
「この砥石の目を見ろ。固め方が違う。うちの鋼の表面を、傷を残さずに削れる粒だ……」
男たちの視線が紙面に張り付き、まばたきすら忘れたように動きを止める。さっきまで叩かれていた鉄の熱気とは違う、息の詰まるような沈黙が作業台を支配した。
「おい、商人」
バドの手が、紙面の角を固く握りしめた。指の関節が白く浮き出ている。
「この曲がったノギスだ。型番四〇二。シーガルの港に入るなら、取れるか。金なら払う」
「俺は研磨石だ。青い火山の灰のやつ、二箱だ!」
「ハサミの五号だ!鋼を切るやつを頼む!」
吐息の束がトビーの顔を叩く。
トビーは懐からメモ帳を引き抜いた。羊毛筆の先を舐め、ざらついた紙面へ叩きつける。
三度にわたって曲がる二本の線。その横に、小さな四、〇、二の丸い刻印。山を模した三角の記号、その中に打ち込む細かな点々と中、細の線。ハサミの刃の交差と、五本の縦線。
「親方」
トビーは筆の先を止め、図録の隅に描かれた拡大図を指の腹で叩いた。
「ノギス……指をかけるくぼみが、二つある方で合ってますか。一つだけの型番もありますけど」
バドの顔が跳ね上がった。見開かれた右目の傷痕が歪む。
「……くぼみが二つだと?お前、この小さな描き込みが見えたのか」
「はい。二つのやつです」
トビーが眉をひそめず言い切ると、バドは鼻から短く息を吐き出し、力任せにトビーの肩を小突いた。
「それだ。二つのやつを持ってこい」
筆が走る。紙の端が、トビーの手の汗で少し湿っていく。
頼まれた道具の重さ、鋼の厚み、研磨石の粒の荒さ。声となって投げつけられた言葉が、記号の形をとって羊皮紙のうえに定着していく。
トビーはメモ帳を固く閉じ、胸の奥のポケットへ押し込んだ。
煙突から上る黒煙が西日に染まり、谷間を抜ける風が焼きついた鉄の臭いを吹き散らしていく。荷馬車の車輪はすでに、シーガルへ続く下り坂の方向を向いていた。
岩肌を叩く金槌の打撃音が遠のき、坂を下るにつれて風の尖りが丸みを帯びていく。
頭上を覆っていた煤けた空が抜け、青い葉の隙間から湿った日差しが落ちてきた。鼻腔を突くのは、焼きついた鉄の臭いから、ねっとりと舌に残る青く重い空気──かすかな塩の匂い。
車輪の回転がなだらかになり、ルーカスが短く息を吐いて手綱の張りを緩めた。
「トビー、鼻を鳴らしてみろ」
トビーは木枠を掴んでいた手を緩め、顎を上げて息を吸い込んだ。
肺の奥に届く湿り気。舌の根元に、うっすらと残るしょっぱさ。
「……塩の、匂い」
「そうだ」
ルーカスが鞭の柄で前方を示した。
木々の切れ目から、視界が一気にひらける。
地平線の向こう、霞む空の下に、太陽の光を浴びてギラギラと白銀にのたうつ巨大な水面が横たわっていた。
ヴァルハイトの黒く聳え立つ外壁と、薄暗い裏路地の天井しか知らなかった目蓋が、眩しさに細められる。どこまでも平らで、終わりの見えない青。トビーの喉が、ヒュッと小さな音を立てて縮こまった。
「手元の紙を見ろ」
ルーカスの声に促され、トビーはひざの上のメモ帳へ視線を落とした。
指先がなぞるのは、コモレビ村で引き戻した海塩の丸い記号と、膝を模した曲線。レム村で叩きつけられたノギスの折れ線と、青い火山灰を示す波線。
「山の男は、海の向こうの道具を欲しがってる。森の村は、海の塩がなければ膝を痛める。都市の工房は、山の鉄と村の草が届かなきゃ火を落とす」
ルーカスが短く手綱を打ち鳴らす。馬の蹄が、乾いた土を蹴る音が跳ね返った。
「大商会は、利益の薄い線を切り落とす。だが、切られた線の先にも人はいて、道具を待ってる。俺たちが馬車を走らせれば、止まってた線がまた繋がり直す」
トビーの手のひらに、湿った風が吹き抜けていく。
指先でなぞる墨の線が、ただの羊皮紙の凹凸から、遠く離れた人々の手のひらの感触へと姿を変えていくようだった。
針の穴を確かめていた村の女の指。ノギスのくぼみに爪を立てていたバドの太い手。ヴァルハイトで煤にまみれてパーツを削っていたガルドの背中。
そのすべてが、このメモ帳の小さな記号を介して、一筋の細い糸で手元に集まっている。




